長谷部浩ホームページ

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2017年10月29日日曜日

【劇評87】寓意による現代批判 イキウメの『散歩する侵略者』をめぐって

現代演劇劇評 平成二十九年十月 シアタートラム 

SFには寓意がある。そのために社会諷刺に絶大な力を持つ。つまりは、現実の権力や社会を特定せずに、人類普遍の問題を摘出して、鋭く批判する構造を持っている。
前川知大の多くの作品は、このSFが持つ寓意性を活かしている。六年前の旧作『散歩する侵略者』(前川知大作・演出)もまた、こうした構造が、二○一七年の現在をも照射する。どことはあきらかにされないが基地のある町が舞台である。その中都市のありふれた人々が「宇宙人」が地球侵略を行うための攻撃にあうという設定である。もっとも、この攻撃とは暴力によるものではない。人間が持つ「概念」を奪う。「宇宙人」に概念を奪われた人は、その概念を失ってしまう。
「宇宙人」に身体を乗っ取られた加瀬真治(浜田信也)は、妻鳴海(内田慈)と別居していたが、三日間の失踪のうちに「宇宙人」に身体を乗っ取られたために、ふたたび妻との関係が深く結ばれていく物語である。
真治が、妻の姉船越明日美(松岡依都美)から奪うのは「家族」という概念であり、次ぎに浜であった丸尾清一(森下創)から奪うのは「所有」という概念である。この運びによって、いかにこのふたつの概念が、人間の自由を阻害しているのではないか。そんな作者の主張が見えてくる。ここには痛烈なアイロニーが込められている。
また、高校生の天野真(大窪人衛)や大学生の立花あきら(天野はな)と、ジャーナリストの桜井正蔵(安井順平)、医師の車田寛治(盛隆二)、明日美の夫で警察官の船越浩紀(板垣雄亮)の間には、決定的な世代間の価値観の相違が横たわっている。そればかりではない権力性を帯びたマスメディア、医療、警察と個人との対立が、先鋭化したかたちで描かれている。
もちろん寓話である以上は、単純化、抽象化が行われているのはいうまでもない。たとえば「愛」という概念には「喜び」や「哀しみ」が隣接しており、ひとつの概念だけを抜き取るのは不可能だという反論も成り立つ。けれども、こうした寓話を巧みに使わなければ、届かない思い、届けたい主張があることを重くみたい。
また、『太陽』でいえば、夜の住人と普通の人々、近作の『天の敵』でいえば、食血をする人々とされる人々のような二項対立がある。『散歩する侵略者』では、宇宙人と普通の人々が、否応もなく対立している。前川はこの対立を善悪で切り取るのではない。むしろ「宇宙人」とは、地球外生物ではなく、人類の歴史のなかで、侵略そして征服を企ててきた一部の人間を指すのではないか。そんな絶望的な思いが劇を観ているうちに立ち上がってくる。
きけば、前売とともにチケットは完売だという。この劇の内実、水際だった演出、自信に支えられた俳優陣、そして良心的な価格設定を考えれば、完売も当然であろう。もっとも優先的に観るべき集団のひとつとして、前川が主宰するイキウメが定着したのはいうまでもない。十九日まで、シアタートラム。そののち、大阪、北九州を巡演。


2017年10月22日日曜日

【閑話休題69】投票率と未必の故意

 午後八時で、衆議院選挙の投票が締め切られる。私自身は、昨日のうちに期日前投票を済ませた。自宅から投票所までは至近の距離なので台風を恐れてではない。自分のなかで投票行為を早く完結させたかったからだ。
私の住む投票区は、公明と共産の一騎打ちとなった。したがって有権者はほぼこの二択を迫られることになる。比例区でどの政党を選択するかが選択肢となる。したがって、投票日まで迷うような余地もなく、期日前に投票してしまった。
今回の投票率もはかばかしくないようだ。とはいえ私自身がそれほど投票行動に熱心だったわけではない。時代の変化が感じられる節目に投票してきたに過ぎない。ただし、死に票となることが明らかな場合にも、それをいとわずに投票してきた。
近年は地方選挙にも積極的に投票するようになった。それは現在の政権と時代の空気があまりにも息苦しく、危険な兆候を感じるからだ。このままでは憲法改悪どころか「不可避的に巻き込まれた」などの名分のなかで戦争に日本が関与していくことも充分ありえると思っている。有権者である以上、投票行動は政治参加の基本にある。一部に棄権をすすめるような言動も観られるが、これも逆説と受け取るべきだろう。棄権をすすめることで、投票をすすめられていると私は考えている。
今、五時半を少し過ぎた。
地域によっては暴風雨となっているだろう。けれど、もし可能であれば、投票にいっていただきたいと私は思う。
六十歳近くなるまでは、政治的な意見を公表することはなかった。保守であれ、リベラルであれ、レッテルは問わない。ある程度の投票率があれば、その結果に納得がいく。無力感しかない投票率であれば、今後の日本がどこへ進むか「未必の故意」が有権者にあったと、のちに責められても仕方がないとさえ思う。

【劇評86】仁左衛門の実悪。水右衛門に色気。

 歌舞伎劇評 平成二十九年十月 国立劇場。

天皇の退位の時期が決まり、平成の世も遠からず終わることになった。平成歌舞伎の光芒を伝える舞台を目に焼き付けておきたい。そんな気持ちで国立劇場の『通し狂言 
霊験亀山鉾 ー亀山の仇討ー』を観た。
仁左衛門が座頭として藤田水右衛門と古手屋八郎兵衛を勤める。脇を固めるのは、播磨屋吉右衛門と同座することの多い雀右衛門、又五郎、歌六。そこに彌十郎、錦之助、孝太郎も加わるのだから、座組に不足はない。実力のある俳優で、四世鶴屋南北が仕組んだ台本を味わう。至福の体験である。
序幕第二場、石和河原仇討の場から、役者の魅力があふれでる。仁左衛門が演じると実悪の水右衛門に色悪の魅力が加わる。兵介の又五郎のきりりとした様子、官兵衛の彌十郎の捌き役の風格さえ漂わせる大きさ、三人が絵面に決まっただけで、歌舞伎は役者ぶりを観る演劇だと思い知らされる。役柄と役者の複雑な関係に、観客の想像力がからむとき、喜びが生まれる。
時代の幕ばかりではない。二幕目、世話となってからも、こうした役柄、役者、観客のせめぎあいが舞台を作る。仁左衛門が水右衛門から八郎兵衛に替わりるのが最大の見どころだ。加えて弥兵衛実ハ源之丞の錦之助をあいだに、芸者おつまの雀右衛門と丹波屋おりきの吉弥がやりとりする場面に陶然となる。ひとりのいい男に、ふたりの女。
また、この場では団扇の絵を手掛かりに、おつまが八郎兵衛と瓜二つの水右衛門と思い込む取り違えもまた見物になる。『鰻谷』を踏まえている。
近代の劇構造からすれば不自然な取り違えも、初演の五代目幸四郎の存在が前提にあり、今、大立者となって風格を漂わせる仁左衛門がいれば、十分に成り立つ。歌舞伎は役者を観るものとすれば、なんの不自然もない。
駿州中島村の場では、狼が出没してふたつの棺桶が取り違えられ、次の焼場の場で火に掛けられた棺桶のタガがはずれて、水右衛門が不敵に登場する趣向へと繋がっていく。
芝居になっているのは、三幕目機屋の場。ここでは秀太郎の貞林尼がみずから自害して肝の臓の生血を孫に与える件がみもの。息をつめた芝居を秀太郎が全体を締めつつ運んでいく。いささか身体が不自由に見えるもののさすがの芸力を見せつける場となった。秀太郎が品格を失わず、孝太郎が派手なところをのぞかせるのも対照の妙。
大詰は祭礼の雰囲気を、陰惨な敵討に取り入れるのが趣向。ここでも仁左衛門が実悪の大きさを見せつける。水右衛門をおびきよせる頼母一役を歌六が勤め舞台を引き締める。
母子に助太刀もあって水右衛門が敵討されると、直って「まずはこれぎり」と幕切れ。古典歌舞伎の醍醐味をもたつくことなく趣向で見せた好舞台。二十七日が千穐楽だが必見であろう。

2017年10月13日金曜日

【閑話休題68】永井愛作・演出の『ザ・空気』が思い出される。衆議院選挙について。

 連日、大きな組織による不正が報じられている。商工中金、神戸製鋼、日産自動車、東芝と、まるで負の連鎖が続いているかのようだ。
それにしても、日本社会からモラリティが失われたのは、いったいいつ頃からだろう。近年明らかになった事実は、どこまでさかのぼれるのだろうか。モラルハザードが崩壊したとすれば、それは経済界だけではない。安倍晋三首相が、森友・加計問題への説明・弁明を怠ったまま、衆院議員解散を強行した時点で、政治に関するモラルもまた、地に落ちたと考える。安保関連法案をとどめることができなかった私たち市民がいかに現実を直視するかが、今回の投票で問われている。
欺瞞や不正など人類の誕生からあった。組織はそのような腐敗を必然的に生むとの反論もあるだろう。それだけに人類は、種の生存と地球を守るために、法による統治を求めてきた。立憲主義はその根本にあり、多くの戦争を経験してきたあげく、ようやく手にした現行の憲法を改悪しようとする勢力には、欺瞞や不正をものともしない邪心がある。
もちろん、正義と真実ばかりを尊いとするのではない。むしろ、希望を強調して国民を思っているかのように主張する勢力にも、また大きな邪心が潜んでいるように思えてならない。
毎日の生活に追われるがゆえに、なにか大切なものが犠牲になってはいないか。テレビの報道の現場を鋭くえぐった永井愛作・演出の『ザ・空気』が思い出される。メディアの内部にも、忖度と圧力と排除が蔓延している現実を先取りにして舞台にしていた。ジャーナリズムからもモラルが失われて、事実は巧みに隠蔽される。初演は、今年の一月だが、この鋭角的な告発を受け止めることができず、手をこまねいていたがゆえに、この十月の陰鬱きわまりない現実がある。そう自問自答せずにはいられない。

【劇評85】エロティシズムの醸成。玉木宏、鈴木京香による『危険な関係』

現代演劇批評 平成二十九年十月 Bunkamuraシアターコクーン

舞台の根本にはエロティシズムがあるのは洋の東西を問わない。肉体を観客の視線にさらす演劇や舞踊では、色気がその空間を支配しているならば、そこには演じる者と観る者の間に陶酔が生まれる。
クリストファー・ハンプトンによる『危険な関係』(広田敦郎訳、リチャード・トワイマン演出)は、書簡小説の嚆矢といわれるラクロの原作を基にしている。貴族社会の頽廃を描いて、人間の奥底に眠った欲望を掬い取っている。今回の舞台も、こうしたエロティシズムの醸成に怯まない。あえていえば、上質なポルノグラフィであることを恐れない。けれども、決して品位を失わない。このあたりが、トワイマン演出、ジョン・ボウサー美術・衣裳の洗練された演出と視覚イメージの手柄であろう。
けれども、いかに洗練された演出を得ようとも、俳優の肉体に魅力がなければ、『危険な関係』は成り立たない。ヴァルモン子爵を演ずる玉木宏の引き締まった上半身。誘惑の視線があって観客は、まず魅了される。さらにメルトゥイユ侯爵夫人を勤めた鈴木京香の豊満で華やかな空気感もまた、作品全体にゴージャスな彩りを与えていた。
トゥルヴェル法院長夫人の野々すみ花が貞淑なたたずまいから、急激に恋にもだえる過程の振幅。ダンスニーの千葉雄大の幼さがゆえの残酷。セシルの青山美郷の可憐と、恋愛と謀略のただなかにいる人物の造形が多彩なのは、配役のみならず、演出の手腕だといっていい。娼婦エミリの土井ケイトも不埒な様子がおもしろい。
そして全体を引き締めるのは、セシルの母ヴォランジュ夫人の高橋惠子、ヴァルモンの叔母ロズモンド夫人の新橋耐子で、枯れたそぶりのなかに、かつての放埒な日々を感じさせるのはさすがである。
美術・衣裳ともに十九世紀の時代には、あえてこだわらない。フランスのインテリアから離れて、盆栽や襖を思わせるセットを組んだ。演出家と美術家の幸福な緊張関係があって、このような美的な舞台が生まれる。
一九九一年。ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーは、パナソニック・グローブ座で来日公演を行った。デヴィッド・ルヴォー演出の舞台が思い出される。今回のトワイマン演出は、まぎれもなく二十一世紀の頽廃を映し出していた。三十一日まで。