長谷部浩ホームページ

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2018年12月16日日曜日

【劇評127】『スカイライト』小川絵梨子の緻密な演出

現代演劇劇評 平成三十年十二月 新国立劇場小劇場

私は職業として観劇をはじめてもう四半世紀以上が過ぎた。言葉は悪いがすれっからしの観客であるのはやむを得ないと思っている。それでも三年に一度くらいは、劇場で泣く。烈しく心を動かされたからである。
演出家小川絵梨子が新国立劇場の芸術監督に就任して初演出作品にあたる『スカイライト』(デヴィッド・ヘア作 浦辺千鶴訳)を観た。不倫の果てに分かれたふたりが、再開してお互いの価値観と人生の方向性について、火を吹くような議論を徹底して行う。言葉を決闘の道具として認識する西欧の戯曲を、いかに私たちのものとして認識させるかが課題となる。
かつて、レストラン経営者の夫婦に偶然出会って、店の責任者に起用されたキラ(蒼井優)は、今はロンドンのはずれで教師をしている。三年ぶりに夫婦の息子エドワード(葉山奨之)が訊ねてきて、刺激的な会話が始まるのだが、このふたりの関係は伏せられている。観客は、このふたりは姉弟なのか幼なじみなのか、わからないままに会話の行方を追っている。エドワードが帰って、さらにトム(浅野雅弘)がやってくる。次第にキラとこのふたりのこじれた関係があきらかになっていく。
その意味でこの戯曲は、人間の関係をめぐる探偵の役割を観客は負わされている。そのなかで、あらわになるのは、男女のあいだに横たわる支配欲や罪の意識や育ちによる価値観の相違である。作者のデヴィッド・エアは、人と人とは決して分かり合えることはないとシニカルな信念を持っているように思える。小川演出の特質は、それにもかかわらず、人と人は分かり合えるはずだと信じなければ生きていけないのだと舞台を通じて語っているように思われる。この美質をよく感じたのは、男が間違った意見を勢いで言ってしまったときに後悔、女はその発言を聞いて傷つくとともに、形勢が逆転するぞ、しめしめと感じるときの表情や所作を緻密に演出しているところだった。二村周作の美術は、荒涼とした二人の心の風景をよく写している。大団円はここではは、書かないが、ナプキンと焼きたてのトーストの香りがよみがえってくるとともに私は泣いた。二十四日まで。二十七日は兵庫県立芸術文化センター阪急 中ホール。

【劇評126】堤真一、段田安則、いずれが正しいのか。イプセン『民衆の敵』

現代演劇劇評 平成三十年十一月 Bunkamura

イプセンの劇作は、没後110年を超えても現在性を持つ。
その理由は、いくつか考えられる。ひとつは社会的な正義と現実的な妥協を、どちらの立場を正しいと断ずるのではなく、その双方にある欺瞞と偽善を暴き出しているところにある。さらに、この対立を『民衆の敵』では、性格の違う兄弟、『人形の家』では夫婦のような家族のなかでの対立としているところにある。公的な社会問題が、私的な家族関係に亀裂をもたらすときの不安と焦燥が見事に描かれているからだと思う。
今回、ジョナサン・マンヴィ演出によって演出された『民衆の敵』(廣田敦郎訳)は、兄の市長ペテルに段田安則、弟の医師トマスに堤真一を配して、対照的な人間の生き方を照らし出している。私たちはそこに、辺野古の埋め立てのような現在的な問題について解決のヒントがないかを探す。また、同じ血を受け継ぎながらも、その育ち方、職業の選択によって、まったく異なる価値観を持つようになった兄弟の不思議を思う。
マンヴィの演出は、現実に「民衆」を集団として動かし(黒田育代振付)、こうした民衆の無意識によって生まれる圧力が、いかに市長や医師のような公的な立場を持つ人間の決断を左右するかを突きつけられる。圧力に屈するというネガティブな側面だけではない。この圧力に反発して、逆に信念を貫き通す強さを与える結果をも描く。トマス医師とその家族、カトリーネ夫人(安蘭けい)、娘で教師のペトラ(大西礼芳)は、「民衆」からつまはじきになり、家に投石されようとも、この地に留まることを決意するのだ。
家族の側に立って、集会の場所を提供して力になる船長を木場勝己が好演。ポール・ウィルスの美術は、劇場全体にパイプをめぐらし、この劇が市の全体にめぐらされたパイプの問題であること。そして、中を見通せないパイプのなかには、恐ろしい腐敗があると告げていた。二十三日まで。また、二十七日から三十日まで大阪、森ノ宮ピロティホール。

2018年12月10日月曜日

【劇評125】「阿古屋の琴責め」を玉三郎、梅枝、児太郎の三人が勤めるのが話題

歌舞伎劇評 平成三十年十二月 歌舞伎座夜の部 
歌舞伎座夜の部は、「阿古屋の琴責め」を玉三郎、梅枝、児太郎の三人が勤めるのが話題。昼の部の「お染の七役」でも玉三郎は監修にあたり、壱太郎を指導している。玉三郎の当り役を、直接下の世代にではなく、歳が隔たる世代へと移していく。三之助の東横劇場の時代、孝玉の演舞場時代、浅草歌舞伎の時代を思い出すが、今はこうした若手花形が歌舞伎座で機会を与えられる世の中となった。
今の時点で、玉三郎、梅枝を観た。
琴、三味線、胡弓の三弦によって、景清をかくまっているかいなか。心境を読み取らせるには、楽器が手に入っていなければ成就するわけもない。当然のことながら玉三郎は圧倒的な技倆で、澄み渡った心境を示す。当代の第一人者の風格である。 彦三郎の重忠は、捌き役としての力量が備わってきた。「対決」の細川勝元を演じる日も近いだろう。玉三郎が阿古屋を勤める日の岩永は松緑。仁にあった役だけに憎々しく、しかも重みがある。
梅枝の阿古屋は初役とは思えぬだけの力がある。台詞、所作ともに確かな技芸を育ててきたが、この大役で急に開花した。楽器の手に誤りがまじるのは、いたしかたない。けれど、それを上回るだけの心境の充実があり、次第に景清への思いが深まっていくのがわかる。白眉は遠い日の思い出を語る三味線のくだり。また、傾城である身をなげく気持ちも伝わってきた。
玉三郎の岩永は、文楽の人形をよく研究している。瞼に目をかく、眉の動き、黄色い足袋の両足が浮く。人形振りに留まらず、人形写しというべきだが、これほどの美貌の持ち主がやらねばならぬのかとの思いはある。みずから教えた梅枝、児太郎の後見を勤める心もあったのだろう。
続く『あんまと泥棒』は、中車、松緑ともに絶好調。前半は中車のあんまがひとりで芝居を運んでいく。夜の闇、ついていない夜更け、あんまの孤独、いずれも写実であるかと思えば、極端な誇張もある。後半、あんまが泥棒を酒の力を借りて追い詰めていく過程を面白く見せる。中車に突っ込んでいく勢いがある。松緑は受けの芝居にすぐれて、はじめは時の経つのをあせり、苛立っているが、次第にあんまの境遇に心を寄せていく切り替えがうまい。世話物のある部分は、おのふたりが担っていくと思わせた。
キリは新作舞踊の『傾城雪吉原』。表情と優雅な手の動きで綴っていく。もちろん、舞踊家の名人が晩年に踊る『雪』とは異なる。ゆるやかな動きが観客を魅了するが、どこか美しい静止画の連なりを観ているような心地がした。二十六日まで。

【劇評124】時代と世話を自在に操る技藝が、吉右衛門から菊之助に舞台の上で伝授されている

歌舞伎劇評 平成三十年十二月 国立劇場

大立者がずらりと揃う大顔合わせには醍醐味がある。また、若手花形による清新な座組が歌舞伎界を変えていくこともある。前者には、歌舞伎座のさよなら公演があり、後者には勘三郎(当時・勘九郞)と三津五郎による八月納涼歌舞伎の出発が近年の例となる。
もとより、大立者から若手まで、すべての世代が揃った一座がもっとも安定した芝居を作ることが出来るのはいうまでもない。まして、手慣れた古典ではなく、復活狂言や新作では、充実した座組が望ましい。
今月の国立劇場は、『通し狂言 増補双級巴 ー石川五右衛門ー』(三世瀬川如皐作 国立劇場文芸研究室補綴)。「壬生村」と「木屋町二階」の復活が焦点にある。
詳細は追ってみていくとして、「山門」を趣向で町屋に移した「木屋町二階」の幕切れ、吉右衛門の五右衛門、菊之助の久吉の絵面。そして、大詰「明神捕物の場」の幕切れ、吉右衛門、菊之助に、歌昇の早野弥藤次を加えた三者の幕切れがすぐれていた、それぞれの芸容の対比、型の揺るぎなさ、分をわきまえた居所があいまって、歌舞伎の美を伝えていたのだった。特に大詰は、その前に「隠家の場」で、吉右衛門と、五右衛門女房おたきの濃厚な芝居がある。おたきの継子いじめは、五右衛門の息子五郎市を盗賊としたくなかったがためとのモドリがある。このしっかりとした芝居があってこそ、立廻りと引っ張りの見得が生きる。これも、芸力のある充実した座組あっての大詰だった。
発端に戻る。今回の「芥川の場」は、五右衛門が大悪党となった因果を示すために書き加えられたのだが、いまひとつ説得力に乏しい。京妙の奥女中しがらみから、金を奪ったのはわかるのだが、子を孕んでいるのが言葉で示されるだけでは、因果の深さ、怖ろしさを観客に伝えるのはむずかしい。
続く、「壬生村」は、米吉の小冬、身売りを軸に描く一幕。いがみの権太ではないが、吉右衛門の五右衛門は、家族に対する親愛がまずある。けれど、大きな野望に取り憑かれた人間の狂気もある。この相反するかに見える肚は、現実世界では実はありがちなことではなかったか。悪徳経営者が実は家族思いなどというのは、通例であろう。吉右衛門は、この分列を単なるお芝居ではなく、人間の業として描くだけの力量がそなわっている。歌六は、五右衛門と小冬の父次左右衛門。先の場で女中しがらみの腹から取り出した子が、実は五右衛門だったとわかる。歌六は篤実な芝居に徹している。
二幕目第一場「松原の場」、桂三の中納言氏定が、追いはぎにあって、しかも威儀を正して花道を行列していくのは、すでに桂三の手に入った芝居。続く「行列の場」では、籠にのった菊之助の久吉が初めて登場する。単なる白塗りの二枚目ではなく、天下を望む野心家としての肚を見せる。ここで、五右衛門と久吉は同根であり、恵まれぬ生まれから天下人に成り上がろうと懸命にあがいている二人の相克がこの芝居の核心にあると分かる。
三幕目「奥御殿の場」は、雀右衛門の傾城芙蓉、錦之助の足利義輝、又五郎の三好長慶、御台綾の台と実力者が揃った。そのために、荒唐無稽な趣向の場が、おもしろい遊びとして成立している。後半、五右衛門と久吉の言葉の達引きが充実している。時代と世話を自在に操る技藝が、吉右衛門の導きによって、舞台の上で伝授されているのがよくわかる。十代、二十代を音羽屋の二枚目、若女方として成長した菊之助が、今後、時代物の立役を勤めていくにあたって新境地を開こうとしている。
宙乗りによる葛籠抜けもあり、こうした芝居の充実があるから、十二月の公演としては、かつてない水準を示している。歌舞伎本来のおもしろさを噛みしめることの出来る舞台となった。二十六日まで。

2018年12月7日金曜日

【劇評123】松也の心の闇。壱太郎が芯の悪婆は玉三郎写し

歌舞伎劇評 平成三十年十二月 歌舞伎座

年の瀬の歌舞伎座は、玉三郎を座頭とする一座、若手花形を大胆に抜擢した番組で評判となった。
昼の部はまず『幸助餅』(今井豊茂補綴。演出)から。松竹新喜劇ではなじみのある演目で、私も子供時代に藤山寛美で観た思い出がある。平成十七年一月で鴈治郎(当時翫雀)によって大阪松竹座で歌舞伎として上演された折りは、見逃している。
芯となる大黒屋幸助を松也、敵役となる関取雷五良吉を中車が演じる。人のよい大阪商人の幸助は、相撲の贔屓で雷五良吉に身代を傾けるほど入れあげる。雷が江戸へ転じたのち、幸助は大店を夜逃げ同然で追われ裏店にくすぶっているが、大関になったとお礼に現れた雷に、再起のために妹を廓に売った金まで入れあげようとする。幸助の妻おきみ(笑三郎)幸助伯父五左右衛門(片岡亀蔵)は、雷にいったん渡した金を返してくれと求めるが、雷は応じない。この恨みに奮起した幸助は、幸助餅の店を開いて大繁盛となる。
どんでんがえしのある典型的な人情噺だが、松也が演じると単なる人のよい男ではなく、パトロンとなり金を分不相応につぎ込んでしまう人間の業が浮かび上がってくる。ある種の心の闇がほのみえるのが手柄。これは大阪で作られた台本に本来ひそんでいるものだが、松助と演出がうまく引き出している。
中車は世話物を演じて、写実に徹するかに思えるが、実は時代に張る部分もあって融通無碍な芸に達しつつある。前半、まったく肚を割らないのもすぐれている。廓の三ツ扇屋の女将に萬次郎。さすがに虚飾と実のあわいにある稼業の女将の雰囲気を出す。芸者秀ゆうは笑也。出番は少ないが仇な色気が出た。幸助妹は児太郎。可憐な魅力がある。
続いて、玉三郎監修の『お染の七役』。序幕からお染、久松、竹川、お光、小糸とめまぐるしく早替りを見せる。早替りは極端な役柄の打ち出しが必要だが、壱太郎の懸命な勤め方が胸を打つ。芝居としては、壱太郎が土手のお六となってからの小梅莨屋から油屋見世先の強請場が見どころ。松緑の喜兵衛という役にうってつけの先輩が、がっしりと壱太郎の悪婆ぶりを引き受けている。油屋に入ってからは中車の久作、彦三郎の清兵衛、権十郎の油屋太郎七と世話物の役者も揃って、松緑、壱太郎が自在な芝居を見せる。それにしても、玉三郎の指導に忠実に、忠実にと教えを墨守しているのだろう。まずは、ここから。のちに二度目、三度目を勤めるとき、独自の色を出してくるのが楽しみな出来であった。歌舞伎座の幕切れ「まずはこれぎり」を二十代の壱太郎がひとりでいったのは、何と言ってもその身の誉れ。一生の思い出になるに違いない。二十六日まで。

2018年11月15日木曜日

【劇評122】清新にして、台本のおもしろさを伝える猿之助の『法界坊』

歌舞伎劇評 平成三〇年十一月 歌舞伎座

吉例顔見世大歌舞伎。
夜の部はまずは『楼門五三桐』を、吉右衛門の五右衛門、菊五郎の久吉の顔合わせでみせる。結構なのはいうまでもない。吉右衛門は台詞回しの技術を、技巧と感じさせない。大道具の豪華さ、鷹の加える血染めの片袖が重要な意味を持つこの狂言のおおらさがある。菊五郎は立っているだけで知将の趣きがあり、何も足さないことの大切さを教えてくれる。この顔合わせを新鮮に見せるのが、歌昇の右忠太、種之助の左忠太。若手花形のなかでも、吉右衛門の指導を受けて、技藝に熱心なのがこの役でもわかる。
続いて、雀右衛門がお京を勤める『文売り』。島原の遊女の心情を訴える件にすぐれる。また、「シャベリ」も単なる踊りに終わらぬ趣向があり、『嫗山姥』を清元に置き換える愉しみにあふれている。『白石噺』の宮城野を雀右衛門で観たくなった。
続いて『法界坊』(石川耕士補綴)を猿之助が通す。言わずと知れた十八代目勘三郎の当り狂言で、命日も近く、追善興行も続いているので、どうしても故人の俤を意識した。実際、猿之助の法界坊を観ると、勘三郎とはまた、違った面白さがあって、夜の部の大半を費やすだけの価値がある。石川の補綴は、その意味でも周到である。猿之助は生臭坊主のあくどさよりは、軽妙なおかしさをかもしだす。そのため、この芝居が同じ筋を別の役者で繰り返す「鸚鵡」で成り立っていると強調する。猿之助だけではなく、鸚鵡を演じる役者たちも立っている。
團蔵の源右衛門に重みがある。巳之助の奴五百平、種之助の野分姫と、弘太郎の長九郎と若手を起用しているのも近年の傾向で、彼等が懸命に舞台を生きているのがうれしくなる。
尾上右近のおくみは、女方の華やかさと芝居の確かさがあって出色の出来。猿之助が「歌舞伎座で一番いい男だとおもっている」とからかう楽屋落ちが、あながち冗談では内のが隼人の要助。長身でありながら、悪目立ちすることなく、柔らかみが出ている。
なんといっても、『法界坊』を支えるのは道具や甚三の歌六。これも猿之助が「いい型だね」と嘆息するが、立っている姿が歌舞伎になっているのは、大立者の証拠。歌舞伎役者の身体はこうあらねばならぬと指し示していた。
大喜利となってから、猿之助は法界坊の霊と野分姫の霊を勤めるが、女方の様子がいい。渡し守おしづは雀右衛門で、右近のおくみと猿之助のあいだを捌く貫禄に満ちている。二十六日まで。

【劇評121】菊五郎、時蔵、吉右衛門。大顔合わせで魅せる『十六夜清心』

歌舞伎劇評 平成三〇年十一月 歌舞伎座 

歌舞伎座の吉例顔見世。今年は、京都南座が新開場したために、東京は菊五郎、吉右衛門のふたりを芯に据えた座組。時蔵、東蔵、松緑、又五郎、歌六、雀右衛門、團蔵、猿之助が加わる。
昼の部は何と言っても、菊五郎の清心、時蔵の十六夜に、吉右衛門が俳諧師白蓮で加わる大顔合わせの『十六夜清心』が話題となる。菊五郎は黙阿弥の台詞が手に入っており、さらさらと張らずに歌っていく。「女犯の罪を」以下の重大といえば重大な件も、重くならない。罪の科よりは、運命に翻弄されたいい男を見せていく。時蔵の十六夜は、役を大きく見せようとするあせりなどみじんもなく、相手の菊五郎に合わせていくやり方で、ただただ哀しい。追い詰められたふたりの心中が決して成就しないところに悲喜劇があり、ふたりがともに舞台を踏んできた歴史があって、説得力を持つ。なんとも大人の十六夜清心である。
この世話物に洗練を重ねたふたりに、吉右衛門が加わる。思いがけなく十六夜を大川から引き当て「悪くねえなあ」とひとりごちるときに肚の底に悪がひらめく。どしっとした江戸の大悪党が俳諧師と見せている黙阿弥の仕掛があらわになる。清心に金を奪われる求女は梅枝。若女方として抜きんでた素質を持つが、難しい若衆を演じて匂い立つ美しさだ。台詞回しも安定している。
この狂言の話題は、役者ばかりではない。尾上右近が清元の太夫、栄寿太夫として初目見得。舞台度胸があるのは子役からで、声質が安定していて、安心して聞いてられている。「二刀流」が大リーグの大谷で話題だが、右近もまた、初々しい太夫ぶりで魅せる。
いまさらながら、幕切れ、絵面の大きさは比類ない。
朝幕は、時蔵が芯
となり、又五郎、東蔵が芝居を支える『お江戸みやげ』(大場正昭演出)。川口松太郎の代表作だが、くどくなく江戸前で、すっきりとした佳品である。
また、所作事は『素襖落』が出た。松緑の太郎冠者、坂東亀蔵の鈍太郎、巳之助の次郎冠者、種之助の三郎吾、笑也の姫御寮、團蔵の大名。松緑の踊りにおかしみがある。新しい世代の台頭を感じた。二十六日まで。

2018年11月4日日曜日

【閑話休題78】田中佐太郎自伝の沈黙と凄み

閑話休題 田中佐太郎著 氷川まりこ聞書き『鼓に生きる』

藝と教育とは何か。果たして、藝を伝えることは可能なのか。藝を追い求めることと、自分が舞台に立ちたい気持ちは、同じことなのか。
さまざまな問いが浮かび上がってくる良書。田中佐太郎の自伝『鼓に生きる』を読んだ。
ほとんど年子の三人兄弟を、能の大鼓方亀井広忠、歌舞伎の傳左衞門、傳次郎として育て、一方で、国立劇場の養成所で鳴り物を長年教えた。
実子を教えることの困難さがまず、ある。西洋音楽でもみな、自分の子供にたとえばピアノを教えるのはむずかしいという。
また、養成所の二年間で他人にそこまで時間とエネルギーを費やす無償の贈与。
おおよそを成し遂げた今だから、余裕を持って振り返っている。けれど、完全に男社会ではじめて黒御簾に社中を率いる者として入ったことの凄みは、だれにもわからない。おそらくは墓場まで持って行きたいことがあったはずだろうと思う。なにせ、現場は歌舞伎座である。けれど、何も語らない。その沈黙の凄さがこの一冊を必読の書としている。沈黙する大人の姿勢に、読者も身をただしたくなる。
夫、亀井忠雄はいう、「(観世)静夫と佐太郎がいたから、あの子たちみたいな「魔物」ができたんです」圧倒的な共感を呼ぶ一言だった。

2018年9月25日火曜日

【劇評120】現在を生きる。中川晃教のジャージー・ボーイズ再演

ミュージカル劇評 平成三十年九月 シアタークリエ

ヴォーカルとは、不思議な存在だと、『ジャージー・ボーイズ』(マーシャル・ブリックマン、リック・エリス脚本 ボブ・コーディオ音楽)の再演を観て思った。
今回も、中川晃教のフランキー・ヴァリはシングルキャスト。新しいメンバーが入ったチーム・ブルーを観る機会を得た。伊礼彼方のトミー、矢崎広のボブ、spiのニックという配役である。中川、矢崎は、前回も同じ役で出演。伊礼とspiが新しく加わった。
藤田俊太郎の演出は、前回と大きく代わったわけではない。ジャージーの不良たちが、メディアに乗り、ツアーを重ねることによって立場が変わり、金銭が動き、家族関係が崩壊する。けれど、ジャージー生まれの信義だけは変わらない。仲間はあくまで守る。この旧弊にして、まっとうで、今では失われつつある価値観を前提に、少年から老年へと至るエンターテイナーの成長譚を緻密に描いていく。
藤田演出は、現実の舞台をヴィデオカメラが捉えた映像を多数のモニターに映し出す。その乱反射する様子は、まるで万華鏡のような藝能の世界を象徴しているかのようだ。スタッフワークも見直されているが、なかでも照明の精緻さが目立つ。また演技面では、主役以外の俳優の芝居をすきなく演出している。
中川の透明感のある声、キレがあり、しかも揺るぎない所作は、カリスマの輝きを放っている。矢崎はジャージー・ボーイズと一線を画す「外部」を代表し常に客観的な視点を守って的確であった。伊礼は野性とともに、兄貴風を吹かせることでしか自己確認できないトニーを造型した。そして、spiのニックは「ビートルズでリンゴ・スターであること」の悲哀を醸し出していた。
前回よりも、それぞれの個性のぶつかり合い、あえていえば、ヴォーカルであることの自負心と負けん気が強調されている。のちに、フォーシーズンズは、「フランキー・ヴァリとフォーシーズンズ」となる。リード・ヴォーカルとメンバーという立場の違いが鮮明になる。けれども、四人組で新たな楽曲を作り、お互いを競い合っていた時代こそが輝かしかったのだと強いメッセージが伝わってきた。
こうした関係は、この『ジャージー・ボーイズ』のプロダクションの成り立ちと成長と重なり合う。だからこそ、このミュージカルは、懐かしのメロディを愉しむ夕べではなく、まさしく現在を生きるエンターテイナーたちの物語となっているのだった。十月三日まで。

2018年9月9日日曜日

【劇評119】天人の宿命。玉三郎の『幽玄』について

 歌舞伎劇評 平成三〇年九月 歌舞伎座夜の部

宿命について考えることがある。
天人もまた、いつかは以前のようには、天を飛び回れない日が訪れる。
秀山祭大歌舞伎夜の部、吉右衛門の『俊寛』が終わり、三十五分間の休憩ののち、坂東玉三郎、花柳寿輔演出・振付の『幽玄』が出た。「新作 歌舞伎舞踊」と角書きがついたこの舞台は、鼓童の太鼓による音楽を背景に、お能の演目「羽衣」「石橋」「道成寺」の歌舞伎舞踊化を試みている。松羽目物とは異なるアプローチで、歌舞伎音楽を使わず、あえて鼓童を起用したところに斬新さがある。
まず、「羽衣」は、天女に玉三郎、歌昇を中心に、萬太郎、種之助ら総勢十一人の伯竜が出る。こうした多人数を伯竜としたのは、玉三郎ならではの舞踊演出である。玉三郎演出は、フォーメーションを重く見る。また、若手花形を盛り立てようとする意志が反映してのものだろう。フォーメーションについていえば、踊り手が動くのは理解出来るが(たとえば『勧進帳』の四天王らの動き)、鼓童のメンバーと太鼓が山台に乗って前後左右に動くのは、いささか作品の感興を削ぐ。清冽にして豪華な衣裳は、玉三郎の美意識あってのことでこれだけでも観賞に値する。照明も含めて行き届いているとわかる。
ただし、能の鳴物を太鼓に置き換えるには、かなりの創意工夫が必要となる。同じ打楽器といっても、裂帛の気合いと間によって成り立つ能楽囃子は、きわめて高度でかつ長い修業が必要である。専門家の指導があっても、佐渡太鼓を発祥とする鼓童の音楽世界には大きな隔たりがあった。視覚的な美意識の透徹と「舞」を支える音楽が、アンバランスな状態で舞台にあった。
続く「石橋」は、獅子物の毛振りを太鼓のビート感にのせて試みてはどうかとの発想だろうか。『春興鏡獅子』をはじめとして歌舞伎の石橋物の毛振りは、必ずといっていいほど観客の拍手を集める。歌昇、萬太郎、種之助、弘太郎、鶴松による踊りに不足はないが、歌舞伎の石橋物にある極限状態への挑戦が伝わってこない。これは鼓童の音楽そのものが、人間の体力が極限へと至るときのカタルシスが主軸となっているためだろう。音楽と毛振りが、お互いがお互いを高めあうようには仕組まれていない。
さらに、「道成寺」だが、かつて玉三郎が見せた数々の道成寺物に郷愁を感じた。『京鹿子娘道成寺』『京鹿子二人娘道成寺』ばかりではない。荻江による『鐘の岬』の静謐と比較しても、残念な結果に終わっている。『京鹿子娘道成寺』の振りが散見されるとともに、長唄の音楽が私自身の頭の中に鳴る。かつて玉三郎がみせた官能のしびれるような美しさがフラッシュバックする。途中、両袖を大胆に遣った振りもあるが、これも違和感がある。こうした折衷案のようなやり方ならば、短い「手習子」をきっちりと観たいと願う。
日本舞踊は身体の緊張感によって成り立っている。これまでも身体的に早く敏捷には踊れなくても、最小限の動きのなかで、緊張感を作りだす名人の舞踊を数々観てきた。玉三郎は、その域にいる歌舞伎役者である。踊りに生涯を賭けてきた名人としての舞台を期待したい。

2018年9月8日土曜日

【劇評118】吉右衛門の、時代、世話を問わぬ高い藝境

 歌舞伎劇評 平成30年9月 歌舞伎座

初代吉右衛門の業績をたたえる秀山祭も、今年で十一年目。こうした追善にもあたる興業が毎年行われるのは、二代目吉右衛門の確固たる実力があってのことで、慶賀の至りである。
さて、吉右衛門の出し物は、昼の部は『河内山』、夜の部は『俊寛』で、いずれも昭和の大立者たちが鬼籍に入った後、時代物、世話物ともに歌舞伎の屋台骨を背負っている気迫に充ちている。
気迫にと書いたが、芝居はあくまで自在。時代と世話、台詞のめりはり、描写と情、キマリが押しつけがましくなくさらりしているところ、いずれも舞台を遊ぶ藝境で、『河内山』は上州屋質見世の場からすぐれている。吉三郎の番頭、魁春のおまさ、歌六の清兵衛はいずれもさらさらと流れるような芝居だが、この腕利きを受け流し、ときに圧するように、河内山の吉右衛門は舞台を運んでいく。脇がすぐれていて世話物の息のよさを味到できる。
松江邸広間に移ってからは、新・幸四郎の松江出雲守が充実している。癇性でわがまま、けれど大名の品格を失わない。したたかで、一歩もゆずらぬ河内山に懸命に対抗する肚がいい。又五郎の高木小左衛門の篤実と、主君をいさめる覚悟がすぐれている。歌昇の宮崎数馬も若侍の一途な気持ちにあふれる。進境著しく若手花形を代表する存在になりつつある。吉之丞の北村大膳もこの役の規を守ってあくまで憎々しい。米吉の浪路のういういしさ。
書院の場では、やはり若手の種之助、隼人が神妙に勤める。吉右衛門は絶妙の芝居運びだが「在家の料理は」で出された料理を断り、侍たちを威圧し、暗に金銭を催促するあたりの綱渡りがよい。
玄関先となってからは、「こういう訳だ。聞いてくれ」からの名調子を聞かせる。「馬鹿め」の捨て台詞が効くのは、又五郎、吉之丞、そして幸四郎が場の緊張を支えているからだろう。これほどの水準の舞台が、平成の終わりに、まだ、観ることができる幸福を思う。
朝の『金閣寺』では、長く休養をとっていた福助が、慶寿院尼で出て、短い時間ながら、品格ある舞台を見せた。

夜の部の『俊寛』がまた格別の出来である。
平成二六年九月の俊寛と比較しても、絶望の色が濃い。まず、「出」がいい。不自由で喜びのない孤島の生活のなかで、精神を強く保とうとしている男の懸命なありようが見て取れる。雀右衛門の海女千鳥と菊之助の丹波少将成経の息も合って、情深く、ふたりが睦み合っている様子が伝わってくる。錦之助の平判官康頼も出過ぎず、男三人、女ひとりのささやかな喜びの祝言が進む。菊之助は白塗りの二枚目の役だが、柔和なこなしがあってもいい。都へ帰るまじとする決意がよい。
都から船が来た途端、運命が一転する。又五郎の上使瀬尾が裂帛の気合いで場を圧する。温厚な空気を漂わせる歌六の丹左衛門は、単なる善人に終わっていない。瀬尾に対して、いささかの冷厳さを見せ役の造型が深い。
船が去ってから、吉右衛門の俊寛のひとり芝居となる。前回は、嘆きの深さ、激しさで見せた芝居を淡々たる様子で運んでいく。当代一の名優を観る喜び。花道の浪布、波頭が帰る。盆が回って俊寛は岩にのぼり去って行く船に向かって右の手をのばす。その手が落ちて、岩を押さえる揃った指が白い。圧倒的な孤独が充ちてくる。打っては返す波のように、その孤独に終わりはない。吉右衛門は静かにそう語って、幕となった。
二十六日まで。

【劇評117】アーティストとアルチザン。野田秀樹『贋作・桜の森の満開の下』をめぐって

現代演劇劇評 平成三〇年九月 東京芸術劇場プレイハウス

『贋作・桜の森の満開の下』は、私にとっても思い出深い演目である。
夢の遊眠社の公演として行われた一九八九年の日本青年館と南座、九二年の日本青年感と中座。いずれの舞台も観ている。東京での公演はもとより、なぜ関西まで観に行ったのか、今は記憶に定かではないが、伝統演劇の劇場でこの作品がいかに変容するかを観たかったのだろう。
また、十七年前、新国立劇場の中劇場で行われた公演と、つい昨年、歌舞伎座で行われた歌舞伎役者による公演もまた、記憶に刻まれている。そしてまた、時を置かずに今回の再演である。さまざまな偶然が働いているのだろうけれど、野田秀樹自身にとって『贋作・桜の森の満開の下』が重要な作品、いや愛すべき作品に位置づけられているのは間違いない。
二○〇一年の公演について、私は以下のように書いた。
「『贋作・桜の森の満開の下』は、アーティスト耳男が、芸術の源泉となるちからを探索し、発見する物語でもある」
この断言は、今回の東京芸術劇場の公演では、見事に裏切られた。夢の遊眠社の初演、再演では、野田秀樹が耳男を務めた。無邪気で幼い面を残した耳男で、野田の役柄のなかでも出色だといえる。けれども、野田は夢の遊眠社の舞台で、作・演出を兼ねており、知識人としての顔が舞台にほのみえるのはいたしかなたない。
耳男の役は、二○○一年では、堤真一、一七年では中村勘九郎、さらに今回は妻夫木聡が勤めている。アーティスト耳男といってしまえば、十九世紀以降の芸術家が思い出される。しかし、妻夫木はこの耳男役を純粋に飛騨の匠として捉えている。すなわち、アーティスト、芸術家ではなく、匠、アルチザンとしての耳男が鮮明になった。深津絵里は〇一年、十八年と共通して夜長姫を勤めている。天性の素質から、地獄の釜の蓋をあけることにためらいのない高貴な娘を自在に演じている。この演技の進化を受けて、妻夫木はミューズたる女性に翻弄されたあげく、匠としての意地と野望に燃える男を造型した。
さらに今回の公演ではオオアマに天海祐希を配している。大和朝廷の確立者としてのちの天智天皇となるこのクニツクリの設計者を、天海は雄大なスケールで描き出した。特に冒頭の演技は、明らかに宝塚の男役の演技スタイルを意識している。高貴で汚れがなく、しかも品位があり智勇にすぐれた人間を描くのには、様式的な演技スタイルが向いている。天海は一九九五年に宝塚を退団して時間は経過しているが、その身体に埋めこまれた自立する力は今も輝きを失っていない。
今回の公演は、日本の演劇界を代表する俳優が揃って出演している。古田新太のマナコには、人生の裏街道を歩く人間の屈折が色濃い。ハンニャの秋山菜津子、青名人の大倉孝二、赤名人の藤井隆は、人間たちから疎外された鬼たちを個性豊かに演じている。今回の公演では、社会が常に鬼のような存在を作りだして、周縁へと追放していく構造がよく見えた。
さらにエナコの村岡希美、エンマの池田成志、アナマロの銀粉蝶は、ベテランならではの安定感がある。しかもその実力に安閑とせずに、過激なアイデアを追求していく意欲にあふれていた。
早寝姫に門脇麦。夜長姫と対になる何役だが、ついには死に追い込まれていく影の存在の哀しさが伝わってきた。
ヒダの王は野田秀樹。野田は、消え去っていく王、廃王にことさら心を寄せているのだろうか。王としての威厳ばかりではなく、権力者がその座を追われたときの弱さが感じられた。
九月の終わりには、パリのシャイヨー宮国立劇場での公演が待っているという。この作品がいかにフランスの観客に迎えられるのか、愉しみに思えてきた。アーティストとアルチザンの違いは、おそらく日本よりフランスの方が鮮明だろうと思う。職人が仕事を徹底して追求するとき、ついには芸術的な領域へと踊り込んでいく不思議が、フランスでは理解されるような気がしてならない。九月十二日まで。パリは九月二十八日から十月三日まで。帰国して後、大阪、北九州、東京公演と続く。大千穐楽は、十一月二十五日、東京芸術劇場プレイハウス。

2018年8月8日水曜日

【劇評116】清新な歌昇、種之助の挑戦

歌舞伎劇評 平成三〇年八月 国立劇場小劇場 

歌昇、種之助の兄弟による「双蝶会」も、第四回を数える。尾上右近の「研の会」とともに、八月の風物詩になりつつある。近年では「亀治郎の会」を辛抱強く現・猿之助が続けて結果を出した。また猿之助は、そのすぐれた企画力とリサーチ能力を対外的に示したのが大きい。この先例にならってか、「双蝶会」は意欲的な演目を並べている。
今年は種之助の忠信、歌昇の義経による『四の切』。三十分の休憩を挟んで、歌昇の関兵衛実は黒主、種之助の宗貞の『関扉』と大きな狂言が出た。『関扉』では、児太郎も小町と墨染を勉強している。さすがにこれはと思うほどの大役こそ、勉強会にふさわしいのだろう。
まず、『四の切』だが、派手な沢潟屋の型をあえて選んでいない。とはいえ、仕掛とケレンのある演目だが、以外に難物であるのはいうまでもない。まず、本物の忠信に威厳が、そして狐忠信に哀感がなければならぬ。とはいえ、親を亡くした子狐とはいえ、幼すぎてもいけない。静御前(京妙)の旅に付き添い、なにくれと心を配ってきた設定だからである。
前半の忠信は、現在の年齢からいっても、神妙に勤めるほかはない。落ち着いた芝居で力を低く落として好感が持てる。ただし、意外な展開に戸惑う気配が伝わらず、まだまだ武士の威厳に乏しい。後半は種之助生来の愛嬌が活きる。親を失い、鼓の皮となった親を慕う気持ちがよく伝わってきた。身体がよく切れるが、これほどの狂言の動きは、なんといっても回数を重ねて身につくものだろう。この困難をものともせず、稽古を重ねて今回の舞台にのぞんでいるのがよくわかった。
『関扉』もまた大曲中の大曲。舞踊劇としても重い。前半、種之助の宗貞が「出」からしばらくは、若々しさが出すぎて頼りなく見たが、芝居が進うちに、鷹揚さが漂うようになったのは、このところの勉強の成果だろう。派手なしどころが少ないだけに、役者のよさで見せていかなければならない。
歌昇は関兵衛のうちは、自在に藝に遊ぶ進境とは遠く、滑稽味が足りない。ところが、意外といっては失礼だが、「はて心得ぬ」からの見顕し、黒主になるといきなり大きな役者に見える。荒事の筋がいいのは、すでに定評がある。隈取りが似合うのも研究の成果だろう。古怪というのは褒めすぎだと思うが、黒主の心の闇がほのみえるのは藝質がすぐれているからだろう。
児太郎は小町を若さと美しさで乗り切る。さらに墨染になってからは、傾城の手管を見せるときに、ひらめきが感じられる。父福助譲りのあだっぽさも加わってきた。まだまだ、墨染は荷が重いが、将来の充実が期待できる舞台となった。
清新な勉強会を観て、気持ちが晴れやかになった。なによりの公演である。

2018年7月16日月曜日

【劇評115】海老蔵が猿・秀吉となる趣向

 歌舞伎劇評 平成三〇年七月 歌舞伎座昼の部

七月歌舞伎座昼の部は、『三國無雙瓢箪久 出世太閤記』。黙阿弥の『大徳寺焼香の場』の復活かと思いきや、今回は昭和五六年の『裏表太閤記』を参照しつつ、新たな台本に仕上げている。織田絋二、石川耕士、川崎哲男、藤間勘十郎の四者による補綴・演出である。
歌舞伎のイロハはもとより、通し狂言の仕組みを知り抜いた補綴で、復活狂言にありがちな生な感触がまったくない。輝かしい美男の海老蔵が、猿と呼ばれる秀吉となる。その意表をついたおもしろさが全編を貫いている。

眼目は、なにより二幕目第三場、松下嘉兵衛住家の場。鶴屋南北の作を活かした部分で、光秀の遺児重次郎(福之助)が実は、秀吉(海老蔵)と女房八重(児太郎)の子であったという奇想を、皐月(雀右衛門)、嘉兵衛(右團次)の手厚い芝居で見せる。
続く大徳寺は、松江、亀鶴、市蔵、権十郎、斎入、家橘、友右衛門、獅童と顔が揃って、坦々とした台詞劇を見せる。宙乗りを喜ぶ現在の観客には、なかなか辛抱がいる件となっている。

今回の舞台は、序幕の夢の場はともかくも、本能寺の場、備中高松場外の場で、獅童と海老蔵に大きく寄りかかっているところにある。もとより歌舞伎は役者のありようを見せる演劇だが、こうした場こそ脇を手厚くしないと芝居に旨味がなくなる。
座組は、幕外の人間には伺い知れない難しさがあるのだろう。古典が安定した出来が保証されているのは、この芝居には、この役者がいると明瞭に了解があることだろうと思う。こうした復活狂言になると、役柄と出演者の関係が曖昧になるきらいがあり、ジグソーパズルの最後の一枚、ピースがぴたりとはまったような喜びを得るのはむずかしい。

ともあれ、座組によって、また、台本の改訂によってさらに面白くなる可能性を秘めた舞台であることは間違いない。

【劇評114】海老蔵が試みた「事件」

 歌舞伎劇評 平成三〇年七月 歌舞伎座夜の部

歌舞伎が単なる舞台を超えて事件となることがある。
平成の記憶をたどれば、平成十三年にシアターコクーンで上演された『三人吉三』、同じく平成一三年、歌舞伎座の『野田版 研辰の討たれ』、平成一六年、ニューヨークの『夏祭浪花鑑』が思い浮かぶ。串田和美、野田秀樹という現代演劇の演出家、劇作家が加わることで、歌舞伎を取り巻くさまざまな常識が大きく変わって、変換をとげた。その舞台はスリリングな魅力に充ちていた。

さて、七月大歌舞伎の夜の部は、今井豊茂作 藤間勘十郎演出・振付の『通し狂言 源氏物語』が出た。作品の出来不出来は、とりあえずおいておこう。なにより、歌舞伎俳優とオペラのカウンターテナー、能のシテ方、狂言方、囃子方がひとつの舞台に乗った。
舞台の構成は、歌舞伎俳優だけで演じる部分は、物語の進行を主に受け持つ。その間に、声楽のリサイタルが挟まり、また、六条御息所の件を能楽師たちが演じるのかと、発端、序幕が終わったときは思った。これは、それぞれの職分が、その特徴を活かして、並列する舞台なのかと思ったのだが、私の予想は見事に裏切られた。

本舞台には、能の地謡と囃子方がならんで、「葵の上」を歌舞伎舞台であえて上演しているかのようなしつらえである。そこに花道に面をつけた能役者が、七三のスッポンから迫り上がる。本舞台に向かうと、雀右衛門の六条御息所に触れる。六条が複数いるとのがいけないとか理屈をいうつもりはない。異なった修業を行ってきた身体が、さしたる手立てを欠いたまま、身体が触れあってしまう。そこには、戦慄と驚愕があるだけで、感動はなかった。ありえないことが起こっている衝撃に打ちのめされた。

さらに第二幕以降は、混乱の極みである。
カウンター・テナーのアンソニー・ロス・コンスタンツォとテノールのザッカリー・ワイルダーは、独立した歌唱として成立している。たた、それぞれの楽曲に対して、筋書きに一曲「In Darkness Let Me Dwell」の訳が掲載されているばかりで、源氏物語との関連が読み取れない。ただ、音としてオペラ歌手の歌唱を愉しむばかりで、肝心の舞台にからむ情報が欠けている。これだけで、光と闇のテーゼを読み取れといわれても、私は唖然とするほかない。作り手にオペラ歌手を起用し、この楽曲を選択した必然性を伝えよとまではいわない。けれど、現状の台本・演出では、なぜ、ここで、オペラの楽曲が必要なのかが説得力を持たない。

さらに、海老蔵の宙乗りがある。宙乗りを喜ぶ観客の目には入らないのだろう。この海老蔵を見るための場に、ふたりの能役者が花道を前後する。歌舞伎の常識では、名題下が勤める役割であり、これを能役者が演じるのには違和感がある。いったい何が行われているのか、途方に暮れる心地であった。

今回の上演台本は、『源氏物語』を光り輝く源氏と、その行動に翻弄される女性たちの物語ではない。新たな解釈をほどこしている。それは源氏(海老蔵)と父の桐壺帝との相克であり、また、源氏と実の我が子、春宮のちの冷泉帝、(堀越勸玄)とのいずれは訪れる相克でもある。こうした新しい視点の打ち出しと、海老蔵と勸玄の親子関係をだぶらせるあたりは、歌舞伎ならではの趣向でもあるだろう。

澤邊芳明の映像は、歌舞伎座の大舞台を活かしてダイナミックに見せる。いけばなは華道家元池坊、この二者が舞台を下支えしている。
右大臣に右團次、後の朱雀帝に坂東亀蔵、葵の上に児太郎、大命婦に東蔵、弘徽殿に魁春。今、光源氏を演じてだれもが納得する輝きを海老蔵はそなえている。それぞれの芝居は誠実で良質なだけに、新たな試みが実質をそなえた事件となる日を待ち望む。
事件は、どのような理由であれ、目撃しておく価値があると私は思う。

2018年7月3日火曜日

【劇評113】写実を極める。菊之助の『御所五郎蔵』

歌舞伎劇評 平成三〇年六月 江戸川総合文化センター 

音羽屋菊五郎家の嫡子は、江戸世話物を継承すべき立場にある。
美貌と声のよさに恵まれた女方として出発した菊之助は、父七代目菊五郎の相手役を勤めることで、継承の準備を着実に進めてきた。『直侍』の三千歳、『魚屋宗五郎』のおなぎ、『御所五郎蔵』の逢州はその良い例だと思う。『髪結新三』の勝奴も同様。父と同じ舞台を勤め、将来に備える。これは御曹司として生まれた歌舞伎役者の特権であり、厳正な義務でもある。

修業を重ねた末に、三〇代後半に差しかかった菊之助は『直侍』の直侍、『御所五郎蔵』の五郎蔵、『魚屋宗五郎』の宗五郎、『髪結新三』の新三と、世話物の立役の継承に向けて着実に駒を進めてきた。
五郎蔵は平成二七年の四国こんぴら歌舞伎で初役で勤めている。今回の公文協東コースでの五郎蔵は二度目になる。私はこんぴら歌舞伎を観ていないので、今回がはじめて。こんぴらとの比較はできないが、菊之助の五郎蔵は画期的な出来映えであった。世話物の未来を語る上で必見の舞台といえるだろう。

星影土右衛門(彦三郎)の計略によって、女房皐月(梅枝)に縁切りをされる。お主のための二〇〇両のためとはいえ、皐月の心の内を察することが出来ない。手切れときいたら二〇〇両は受け取れない。決裂の末に、皐月の身代わりとなって土右衛門と同道する逢州(米吉)を皐月と過って殺してしまう。

単純に物語をたどると、なかなか難しい芝居だ。五郎蔵は、皐月や逢州の思いを受け止められず、物事を深く考えない早計な男と思えてしまう。このあたりが五郎蔵を演じる難しさであった。

父、菊五郎は、あくまで世話物の様式のなかで、男伊達の美学として観客を説得していく。気が短かろうが、思慮が足りなかろうが、男伊達の粋として見せてしまう。

菊之助は、菊五郎から初役のときに父から教わったのは間違いない。ただ、今回、江戸川総合文化センターで観た五郎蔵は、菊五郎のやり方とは違っている。

皐月の「お前に一生連れ添えば、楽の出来ぬ私の身体、星影さんんいこの身を任せ、生涯楽に暮らすが得」を真に受けて、自らの言葉に酔って、自らを追い詰めていく男の心情を、様式に頼り切らず、写実を追求していく。その緻密な組み立てによって、物語の浅薄さをとりあえず置いて、観客はもっとも大切な妻を失ってしまった後悔。いかに困ったとはいえ、妻を売り物買い物の傾城にしてしまった無念が、ひしひしと伝わってくる。

もちろん、こうした芝居を支えるのは、女方として成長著しい梅枝である。立女形の重いにもかかわらず、きっちりと安定した台詞回しを見せ、肚も深い。
彦三郎の土右衛門も単なる敵役ではなく、得体の知れない妖術遣いでもあると思わせる。
米吉の逢州、美しさは無類だが、この役を切迫した調子で演じすぎてはいないか。主家の思いものでもあり、この場で最も余裕がある逢州でありたい。その優しさ、思いやりに観客が同調できるのが理想である。

梅枝が慌てず騒がず、優雅に晒をつかう『近江のお兼』が着実で公演の冒頭にふさわしい。

『五郎蔵』を存分に愉しんだ後は、狂言からとった菊之助が次郎冠者の『高坏』。
團蔵の大名、高足売りの萬太郎、太郎冠者の橘太郎と。もちろん、回数を重ねれば、タップを引用した難しい脚さばきもこなれてくるのは間違いない。特筆したいのは、『喜撰』といい『文屋』といい、この『高坏』といい巧まざる愛嬌が菊之助にそなわってきたところだ。時分の花はいつか衰える。けれど、そなわってきた愛嬌は、決して失われることはない。六月三十日夜の部所見。

2018年6月9日土曜日

【劇評112】吉右衛門と歌六の地藝

 六月歌舞伎座夜の部は、まず吉右衛門の『夏祭浪花鑑』から。侠気にあふれるいなせな魚屋団七を、上方色を強調することなく演じている。孫の寺嶋和史が団七伜市松で出る。住吉鳥居前の場、幕切れの引っ込みで孫を背負って花道を歩く。その幸せにあふれた姿を観るのも、歌舞伎鑑賞の王道というべきだろう。

話題ばかりではない。舞台のレベルは高い。釣船三婦は歌六。昔ならした喧嘩の強さが全身から発せられ、念仏三昧の生活を破る瀬戸際を活写している。吉右衛門の団七に向かい合うのは錦之助の一寸徳兵衛。止めに入るのは、団七女房お梶の菊之助。この三人が絵面にキマルところに、世代を超えた歌舞伎の新たな展開を感じる。

二幕目三婦内の場。歌六がよいのはすでに言ったが、この場でも今か、今かと破裂しそうな暴力装置として魅力を発散している。支えるのが東蔵による女房のおつぎ。礒之丞(種之助)をめぐって、雀右衛門のお辰と話をまとめるときの会話の巧さは、舌を巻くばかり。なんといっても、この場で儲かるのはお辰。熱い鉄ごてを額に当ててみずからの容貌を醜くする件り。雀右衛門の芝居は当て込みがない。決しておしつけがましくなく、夫徳兵衛が、心意気に惚れるのもむべなるかなと説得される。説得されて気持ち良く、しかも溜飲が下がるのだから現在の雀右衛門の藝の力はたいしたものだと思う。傾城琴浦は米吉。

泥場として知られ、本水も使うが、決してケレンに終わらせないのが吉右衛門の長町裏。橘三郎の舅義平次がまたよく、全身が渋紙のように見える。老醜を隠すのではなく、みせつける。すさまじい実在感があって圧倒される。橘三郎の好演があって、吉右衛門のこの世の苦しみがありありと伝わってくる。
殺したいから殺すのではない。けれど、偶然、刃をあててしまったからには、このままでは、終わらせることはできない。救急車を呼べばいいという現代とは全く異なる、江戸の暗闇が確かに感じ取れた。かどかどのキマリがすぐれているのは、吉右衛門だけにことさらいうまでもない。

奇作と呼びたくなるのが宇野信夫作の『巷談宵宮雨』(大場正昭演出)。
見どころは、破戒坊主の伯父、芝翫の龍達、松緑の太十、雀右衛門のおいち。この三者が色と金をめぐって、腹を探り、謀議をめぐらし、牽制し合う世話場のおもしろさだろう。三者それぞれに、リアルな人物像を作り上げるが、芝翫にはどこか人のよさが漂い、松緑には肚の太さがあり、雀右衛門には江戸の女の心細さが感じられる。単に色と欲に溺れた人々ではなく、その翳りまでも描き出している。

周囲を支える人々がまたいい。無口な松江の早桶屋徳兵衞、梅花のその妻おとま、薬売りの橘太郎。こうした役者が世話物の細部を支える時代になったのだと実感した。

幕切れは、宇野信夫の原作はもとより辛い芝居である。今回の演出では、ホラーにみえてしまうのはいかがなものだろうか。照明を含め再考の余地はあるだろう。二十六日まで。

【劇評111】時蔵、花の盛り。菊之助の愛嬌

歌舞伎劇評 平成三十年六月 歌舞伎座昼の部 

時蔵が今を盛りと花ひらいている。
先々月、先月から大役が続く。六月の歌舞伎座昼の部は、『妹背山婦女庭訓』のお三輪。いじめ官女に苛まれ、辛抱に辛抱を重ねたあげく、嫉妬の炎を燃やし、やがて凝着の相へと至る。若手花形には手に余る役だが、時蔵の手にかかると、寸分の隙もなく、役本来にある飛躍をものともせず、一貫して理不尽な境遇に苦しむ女性として舞台上にある。「竹に雀」の馬子唄の件には、憐れがあり、「三国一の婿取り」と囃し立てる声を聴いてからの思い入れも深い。七三でキット決まるときの姿の美しさと申し分がない。
鱶七は七度目の松緑。時蔵とは初めての顔合わせだが、相性がいい。漁師の素朴なものいいが、松緑本来の美質と合って、この大人の神秘劇を時蔵とともに盛り上げている。
求女の松也もしっくりみえるようになった。相手の橘姫は新悟。若女方として実力をつけているのがわかる。ただ、美男美女のふたりが並んだときに、吸引力というか、ある種の魔力が舞台に流れなければいけないのがこの種の役のむずかしいところ。曾我入鹿の楽善は、不気味な古怪さがある。豆腐買おむらに芝翫がつきあう。

『六歌仙容彩』は、変化舞踊の代表的な作品で、僧正遍照、文屋康秀、在原業平、小野小町、喜撰法師、大伴黒主の六人をひとりで踊り分ける。たとえば業平と黒主のように対極的な役もあり、高僧でありながら茶屋の娘と戯れる喜撰のような役もある。当代一の踊り手としては、いずれは全曲をひとりで踊りたいとのもくろみがあってのことだろう。
先月の『喜撰』に続いて『文屋』が出た。現在の仁、年齢、技倆からすれば『文屋』のほうが取り組みやすいのは確かだ。その評価を得るのは当然と織り込んで、菊之助は果敢に「踊りの面白さ」を強調する。将来に向けて大曲の一部を慎重に勤めるのではなく、いまできることをやりきる。
具体的に言えば、顔で踊らず、全身が躍動している。こってりとしていながら、愛嬌が加わる。美貌、美声に恵まれた俳優だけに、愛嬌が課題だったが、この『文屋』で得た成果を、芝居のほうに活かせれば、単に『六歌仙容彩』通しの下ならしに終わらない。今月の収獲である。

さて、続くのは河竹黙阿弥の『野晒悟助』。黙阿弥の中でも上演頻度が少ないのには理由がある。男伊達の悟助(菊五郎)の粋なありようを観るだけの芝居だ。

堤婆組の横暴から土器売りの父娘、詫助(家橘)お賤(児太郎)を救い、また、堤婆組に拉致されそうになった大店扇屋の娘小田井(米吉)に惚れられる。
先に申し込まれたからという理由で扇屋の後家香晒(東蔵)の願いに応え、小田井と盃を交わして娶るが、またも堤婆組の仁三郎(左團次)の横車によって、お賤は我が身を売って悟助を救う。

荒唐無稽にもほどがある。『御所五郎蔵』も皐月とのやりとりに首をかしげたくなる件りがあるが、『野晒悟助』はさらに凄まじく、芯も周囲も劇として成立させるのがなかなか難しい。あまり深いことは考えるのは野暮というもの。男伊達どはどうあるべきか、菊五郎が達した藝境を楽しんだ。二十六日まで。


2018年5月27日日曜日

【劇評110】井上ひさし作品を席巻した喬太郎の地藝

 現代演劇劇評 平成三十年五月 紀伊國屋サザンシアター

喬太郎のしか芝居を観たことがある。
 十二人抜きで真打に昇進したころだから、二○○○年前後だろうか。中野の小さな劇場でさん喬一門が揃っての芝居だった。喬太郎が女装して(女方とはあえていわない)観客を笑わせた。もちろん座興のたぐいだから、あれこれいうのも野暮というものだが、喬太郎は役者向きではないなと思ったのを覚えている。
 あれから十八年が過ぎて、喬太郎は押しも押されもせぬ大立物となった。新作のみならず、古典でも進境を示し、今、もっともすぐれた落語家のひとりになりおおせた。その喬太郎がこまつ座に出演すると聞いて驚いた。しかも演目は井上ひさしの『たいこどんどん』である。初演では東京ボードヴィルショーの佐藤B作が演じた。ほぼ全編出ずっぱりで長時間、舞台上を動き回る。台詞も多い。並大抵の俳優でもねをあげるだろう。
 江戸の末期、吉原の幇間(喬太郎)が、薬種問屋の放蕩息子(江端英久)とひょんなことから九年の流浪の旅を続ける。単なるおもしろ、おかしい道中記ではない。人間の残酷と悲惨が次第に深まっていく悲喜劇である。
 ラサール石井の演出は、軽演劇の手法を取り入れ、また、井上戯曲のエロティックな側面をみつめて手際よい。
 なにより、すばらしかったのは、喬太郎の身体だった。落語はせんじつめれば、ひとり芝居である。何役も演じ分け、しかも顔とほぼ上半身の表情だけですべてを表現する。台詞回しと細やかな顔の表情が悪かろう筈もない。しかし、それに加えて喬太郎は身体のこなしが素晴らしかった。群舞のときばかりではない。身体全身がかもしだす雰囲気、その均衡にすぐれていて、まさしく江戸の幇間なのであった。
 これほどの地藝があって、はじめて『たいこどんどん』は上演できる。井上ひさしの実に恐ろしい企みを、喬太郎は受けて立ったのである。

2018年5月26日土曜日

【劇評109】コクーン歌舞伎、七之助の与三郎。

 歌舞伎劇評 平成三十年五月 シアターコクーン

一九九四年に始まったコクーン歌舞伎もついに第十六弾。今回は木ノ下裕一の補綴を得た『切られの与三』(串田和美演出 美術)が上演された。
瀬川如皐の世に知られた『与話情浮名横櫛』を原作としているが、『切られの与三』としたのには理由がある。半通しで上演されるときも、普通取り上げられない「玄治店」以降を丁寧に描いて、全身を傷つけられた与三郎を大団円で救うのではなく、その後も、辛酸をなめる人生を描きつくす。歌舞伎でよく知られた台本をミドリで出る場だけではなく全幕を俯瞰し、再構成した新たな戯曲である。これを七之助、梅枝、萬太郎、亀蔵、扇雀を中心とした歌舞伎役者に、コクーン歌舞伎ではおなじみとなった笹野高史、真那胡敬二らで上演する試みであった。
「見染め」「赤間別荘」「玄治店」は、あえて古典によりかからず、さっと走り抜ける。すでにある型によりかかりすぎては、この『切られの与三』の趣旨から遠ざかってしまう。歌舞伎好きには、与三郎の七之助、お富の梅枝がどのようなやりとりを見せるかが気になるところだが、このあたりは早々にはしょっている。私としては、納得できるやり方だ。
そのかわりにふたつの見どころが提示される。ひとつは与三郎(七之助)を育てた和泉屋の人間関係である。兄を気遣う与五郎(萬太郎)と許嫁おつる(鶴松)の存在。そしてのちにクローズアップされる和泉屋の奉公人で与三郎をいとおしむ下男の忠助(笹野高史)である。
もう、ひとつは、扇雀が勤める久次である。囚人として島送りになった与三郎とともに脱獄したかと思えば、ひとり良い目をみて、江戸に先に帰り、お富と夫婦になっている。ふたりの宅へ訪ねてきた与三郎を親切ごかしにもてなしつつも、町方に売ろうと企む。これも歌舞伎の定式だが、さらに、「モドリ」(原作では七幕目の長台詞、岩波文庫)がある。久次は与三郎の実の親に仕えた家で大恩がある。腹を切ったのは、与三郎に妙薬と生血で与三郎の全身の切り傷を治すため。串田の演出は、この荒唐無稽にして歌舞伎らしい「モドリ」をカタルシスとして描くのではなく、実にばかばかしい人間たちの愚かさとして暴いてしまう。
そのかわりに大団円として用意するのは、すべてが終わった後、与三郎の七之助を舞台にひとり置いて「しがねえ恋の情けが仇」と名台詞を巧みに使って、人生そのものの無情を強く打ち出すくだりだ。青い空、白い雲、江戸の町の屋根。たったひとりの与三郎。坊ちゃん育ちで恋もしたが、結局は困難のなかで孤独に死んでいった男の悲哀が、この『切られの与三』の眼目にある。また、繰り返される「江戸の夕立」も演出の意図を強調する。

これまで女方を中心に勤めてきた七之助からすれば、『切られお富』を演じるのが定法だろうが、あえて立役に挑んで、生にもだえ苦しむ魂がかもしだす色気を見せた。また、企みのなかで悪党振りをみせつけた扇雀も出色の出来。そして、歌舞伎の身体と現代演劇の台詞回しを自在にこなす笹野高史の技藝も成熟してきた。与三郎の七之助と再会した場面で情愛がこもった。三十一日まで。

【劇評108】直接的な死 寓意ではなく。前川知大の『図書館的人生Vol.4 襲ってくるもの』

 現代現劇劇評 平成三十年五月 東京芸術劇場シアターイースト

近年のイキウメは、破竹の勢いで、水準以上の舞台を発表しつづけている。劇団には旬というべき時期がある。また、長く見れば、春夏秋冬もある。さしずめ前川知大とイキウメは夏の盛りを生き、これから秋の収穫期へ向けて準備をしているのだろう。
もう、おなじみになったオムニバスの『図書館的人生Vol.4 襲ってくるもの』(作・演出 前川知大)は、三本の作品で構成されている。
#1は『箱詰め男』(二○三六年)と題されている。海外に赴任していた科学者の息子(森隆二)が久しぶりに実家に帰る。母(千葉雅子)の話を聞くうちに父(安井順平)は、認知症になったのではなく、意識や精神活動をコンピュータに移したのだとわかる。
AIを搭載した音声応答スピーカーのパロディともなっている。劇が前川らしい奇想へと滑り込んでいくのは、このコンピュータにある感覚器官が与えられたときだ。客演の千葉雅子が着実な演技で、困惑と不安をかもしだす。実際にマインドアップロードの作業を行った老科学者の森下創はいつもながらの怪演を見せる。
#2は『ミッション』(二○○六年)。配達の仕事の途中、老人を引いてしまう事故を起こした青年山田輝男を進境著しい大窪人衛が演じている。彼は、いけないとわかっていてもある種の衝動に駆られると止められない。交通刑務所から出所してきた輝男を気遣う友人佐久間一郎(田村健太郎)とのやり取りが軸となる。そのうちまともに見えた佐久間のストーカー行動が明らかになる。ここで疑われているのは、市民の常識である。「まともにみえる」ことと「まともでいる」ことには差がある。「まともでいる」ことと「まともでないことを起こす」の間にも差はあるが、この差異の境界が次第に曖昧になっており、法も倫理もこの越境を抑えられないのだと語っている。
#3は『あやつり人形』(二○○一年)である。大学三年生の由香里(清水葉月)は、母(千葉雅子)が難病にかかったことをきっかけに、おきまりのリクルートスーツで就職活動に身をゆだねる自分に疑問を持ち始める。はじめ、自由に生きることに理解を示す兄清武(浜田信也)も大学中退を示唆したとたんに態度を変える。また、すでに社会人の恋人佐久間一郎(田村健太郎)も、由香里の変化を受け入れられない。人間の好意や優しさは、本当に相手のためにあるのか。その行為自体が相手を苦しめる結果となっていないかと問いかける。
佐久間一郎が#2、#3に登場するために、#2に先だって、#3の事件が起こったかのように見える。また、全体に直接的な死が執拗に描かれているのが本作の特徴だ。
二○一八年の上演時点で、未来にせっていされているのは#1だけ。#1も#3も過去の物語だ。その意味で今回の三作品をSFと分類するのは正しくない。代表作『太陽』のように、SFの設定のなかで寓意として描かれていた種族の死ではない。ある個人の死がいったいどのような意味を持つのか。直裁に斬り込んで胸を打つ。

【閑話休題78】ケラリーノ・サンドロヴィッチとナイロン100℃の幸福

劇団の二十五周年のその年に、二冊の本が刊行される。また、劇団の公演も立て続けに行われた。ケラリーノ・サンドロヴィッチとナイロン100℃にとっては、幸福な一年といえるだろう。
はじめの一冊は、ハヤカワ演劇文庫の一冊で『ケラリーノ・サンドロヴィッチⅡ 百年の秘密 あれから』(早川書房 1500円)である。すでにこの文庫からは、二○○二年に『消失 神様とその他の変種』が上梓されている。他の著者には、○○○○ⅠやⅡの表記があるから、なぜケラリーノ・サンドロヴィッチにはないのだろうといぶかしく思っていた。今回、Ⅱが刊行されたのは、なによりよろこばしい。
『百年の秘密』は、二○一二年の四月に初演され、またこの一八年四月に再演された。KERA得意のクロニクルの形式を採る。一家の長い歴史を劇で叙述するが、発想の原点は、トーマス・マンの教養小説にあるように思う。年代記は、一族の興亡を描くから、親子、夫婦、親戚の愛憎と哀惜を浮かび上がらせるにふさわしい。また、グランド・ホテル形式とともに、登場人物が多人数になるので、俳優が成長した劇団の公演にはうってつけである。つまりは、出演者のだれもが見せ場のある芝居を書きやすいのである。
久しぶりに見た『百年の秘密』は、すぐれたエンターテインメントになっていた。家の庭にある樹木とその根元に隠されたあるものをめぐって叙述される。女教師と年の差のある教え子の恋愛と別れ、姉妹のようにして育ったふたりの女性、それぞれの生き方を描いて戯曲自体も充実しているが、六年の歳月を経て、劇団員が成熟したのが大きい。だれともいいにくいが、犬山イヌコと峯村リエが、抑えかねる悲しみをこぼれさせているのに打たれた。
もう、一冊は、豪華本で『ナイロン100℃ シリーワークス』(白水社 四七○○円)と題された劇団の二十五周年記念本である。私自身も原稿を寄せている。ナイロン100℃のパンフレットを手に取る度に思うのだが、KERAの意志が細部まで込められている。単に、自作戯曲の文学的な位置づけにこだわるのでない。あくまで上演された舞台が、懐かしく思い出されるように工夫されている。
また、劇団員のファンブックとしての側面も強く意識されており、犬山イヌコ、みのすけ、峯村リエ、三宅弘城ら、現代演劇を上演するときになくてはならぬ存在と成長した俳優たちの思いが伝わってきた。
記録としての側面も大切にされている。KERAといえばTwitterのようなSNSでの活躍も目立つが、こうした活字媒体を重く見ているのがよくわかった。
いずれにしろ書店や図書館で一度、手に取ってみると紙の束の重みがずっしりと感じられるだろう。

2018年5月12日土曜日

【劇評107】豊潤にして澄み渡る心境。菊五郎の弁天小僧

歌舞伎劇評 平成三十年五月 歌舞伎座夜の部

五月團菊祭の歌舞伎座。夜の部は、菊五郎の世話物極め付きというべき『弁天娘女男白浪』が出た。
昭和四十年六月、東横ホールで初めて演じてから、五十年あまりの歳月が過ぎた。今回は満を持して、「浜松屋」と「稲瀬川」だけではなく、菊五郎自身が「立腹」で立廻りを見せ、滑川土橋の場まで半通ししたところにも並々ならぬ意欲を感じた。
五代目菊五郎が初演し、六代目、七代目梅幸、当代と続き、また現・菊之助も襲名以来重ねて演じてきた狂言である。音羽屋菊五郎家の家の藝の代表というべき作品である。菊五郎は、豊潤な色気を失わず、不良の魅力を発散している。しかも、春の澄んだ空と通じるようなむなしさ、悲しみさえ感じさせた。
まず、「浜松屋」では、「見顕し」にすぐれている。作為はほとんど感じさせず、嫁入り前の武家の娘から、稚児上がりの小悪党まですらりと変わっておもしろい。「稲瀬川」では、当然のことながら海老蔵の日本駄右衛門を圧する気迫がある。さらに「立腹」では、立廻りの手は短くなっているものの生きることの懸命さをすっと手放してしまった悪党の心がよく伝わってきた。松也の鳶頭、種之助の宗之助、寺嶋眞秀の丁稚長松を見ていると、世代が確実に交替しつつ、菊五郎劇団のDNAが受け継がれていくのを感じた。
團蔵の幸兵衛、橘太郎の番頭、市蔵の狼の悪次郎、梅玉の藤綱。
続いて久しぶりに『菊畑』が出た。
松緑の智恵内、團蔵の法眼、児太郎の皆鶴姫、時蔵の虎蔵。それぞれの心の葛藤を、義太夫に乗せて芝居にしなければならぬ至難な狂言を次ぎに繋げるために健闘している。時蔵は先月から大変な活躍振りで、立女形としての実力を東都に知らしめている。ただし、色若衆となると、出では女方の色が強く違和感を感じさせた。後半はさすがの実力で若衆ならではの身のこなしを見せつける。
いずれは『六歌仙容彩』の通しが期待される菊之助。女方舞踊だけではなく、立役の舞踊も、勘三郎、三津五郎なきあとは、この人が規矩正しく継承していくのだろう。その試金石となるのが、今月の『喜撰』と六月の『文屋』である。
『喜撰』についていえば、茶屋の女にのぼせた高僧ではあるけれど、品格を決して失わないところがいい。ちょぼくれ、ワリミも軽やかにこなしている。ただ、こうした演目は、技巧の確かさを消していくことが必須となる。それには回数を踊って、自然体を獲得する過程を経なければならない。千穐楽近くにもう一度観てみたいと思わされた。二十六日まで。

2018年5月11日金曜日

【劇評106】海老蔵の新しい革袋

歌舞伎劇評 平成三十年五月 歌舞伎座昼の部

新しい酒は新しい革袋に盛れ。
『新約聖書』マタイ伝第九章にある一節だが、近年の海老蔵による歌舞伎十八番を踏まえた創作を見るとそんな言葉が浮かんでくる。
古典を単に新しい演出で模様替えをするのではない。古典を「新しい酒」として見つめ直す。それに見合った演出、演技、ついには型を作り上げようとする。そう簡単に結果がでるはずもないが、何度も上演を繰り返すうちに、説得力を持った舞台が出来つつあるのを感じている。
さて、五月團菊祭に選んだのは、『通し狂言 雷神不動北山櫻』である。パネルを使った口上によって、これから海老蔵が演じ分ける役柄をまず説明してしまう。沢潟屋ゆずりのやり方で、役を兼ねる歌舞伎の演出になれない観客にも通じる舞台を作ろうとしている。
序幕は、早雲王子(海老蔵)が帝位を狙う大きな枠組みの提示となる。
続いて『毛抜』の粂寺弾正(海老蔵)、三番目は『鳴神』の鳴神上人(海老蔵)、さらに大詰は早雲王子の立廻りを見せる。最後に『不動』となって不動明王(海老蔵)が地から離れ浮遊する趣向となっている。
もとより、『毛抜』『鳴神』は、すでに古典としての型が確立している。海老蔵も何度も手がけているから、破綻はない。粂寺弾正の持ついたずらな滑稽味、鳴神上人が雲の絶間姫(菊之助)の色香に惑わされていく人間くささ、いずれも野性が舞台全体を覆っていた時期と比べると、歌舞伎役者としての成熟が確かに感じられる。
『毛抜』では、雀右衛門の腰元巻絹がすぐれている。役者としての落ち着きがあって、はじめて粂寺弾正との戯れにおかしみが生まれる。
『鳴神』は菊之助の雲の絶間姫が亡き團十郎の相手役を勤めた名古屋御園座の舞台からずいぶん成長した。もっとも、規矩正しい鳴神上人と対峙した経験が、今になって生きたのだろう。勅命を帯びて誘惑を仕組む雲の絶間姫の深い思い。あえていえば権力を笠に着るのではなく、鳴神上人を墜落させる役割を負ったことへの悲しみが出た。
打ち出しは、時蔵の『女伊達』。先月に続いて「時蔵祭り」と呼びたくなるほどの大役続きだが、ここでも種之助、橋之助を相手に達者な女伊達を見せる。女の魅力がほとばしりつつも、強くたくましい。助六を真似るくだりも稚気がほのみえた。二十六日まで。

2018年5月6日日曜日

【閑話休題77】幸福な劇場 野田秀樹とソーホー・シアター

 世の中には、幸福な劇場と、薄幸な劇場がある。
さすがに国内の劇場は、これがそれと名指しするのははばかられるが、シアターゴーアーであれば、単にレパートリーの好き嫌いを越えた幸福の度合いを感じているに違いない。
野田秀樹にとって、ロンドンでもっとも幸福な劇場といえばソーホー・シアターになるのだろう。ウェストエンドの中心にあり、周囲は繁華な街並である。ロンドンのパブは、日本の感覚からすれば早く閉まってしまうから、演劇人が舞台の興奮をさますために、息を入れるチャイナタウンもほど近い。『THE BEE』『THE DIVER』が終演したときの興奮を今でも劇場とともに思い出す。そのソーホー・シアターで四月の三十日から、野田が作・演出する『One Green Bottle』が幕を開けた。この作品については、当ブログで劇評を書いたので参照していただきたいが、私にとっては、故・十八代目中村勘三郎と野田が俳優として、最初で最後の舞台となった事実が重い。
東京芸術劇場でリハーサルを観たときも、初夏の暑さが厳しく、出演者たちが汗びっしょりだったのを思い出す。
ウィル・シャープによる英語翻案は、この思い出を覆すように、新たな創作と呼ぶにふさわしかった。

私はかつて、ソーホー・シアターについて以下のような文章を書いている。

旅はどこか開放感がある。
日頃の敷居をまたいで、毎日のように野田と会った。特にソーホーシアターは、劇場の一階にバーとレストランが併設されており、芝居が終わると野田は若い友人たちに囲まれて飲むのを好んだ。東京では近づきがたい存在に、もはや野田秀樹はなっていた。日本やアジアの留学生に囲まれ、友人として話し込む姿を何度も見た。
ひとしきり話すと向かいのインド料理店や中華街に繰り出した。私は東京で野田と食事に行ったのは数えるほどだけれど、海外ではよく話した。舞台についてだけ話していたわけではない。他愛もないばか話もずいぶんした。野田は飲むと陽気になった。しかも、笑顔の魅力がさらに輝きを増す。才能はもとよりだけれども、この笑顔に惹きつけられて、人々は野田のもとに集まってきたのだと思った。
すでに演劇界に確固たる地位を築いたにもかかわらず、野田が偉ぶるのを観たことがない。特に若い俳優に対しては、対等に接するのを好むのを目撃してきた。劇作家・演出家ではなく、同じ舞台を踏む同僚として、若い世代とかかわろうとしている。演出家は孤独である。野田は決して巨匠にならないことで、孤立を避けているように思える。

今回の初日も、観客の反応がよかったと聞く。その喜びを受け止め、おそらくは、芝居が終わると、野田は若い友人たちと陽気に話し込んでいるのだろう。仕事に追われ、今回は現地の空気をともに出来なかったのが残念でならない。

2018年4月10日火曜日

【劇評105】蠱惑の魅力、悪党を演じて比類のない仁左衛門

 歌舞伎劇評 平成三十年四月 歌舞伎座夜の部

『女殺油地獄』に続いて当り芸を次々と「一世一代」で演じる仁左衛門。今回、底光りする悪の権化を二役で演じる『絵本合法衢』もまた、もう二度と見られないのかと溜息が出る。体力、気力を厳しく計り、余力のあるときに止めようとする仁左衛門ならではの矜恃があるのだろう。
さて、四世南北の作だけあって、一筋縄ではいかない劇作である。仁左衛門は御家横領を企む左枝大学之助と武家奉公から離れて立場で働く太平次を演じる。傍若無人で容赦のない悪大学之助と、ときに小悪党ならではの愛嬌を見せる太平次、この相反する二役がともにいいのが仁左衛門の身上。玉三郎とあたりを取った『桜姫東文章』はじめまさしく南北ものに工夫を重ねてきただけに、総決算の舞台と私は受け止めた。
序幕第三場「多賀屋陣屋の場」でみせる大学之助の謀略。二幕目第一場「四条河原の場」では、その不良性に、時蔵のうんざりお松がなびいていくのも、納得がいく。第二場「今出川道具屋の場」でみせる時蔵のゆすりに緊張感があって出色。昼の部の政岡とともに、うんざりお松もすぐれ、菊五郎、仁左衛門の芝居をしっかりと受け止める立女形として立派だった。
三幕目第四場では、仁左衛門が胸のすく殺し場をみせる。この奮闘をみると切れ味があり、「一世一代」が惜しくなる。
二枚目役者はこれからも出るだろう。けれど心のなかに氷のような冷たさを感じさせる巨悪と、その愛嬌で人をひきつける小悪党を二役で演じて破綻のない役者はそうそう得られるものではない。急に仁左衛門の『盟三五大切』が観たくなった。二十六日まで。

【劇評104】世話と時代をもろともに味わえる菊五郎の『裏表先代萩』

 歌舞伎劇評 平成三十年四月 歌舞伎座昼の部

平成を代表する大立者、菊五郎と仁左衛門の通し狂言が、昼夜それぞれに並ぶ。かつてのように、昼と夜の両方に芯となる出し物をするのはむずかしいとしても、どちらかならば、まだまだ重量感のある舞台を見せる。どれだけの気力の充実を感じた。
まず、昼は菊五郎の『裏表先代萩』。いわずと知れた『伽羅先代萩』の書替狂言だが、菊五郎の芸質が生きるのは、世話の幕。悪党の下男小助にすがれた色気が漂う。「大場同益宅の場」では、同益(團蔵)がお竹(孝太郎)を妾にしようとする欲得を利用して、計略をめぐらすあたりが江戸の小悪党小助が鮮やかに描き出される。
二幕目の「御殿」は、飯炊きこそないものの政岡を演じる時蔵の地力がよくわかる。出じから憂いの霧も深く、鶴千代(亀三郎)と千松のやりとりを見守りながらも痛みが心に突き刺さっているとわかる。栄御前(萬次郎)の出に品格があり、八汐(彌十郎)も立役ならではの凄みが出た。沖の井に孝太郎、松島に吉弥。周囲の人々に支えられて、時蔵が存分に芝居を見せる。栄御前が去ってからの放心と嘆きがみどころとなる。
「床下」は彦三郎の荒獅子男之助も健闘。また、なにより菊五郎の仁木弾正に妖気が漂う。本人も筋書で語るようにこの役は仁ではないが、さすがに藝境高く、地霊までもが呼びさまされる花道の引っ込みとなった。
「問注所」では、菊五郎は小助で出る。『伽羅先代萩』の仁木で出るときのふてぶてしさはないが、『裏表先代萩』ならではの小助の愛嬌がみもの。世話を運んでいくうまさは、当代一だろう。
一転して「刃傷」では、仁木となって、ふてぶてしさがある。お竹に「ざまあねぇや」と自嘲するときの絶妙な味に魅了された。坂東亀蔵の民部が神妙。善悪を超えた人間の大きさを見せる東蔵の外記左衛門。錦之助の勝元はすっきりとして姿がいい。
時代と世話をもろともに楽しめる『裏表先代萩』は、顔ぶれが揃ってこその演目。細部に目を凝らし、じっくりと楽しめる舞台となった。外に松緑、錦之助の『西郷と勝』が朝幕に出た。二十六日まで。

2018年3月12日月曜日

【劇評103】菊之助初役、江戸の粋を生きる

 歌舞伎劇評 平成三十年三月 国立劇場

なんとも清新な新三を観た。
菊之助初役の『髪結新三』は、菊五郎監修による。父のもとで勝奴を勤めた経験が生きて、仕事の細部に狂いがない。
それほど新三は、世話物でありながら、やらなければならぬ型が仔細に決まっている。まずは白子屋の見世先、忠七(梅枝)の髪をなでつけながら、お熊(梅丸)を連れて逃げよと説きつける件り。へりくだって、お為ごかしをいいながら、悪党の片鱗をのぞかせる。
永代橋の場では、忠七を痛めつける件りが梅枝の好演もあって、豹変振りが面白い。「忠七さん、おめぇさん内に来ると言いなさるが、何の用があって来なさるんだ」から正体を現していくが、段取り芝居にならずに、刻々と凄みをましていく。
新三内の場で、弥太五郎源七(團蔵)とのやりとりも一触即発の緊張感がある。新三はこれから売り出し。顔役の前できっさき鋭く迫っていく度胸が見えた。
さらに元の新三内の場で、家主(亀蔵)にやりこめられる件りも愛嬌がにじむ。お熊を帰すくだりでは、柱の脇であごをなでるあたりも堂にいっている。舞台中央で見送るあたりにゲスな色気が出ればいいが、これは資質というよりは、年季の問題だろう。
脇を固める役者たちも初役が多いが、手堅く菊之助を支えている。家主女房の橘太郎、車力善八の菊市郎、肴売の咲十郎もよい味を出している。さすがに菊五郎劇団の味がしみている。音羽屋の御曹司として、世話物の立役に挑んでいく入口で、相応の結果がでた。中村屋の系統の上州無宿としての新三ではなく、江戸の粋を体現した存在としての新三として狂いがない。
勝奴は萬太郎。抜け目ないところが見えるが、江戸の粋を漂わせるには時間がかかる。菊之助の長男、寺嶋和史は、初目見得からずいぶん成長して頼もしい。
鴈治郎の若狭之助がこなれた芝居を見せるのが『増補忠臣蔵』。ここでも加古川本蔵の亀蔵、三千歳姫の梅枝がしっかりと舞台を支えている。二十七日まで。

2018年2月10日土曜日

【劇評102】襲名で見せる白鸚の進境。幸四郎の覚悟。染五郎の花。

 歌舞伎劇評 平成三十年二月 歌舞伎座夜の部 

白鸚、幸四郎、染五郎、三世代の襲名も二月目。夜の部は、『熊谷陣屋』、『七段目』と高麗屋にとって大切な演目が出た。
襲名は、家の藝を継承する覚悟を示す場である。新・幸四郎は、『熊谷陣屋』の熊谷を勤めた。武士が墨染の衣に身を包んで、身代わりとなって死んだ我が子を弔う。絶望の深さ、断念の苦さは、役者としての技巧ばかりではなく、いかに人生と対峙しているかが問われる。初代白鸚、現白鸚、伯父にあたる吉右衛門の熊谷を思いつつ、新・幸四郎ならではの『熊谷陣屋』となった。これまでの熊谷は、英雄の悲哀に力点があった。ところが今回の舞台には、老いの要素が薄い。あくまで壮年の熊谷であり、だからこそ、魁春の相模とのあいだに生まれた大事な子を亡くした無念が胸を打つ。雀右衛門の藤の方と相模の対照的なありようもくっきりと打ち出された。熊谷が若いからこそ、女たちの悲しみも切実極まりない。家長として毅然としつつも、どこかに脆さも感じられる熊谷となった。
一方、菊五郎の義経と左團次の弥陀六のやりとり、肚の探り合いは、安定感がある。長い間、同じ舞台を踏んできたふたりの呼吸があっている。菊五郎と左團次の諧謔を好む個性も生きている。この脇筋の好演があるからこそ、熊谷と相模、藤の方の芝居が生きてくる。芝翫、鴈治郎も脇に回って襲名を支えている。
白鸚は隠居名ではあるが、このまま退くつもりは微塵もない。『仮名手本忠臣蔵』のなかでも華やかな舞台面とはうらはらに、由良之助内心の苦渋を見せる「七段目」。遊蕩にふける由良之助を作りすぎず、遊びに溺れず常に討ち入りへの道筋が頭から離れない由良之助を、白鸚は描き出した。
密書を持ってくる力弥は、新・染五郎。若衆は、若年で勤めるのは難しいが、持ち前の美貌で切り抜ける。ふんわりとした柔らかさ、色気が出て来るのは、これからだろう。
さて、今回の公演では、お軽を玉三郎と菊之助。平右衛門を仁左衛門と海老蔵。偶数日と奇数日で交替して勤める。歌舞伎座の招待日は、海老蔵、菊之助の組み合わせだった。海老蔵の平右衛門が討ち入りに加わりたいと願う願書を突き返す件、足軽の身分をおとしめる件、白鸚と海老蔵の個性もあって、危うい均衡を示す。白鸚の大きさ、海老蔵の直情が生きている。
のちに菊之助のお軽が、平右衛門の殺気に怯える件もよい。庭木戸の向こうで怯えるお軽、本舞台でなんとかなだめすかそうと努める平右衛門。海老蔵の平右衛門は、苦労が身に染みている。
兄妹の情愛、大義に向かう兄、夫勘平の死を知らぬ妹の憐れが生きた。菊之助のお軽は、勘平の死を知っての泣き落としで、芝居は大きいが、ややリアリズムに傾く。「七段目のお軽」ではなく、「忠臣蔵のお軽」として、ミドリの上演でも芯を貫こうとする意思が感じられた。
先月の舞台でも思ったのだが、襲名ならではの破格な座組もあって、白鸚は、これまでの理知的な芝居から、更に高い芸境へと変わりつつある。
旧歌舞伎座のさよなら公演、新歌舞伎座の杮茸落を思わせる大一座を楽しめるのが、『芝居前』。藤十郎も山城屋抱え芸者お藤で、華を添える。楽善、我當、猿之助も顔を見せた。二十五日まで。

2018年1月22日月曜日

【閑話休題76】ブログの劇評が100本を超えました。

平成二十七年の一月に思い立ってはじめた劇評ブログですが、三年をかけて100本を数えました。
備忘録のようなものといってしまうには、肩の力が入っている劇評もなかにはあります。
歌舞伎劇評と現代演劇劇評を同じ筆者が書いているのが、取り柄といえば取り柄だと思っています。

今日の東京は大雪。今期の最後から二回目のゼミを開く予定だったのですが、休講に。
そのため思いがけない時間が出来て、ケラリーノ・サンドロヴィッチについての論考、
『近松心中物語』と『黒蜴蜓』の劇評、今年の三月にラオスのビェンチャンで開く展覧会の挨拶文と
ずいぶん原稿の仕事がはかどりました。たまには外へ出かけない日を作らないといけませんね。

これからも本ブログをどうぞよろしくお願いします。

【劇評101】デヴィッド・ルヴォー演出のスタイリッシュな論争劇。三島由紀夫の『黒蜥蜴』

 現代演劇劇評 平成三十年一月 日生劇場

三島由紀夫の『黒蜥蜴』は、スタイリッシュな論争劇である。
代表作とされる『サド侯爵夫人』や『我が友ヒットラー』や『近代能楽集』のいくつかの作品と比較すると、甘い誘惑に充ちている。ところが筋立てを楽しむエンターテインメントとあなどると、手ひどいしっぺがえしをくらう。デヴィッド・ルヴォーの演出は、緑川夫人=黒蜥蜴と明智小五郎の言葉での論争を丁寧にたどっている。言葉で相手をやりこめ、叩きのめし、押しつぶす。その営みは、恋愛のプロセスとよく似ている。そんな解釈を根底に置いて、微動だにせず、全編を精緻な論争劇とした。
もとより三島戯曲の根幹には、言葉と論理がある。けれどもエンターテインメントとしては、登場人物たちの輝かしい肉体とその存在を彩る衣裳が不可欠だろう。もちろん美を際立たせる照明も重要である。緑川夫人=黒蜥蜴を演じた中谷美紀は、成熟期にある女優のカリスマに充ちている。そればかりではない。特権的な美をそなえた人間の誇りと弱さをよく表現している。初舞台『猟銃』で舞台女優としての才能を示したが、この『黒蜥蜴』でも、三島の幻影を体現するだけの力量を示した。
明智小五郎を演じた井上芳雄は、ロジックの隘路のなかで緩慢な自殺を繰り返すインテリの孤独を体現している。
相楽樹の早苗は可憐だが、ブルジョアに生まれた令嬢の無神経さを見せる。たかお鷹は、成金のいやらしさを誇張してみせる。酔ってランニング姿になるあたりは絶好調だ。そして自意識の堂堂巡りに陥った青年、雨宮潤一の絶望を成河がよく演じている。朝海ひかるの家政婦ひなは、黒蜴蜓に対する屈折までも感じさせる。総じて、俳優陣の役の掘り下げが徹底していて、デヴィッド・ルヴォーの戯曲解読と相まって高い水準の舞台となった。偽物にこそ、真の熱情がこもる。嫉妬によってしか恋の内実は確かめられない。まさしく三島独自の世界観がここにはある。
乱反射する天窓、海の表情を写す映像、マストを使った航海の描写、スタッフワークも充実している。美術は伊藤雅子、照明は西川園代、衣裳は前田文子、音楽は江草啓太、音響は長野朋美、映像は栗山聡之、振付は柳本雅寛。スタッフの能力を引き出し、総合するのが演出の仕事だと今更ながら思い知らされた。二十八日まで。二月一日から五日まで大阪公演。

【劇評100】無数の風車が、人間の生の営みを語る。『近松心中物語』

 現代演劇劇評 平成三十年一月 新国立劇場中劇場

『近松心中物語』は、私にとって忘れがたい作品である。蜷川幸雄の演出によって、一千回を越える上演が繰り返された。七九年の初演の舞台を帝国劇場で観たときの衝撃は、今も私のなかに深く刻まれている。
一九九九年ごろ、『演出術』をまとめるために蜷川の稽古場へ通った。『近松心中物語』についても詳しく話を聞いたが、秋元松代の戯曲のなかでも、もっともよく知られる本作について蜷川の言葉は、意外に冷ややかであった。第一稿の一幕を取材先のモスクワではじめて読んだときの感想である。
「カーテンを開けて窓越しに猛烈な吹雪を見ながら台本を読んだんですけれども、正直いって、「まいったなあ」と思いました。今まで本当のことをしゃべっていませんけど、「薄っぺらい戯曲だなあ、演出できないなあ」と思いました。まだ一幕だけですけれども、奥行のない平板な戯曲に思えたんです」
この平板な戯曲を立体的にするために蜷川は、演出術の限りを尽くした。その詳細については、『演出術』(ちくま文庫)にあたっていただければうれしい。視覚的、音楽的な効果については今更語るまでもないが、蜷川が演出によってこの戯曲に与えた最大の往昔は、廓に生きる名も無い人々のたくましくも悲しい生き方を描き出したところにある。鳥の視点から廓を眺め、虫の視点から人間をみつめたのである。
今回、いのうえひでのりが『近松心中物語』を演出すると聞いて、なるほどなと思った。ダイナミックなスペクタクルを演出する力量、辺境や底辺に生きる人間に対するこだわりは、蜷川と共通した面がある。なるほど適切な起用だと膝を打った。
その期待は裏切られなかった。堤真一の忠兵衛、宮沢りえの梅川、池田成志の与兵衛、小池栄子のお亀。いずれも瑞々しい人間像を描き出している。かつて、蜷川版の『近松心中物語』を演じてきた俳優は、世代によっては歌舞伎の『封印切』や『新口村』への意識が強かった。大なり小なり歌舞伎への尊敬と対抗心があった。今回の上演では、ありふれた人間のありふれたメロドラマと割り切って演出されており、心中する人々を崇高なものとして美化するそぶりがない。特に与兵衛、お亀はコミックのように誇張された表情、身振りに徹していて、人間の愚かさ、哀しさを直接的に描いている。
いのうえのステージングは、装置をダイナミックに動かし、無数の風車を自在に回して、人間の生の営みを象徴的に表している。この風車のひとつひとつが、はかない人生と思うと胸がこみあげてきた。
演技については歌舞伎へのコンプレックスとは無縁だが、演出手法にいては浪布やぶっかえりなどを巧みに取り入れている。蜷川の精神は受け継ぐが、コピーには終わらない堂々たる舞台となった。型の継承に終わらぬ演出は蜷川が喜ぶだろうと私は思う。二月十八日まで。

2018年1月14日日曜日

【劇評99】新春の国立、菊五郎劇団の娯楽作を楽しむ。

歌舞伎劇評 平成三十年一月 国立劇場 

新春の国立劇場、菊五郎劇団の公演は、独特のカラーで観客の期待に応えてきた。
 近年では、平成十八年『曾我梅菊念力弦(そがきょうだいおもいのはりゆみ)』や平成二十八年『小春穏沖津白浪(こはるなぎおきつしらなみ)』などが思い出深い。久しく上演されない演目を、復活狂言という名目で大胆なテキストレジをほどこす。新春らしい愉しい演出をほどこす。菊五郎らしく時事ネタを大胆に取り入れた場面を作る。観客は期待にたがわぬ理屈抜きの初芝居を楽しんできた。
 今回もその路線を踏襲しているが、少し趣が異なる。『世界花小栗判官(せかいのはなおぐりはんがん』は、語り物のおおもとにある説経節にある小栗判官の伝説を取り入れた「小栗物」である。近年では、猿翁の『當世流小栗判官』や『オグリ』が記憶に新しい。菊五郎も、『児雷也豪傑譚話』では、俊徳丸、浅香姫のいざり車のくだりを入れ子にしている。
 今回は、通し狂言としての上演で、「鎌倉扇ヶ谷横山館奥庭の場」での名馬にして気性の荒い「鬼鹿毛」を小栗判官兼氏が乗りこなす件がまず見物だ。膳所の四郎蔵(坂東亀蔵)がすすめる碁盤乗りの曲馬もなんなくこなしてみせる。「鬼鹿毛」が芯となっての大立ち回りもなかなか楽しめる。
 菊之助の颯爽たる貴公子ぶりも、第三幕では暗転する。青墓宿では、流浪の果てに足利の重宝「勝鬨の轡」を探索しているが、万屋という地元の長者の婿に迎えられる次第となっている。後家のお槇(時蔵)、判官に一目惚れしたお駒(梅枝)。女中頭のお熊(萬次郎)に苛められる小萩(右近)は、実は小栗判官の許嫁照手姫(右近)との趣向。お駒と小萩の恋の鞘あてが見物となっている。菊之助は序幕での得意の絶頂から、流浪の果てにいる身の哀れが、より対照的に描き出したい。
 あいだの二幕目は、漁師浪七(松緑)と悪事を企む鬼瓦の胴八(片岡亀蔵)のだましあいが見どころ。松緑、亀蔵の芝居が弾んでいる。
 盗賊風間八郎の菊五郎が要所要所を締める。大詰、絵面に決まるときの大きさは比類がない。ただ、以前よりも菊五郎の比重が少なく、時蔵、松緑、菊之助、梅枝、右近による芝居となって、ここでも世代交替が進みつつのを感じた。時蔵の立役もなかなかの風格。
 菊五郎はこうした芝居では全体を引き締める役にとどめて、他の月、世話物の第一人者としての芝居を期待したい。二十七日まで。

【閑話休題75】いのうえひでのりの『近松心中物語』。

昨夜、いのうえひでのり演出の『近松心中物語』を観た。のちに劇評を書くと思うが、まずは簡単なご報告を。
この芝居は近松門左衛門の浄瑠璃、歌舞伎を原作としている。俳優に歌舞伎役者に対するコンプレックスがあると、
歌舞伎のコピーとなってうまくいかないのをこれまで感じていた。「封印切」や「新口村」の様式的な演技の鍛錬が欠けたまがいものに見えてしまうのである。
今回、堤真一、宮沢りえ、池田成志、小池栄子のふたつのカップルには、こうした歌舞伎コンプレックスがなく、清新きわまりない。
それに対して、いのうえの演出は歌舞伎の演出技法を遠慮なく取り入れている。演技陣の歌舞伎離れと演出の歌舞伎への固執。
このアンバランスがなかなか上手く働いている。あたりまえだが、歌舞伎の焼き直しではなく、秋元松代戯曲の新解釈となっている。

【劇評98】白鸚、幸四郎、染五郎の襲名。まずは大吉。

 歌舞伎劇評 平成三十年一月 歌舞伎座

あけましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いいたします。

高麗屋三代の襲名の席に立ち会う。新春大歌舞伎は、三十七年の時を隔てて、ふたたび白鸚、幸四郎、染五郎の名が、新しい世代に引き継がれた。
ここで私なりの白鸚の思い出を語る。まぎれもない英雄役者で、なかでも青果の『元祿忠臣蔵』の大石内蔵助の端然とした姿が今も記憶に残っている。一九七八年の国立劇場。八代目幸四郎として最晩年の舞台だが、ただ端座するだけで、まぎれもない武士がそこにいる。何もしない藝というが、単に動きがない演技を指すわけでない。動きは最小限であっても、その人物として乱れなくそこにいる藝をまのあたりにした。粗にして野だが、卑ではないとの言葉があるが、八代目幸四郎、初代白鸚ほど、そんな評言が似合う役者を知らない。
今回の襲名で、九代目幸四郎は、二代目白鸚となって『菅原伝授手習鑑』「寺子屋」の松王丸を出した。無駄な動きを排して、きりつめた演技でありながら、子を身代わりに差し出した男の絶望をありのままに描いている。その描線は太く、胆力にあふれている。松王丸の病いとは、身体の病いではなく、人間として、父親として並外れた覚悟を強いられた男の病なのだとよくわかった。「にっこりと首差し出しましたか」と泣き上げる件も様式に寄りかからずに、実がこもっている。新・白鸚がこれまでの蓄積の末に到達した独自の藝が、父の初代白鸚を思い出させる不思議を思う。梅玉の源蔵、魁春の千代、雀右衛門の戸浪、左團次の玄蕃、藤十郎の園生の前と現在の歌舞伎を代表する世代が脇を固めて悪かろうはずもない。東蔵は百姓吾作、猿之助は涎くりに回った「ごちそう」で襲名のめでたさを盛り上げる。
さて、染五郎改め十代目幸四郎は、昼の部に『菅原伝授手習鑑』「車引」の松王丸、夜の部に『勧進帳』の弁慶を勤めて、高麗屋の藝を正統に継承していく覚悟を示す。
「車引」は、勘九郞の梅王丸、七之助の桜丸、彌十郎の時平公の顔合わせ。十代目は、これからの世代のリーダーとして、歌舞伎界の地図を塗り替えていくのだろう。そのためには、今月でいえば、勘九郞、七之助とともにする舞台が大きな鍵となる。思えば、昨年の八月、『野田版 研辰の討たれ』の舞台は、染五郎を中心として今月の「車引」を務めた役者が結集していた。古典ばかりではなく新作歌舞伎に意欲的なのも、染五郎、勘九郞、七之助、彌十郎の強みだろう。
さて舞台の出来だが、この世代はすでに自分自身の本役を見定め安定してきたと思う。まず、勘九郞と七之助ばバランスがよく、長い語りの末に深編笠を取ったときの新鮮さ、顔を見せない場面でも、梅王丸と桜丸が声の調子と身体で描画できている。また、新・幸四郎の松王丸は身体を大きく見せたりする無理からほぼ解き放たれた。力感を肚に落として、でっけえという化粧声を受け止める余裕さえ感じられた。彌十郎は古怪の意味をよく理解して、超自然的な存在であろうとしている。
幹部総出演の口上に続き『勧進帳』となる。平成二十六年十一月歌舞伎座。染五郎として始めて弁慶を勤めたときの配役は、染五郎の弁慶、幸四郎(現・白鸚)の富樫、吉右衛門の義経だった。このときは精一杯の弁慶が、義経を危機から救おうとする役の性根がだぶって胸を打った。
今回も懸命の舞台であるが、吉右衛門との拮抗に力点がある。山伏問答も、弁慶が富樫の追求を洋々と跳ね返すのではなく、薄氷の思いで切り抜けているとわかる。また、義経(新・染五郎)打擲の前、吉右衛門の富樫が、強力の正体は義経だ見破り、義経を守り抜こうとする弁慶の必死な姿に打たれ、すべてを胸に収めて、富樫自らの死を覚悟する藝が圧倒的に優れている。十代目幸四郎の弁慶は、これ以降、富樫への恩を片時も忘れず、芝居を運んでいる。この肚があって、延年の舞も、より深い翳りを帯びてくる。新しい染五郎には、なによりこの役に欠かせない気品がある。華がある。これからの充実が期待される。二十六日まで。
この襲名披露は、二月も続く。幸四郎の『熊谷陣屋』、白鸚の『七段目』がたのしみでならない。