長谷部浩ホームページ

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2020年12月14日月曜日

【劇評178】三島由紀夫の情熱と冷血。麻実れいの『班女』をめぐって。

 冷ややかな情熱という言葉がある。  もちろん形容矛盾ではあるが、どうもある階級の人々には、情熱のなかに、度しがたいばかりの冷血が潜んでいるようで、三島文学の主題は、この情熱と冷血をいかに作品に共存させるかに腐心していた。  もっとも、小説よりも戯曲が有利なのは、この情熱と冷血を体現する俳優を配役すれば、おおよその仕事が済む。   それは、少し乱暴に言いかえれば、様式的な演技に終始しつつも、ほの暗い情熱の炎を隠している役者。あるいは、情熱的であることは、観客にとって空疎に受け止められる不思議を会得している役者ともいえるだろう。  三島由紀夫作、熊林弘高演出の『班女』は、このような三島と俳優の二重性を残酷なまでに映し出している。  冒頭から絵描きの実子(麻実れい)にオーケストラピットで、新聞を読ませている。駅頭で恋人を待つ花子(橋本愛)の記事がのった新聞である。はじめの実子と花子のやりとりは不実であり、花の虚を現している。  のちにかつて花子を捨てた吉雄(中村蒼)が上手袖から登場するが、宝塚でいえば銀橋、オーケストラピット前面にある通路を主なアクティングスペースとする。  また、この戯曲には、「班女の扇」が、棒との実子の台詞に登場する。 「あるところで知り合った男が、又会う日のしるしに扇を交換した。今狂女の抱えているのは、夕顔を野花を書いた男の扇、不実な男が持っているのは、夕顔の花をえがいた彼女の扇。男はいつかな現れず、待ちこがれた末に狂ったのだという」とある。  演出家は、観客の想像力を信じていないのだろう。扇の現物を舞台奥に映像で映し出すことさえしてしまう。  また、俳優が情熱的に振る舞おうとすればするほど、そこには、冷ややかな心が宙づりになり、観客は客席に置き去りにされてしまう。  私はこれまで数々のすぐれた舞台を積み上げてきた麻実れいの技藝に満足した。ただし、それは、彼女が遠い世界の住人であって、この世には棲息していないと語っていた。その意味で、麻実は永遠の煙草拾いの小野小町であり、三条御息所なのであろう。  花子はまさしく美しいがゆえに暴虐を尽くす人形であった。橋本の暗い眼差しをおもしろく思った。吉雄は、きまぐれな冷酷さが必要である。中村は優しい才子に見えてしまっていた。  すなわち、この『班女』は、あまりにも半時代で、三島由紀夫に忠実である。  そこには、感動はなく、形式に対する憧憬がある。その不毛さこそが三島なのだと語りかけている。これが様式の不毛を訴えたい演出家の確信なのか、それとも三島とともに狂いたいという情熱的な願いなのかは、私にはわからない。

【劇評177】三島的ではないが、血の通った加藤拓也作・演出の『真夏の死』。

 三島由紀夫については、深い思い入れがある。 もちろん私は小説家としての三島を『花盛りの森』から読み始めた。劇作家としては、なにがもっとも先行していたかは難しいが、おそらくは『サド侯爵夫人』か「近代能楽集」のなかに納められた一幕物だったろう。  今回、三島由紀夫ボツボ五十周年企画として『MISHIMA2020』が、日生劇場で上演された。何分、上演期間が限られているので、『憂国』と『橋づくし』は、見逃した。  今回は『真夏の死』について書く。  私は『三島由紀夫戯曲全集』(新潮社 平成二年)の上下巻を愛用している。『真夏の死』は、百枚の中編ともいうべき小説であり、三島によって戯曲化はされていない。作・演出の加藤拓也は、この荘重な形式によって血液を失った蒼白の物語に、血を通わせた。  三人の子供と避暑に来ていた朝子(中村ゆり)は、海辺での事件に巻き込まれる。義理の妹に預けていた子供のうち、ひとりを残し、ふたりと妹は、溺死してしまった。朝子が傷心のうちに駆けつけた夫勝(平原テツ)を迎える。季節が過ぎ、夫婦がいかに、日常を取り戻そうとし、いかに、苦悶していくかが描かれている。  加藤の翻案は、三島の世界観から自由である。  三島が、小説の叙述の順序について、こだわりぬいているのに対して、なによりもまず、幼い子供を亡くしてしまった若い夫婦の心情をすくいあげようとする。  三島がおそらくはチェーホフの『桜の園』を意識していた物語の動力、ドライブモーターといってもいいが、その有効性を信じている。  世の中には、子を亡くした母ほどの根源的な悲劇をかかえた存在はいない。それは、令和の現在も変わらない。  形式よりは、血と肉と涙が重要なのだと、三島の世界観に異議申し立てをしている。  この舞台を支えるのは、音響や装置を駆使した加藤の演出ばかりではない。中村の自らを突き放した自我のありよう。迷いの中で、ついには結論を見いだせず、そのまま再び、事件のあった海岸へ導かれていく弱さが、よく描き出されている。  また、夫の平原もすぐれている。  そこには、家族に、いや家に何が失われてしまったのかを突き詰めることさえできずに、関係の修復だけを性急に急いでいる夫がいた。自らの考えを肯定できない人間の苦みが、平原によってよく表現されていた。  三島的ではないが、きわめて加藤的な佳品となった。

【劇評176】緒川たまきのコケットリーと高田聖子の胆力。ケラリーノ・サンドロヴィッチのコメディを観て。

 久し振りにコロナウイルスの脅威を感じることなく舞台に接した。少なくとも、休憩がはさまるまでは、舞台に引き込まれて現実を忘れた。  ケラリーノ・サンドロヴィッチ作・演出の『ケムリ研究室 no1 ベイジルタウンの女神』が、世田谷パブリックシアターで上演されていた。上演期間のほとんどは、客席を半減しての上演だし、劇場入口での検温や手洗い、半券の処理も他の劇場と変わらない。  それにも、かかわらず、劇がはじまったとたんに、私たちは、この架空のベイジルタウンに飛んで、乞食たちの楽園へと遊ぶことになる。  こうしたファンタジーが可能になったのは、KERAの劇作は、いい意味で荒唐無稽であることを怖れていないからだろう。  荒れ果てた地区を再開発するために、そのプロジェクトの責任者、女社長のマーガレット・ロイド(緒川たまき)は、一月の間、身分や資産を持たずにタウンで暮らす。そのきっかけとなったのは、ライバルの女社長タチアナ・グリーンハム(高田聖子)との賭けによるものだった。  マーガレットは、この街で、王様と呼ばれる男(仲村トオル)とその妹ハム(水野美紀)と一歩一歩、歩み寄り、理解しあうようになっていく。  奇妙な夢想のなかに生るドクター(温水洋一)やサーカス(犬山イヌコ)は、いかにもケラリーノ・サンドロヴィッチの架空の街の住人らしく、楽しく、悲しく、たくましく生きている。その意味で、この物語は、貴種流離譚であり、成長物語でもある。  この物語の類型を踏襲した舞台が愉快に思えたのは、緒川たまきの浮遊した独特の個性によるものだろう。  どんなお伽噺も彼女のコケットリーが説得力を持たせている。対になる高田聖子もまた、独特の現実感があって、かつてはお嬢様と小間使いだったふたりの複雑な因縁を蘇らせていく。このふたりだけの秘密が掘り起こされるために、すべての物語はある。  多人数の群像劇であるために、長時間になるのは、いたしかたない。  しかし、ここでまた、コロナの現実が私たちを襲ってくる。休憩なしの二時間半くらいが、夢想に溺れて、苛酷な今を忘れるぎりぎりの時間なのではないか。  時間が、私たちを、現実に引き戻そうと強大な力を振るっていた。  

【劇評175】現世の人の身の背後に、亡霊が。玉三郎の『口上 鷺娘』にこぼれる悲しみ。

 一九八六年にアンドルー・ロイド・ウェバーによるミュージカル『オペラ座の怪人』が誕生した。ガストン・ルルーの小説を原作とした舞台は、世界を席巻した。才人、加納幸和は二○○一年に福島三郎との共同台本で、『かぶき座の怪人』という自由な翻案を作り上げたのを思い出す。  この九月、第四部に用意されていたのは、映像×舞踊 特別公演と副題がついた『口上 鷺娘』である。  襲名でも追善でもないから、「口上」は地方巡業でよく行われるようなご当地での挨拶と思っていた。  この予想は見事に裏切られた。現在の第五期歌舞伎座の奈落と迫り上がりの機構を案内するものであった。  玉三郎には、篠山紀信の写真を得た『完全保存版 ザ歌舞伎座』がある。  二○〇一年に解体された旧歌舞伎座を隅々まで案内した写真集である。 香港の九龍城に似ているとまでいわれた旧歌舞伎座の迷宮を、歌舞伎役者たちがいかに愛していたかを私たちは知っている。剥き出しになった配管や配線、いつだれが置き忘れたともわからない荷が廊下に積まれていた。  今回、玉三郎が案内するのは、徹底して合理化され、コンピュータ制御が行われた舞台機構の現在である。  一度機会に恵まれて奈落を案内されたことがあるが、まるでモダンな工場、実験室を見るようだった。  今回のリアルタイム映像は、梅ゼリやスッポン、鳥屋に玉三郎自身がいる。  衣裳を着けた役者がセリに乗っている姿は圧巻であった。いかに奈落がカミオカンデのような異次元の風景に変わっても、歌舞伎座のどこかに怪人が住んでいるのだと、改めて信じさせてくれた。  玉三郎は、歌舞伎座という存在自体が、スペクタクルであり、その蠱惑の根源であると知り尽くしている。  さて、『鷺娘』であるが、五千回踊った演目だけに、この歌舞伎舞踊家にとって、もっとも大切な舞踊劇だとよくわかった。  すでにささよなら公演で本人によって封じられているから、舞踊そのままではない。映像と交錯している。  地方も、さよなら公演のときに収録した音が使われ、現実に玉三郎が踊るときも、この音に乗っている。  簡易版筋書の連名は二○○九年一月に舞台にのった演奏家たちの名前である。  現実と映像が交錯する『鷺娘』を見ながら、玉三郎が現実と幻に強くひかれているとよくわかった。  たとえば近年、菊之助や七之助を相手に上演してきた『京鹿子娘二人道成寺』がある。  ここで役名が、白拍子花子、白拍子桜子とされている場合もあるが、実は、現世の人の身の背後に、亡霊が重なって生きている解釈であろう。  今回の『鷺娘』、二○○九年一月の玉三郎と二○二○年九月の玉三郎が、ひとつの舞台に立つ。ふたりは、同じ名前を持った人間でありながら、まったく違う存在でもある。  映像のなかにいる私は、あなたであって、私ではない。そんな痛切な告白であるように思われた。  時はとどまることなく、人の世は移りゆく。   その悲しみばかりがこぼれていた。

【劇評174】幸四郎の冷酷と猿之助の妄執。怨嗟にあふれる世界を撃つ舞踊劇「かさね」

 四部制は、間の消毒の時間を考えると、ひとつの部の上演時間に制約がある。また、半通しのような上演形態もむずかしいだろうと思う。  観客の満足度を考えると、ドラマ性のある舞踊劇で、できれば道具の仕込みに手間がかからない狂言がふさわしいという結論に達する。  九月も舞踊劇が『かさね』、『鷺娘』と二本舞踊劇がでたのは、こうした興行の上の都合もあってのことだろう。先月の猿之助、七之助による『吉野山』は、万事が派手で、観客の拍手を集めていた。  さて、第三部は、幸四郎の与右衛門、猿之助のかさねによる『色彩間苅豆』「かさね」。  四世鶴屋南北による怪異な舞踊劇だが、幸四郎、猿之助、ともに仁といい、柄といいこの役にふさわしく満足感がある。  与右衛門は、『東海道四谷怪談』の伊右衛門とも通じる色悪で、幸四郎はこうした冷酷さで女を狂わせる男を勤めて成果をあげてきた。  今回も、左目が潰れ、顔が爛れてしまったかさねを見て、気持ちを寄せるどころか、鏡を突きつける件りにためらいがない。人の心の怖ろしさ、身勝手さが迫ってくる。  猿之助は、人生に自棄になった女を演じて生彩がある。かさねはここで、もう、自分が愛されなくなったと知っている。それにもかかわらず、与右衛門に対する妄執を捨てきれない。その執着心の強さと背負った業のあわれが、特に後半、観客の肝を冷やした。  「因果」は、人の心の取り憑いて、次の行動、次の悲劇を生んでいく。  かつて親が犯した罪が、ふたりを襲う。かさねは怨霊となって与右衛門を逃しはしない。  いったん花道から引っ込んだ与右衛門を、かさねは連理引きで呼び戻す。このときのあさましいふたりの姿に、怨嗟にあふれた世界を生きる私たちは何を見るのだろうか。  捕手は、隼人と鷹之資。神妙の勤めている。この世代に少しでも勉強の機会をと願う。  清元の浄瑠璃は、延寿太夫。三味線は菊輔。

【劇評173】アメリカの六〇年代と現在を結ぶ。深い考えに沈ませるミュージカル『violet』。

 この四月、コロナウィルスの脅威のために、ミュージカル『violet』(ジニーン・テソーリ音楽 ブライアン・クロウリー脚本・歌詞 芝田未希翻訳・訳詞 藤田俊太郎演出)の日本版公演が中止になった。  悲運なと思ったが、まさか半年を待たない九月に、三日間とはいえ公演が実現するとは思ってもみなかった。  制作にあたる梅田芸術劇場の並々ならぬ思いがあってのことだろう。  私はロンドン公演を観ていない。 今回、はじめてみる『violet』は、人間存在の本質に深く踏み込んでいる。  まずは一九六四年の中西部アメリカ。ベトナム戦争前夜の庶民の世界を描いている。  十三歳のときに父親が操る斧で顔に傷をおった少女ヴァイオレットは、その死の三年後、タルサに向かって、グレイハウンドバスで旅立つ。  この地を拠点とするテレビ宣教師に、その傷を治し癒やしてもらいたいと真剣に願っているからだ。  ヴァイオレット(唯月ふうか、優河 ダブルキャスト)が、その旅のなかで、偶然乗り合わせた黒人の兵士フリック(吉原光夫)と白人兵士モンティ(成河)と、愛憎にあふれた三角関係に陥る。  この旅のなかで、少女時代のヴァイオレット(稲田ほのか モリス・ソフィア ダブルキャスト)と父親(spi)の思い出が交錯する。  保守的な老婦人(島田歌穂)とも交錯する。ついにめぐりあった宣教師(畠中洋)は、疲れ切ったショーマンに過ぎなかった。   アメリカの六〇年代がかかえていた深刻な問題が描かれると同時に、政治的、社会的な文脈ばかりではなく、個人の精神が病み、疲れ、蹂躙されていたことを描いている。  当然のことながら、これは当時のアメリカを描いた風俗劇であると同時に、人類がかかえこんだ普遍的な問題を扱っている。  ヴァイオレットが顔に負った傷とは、私たちにとっての「何」にあたるのかが、劇中で常に問われている。  そのメタファーは、観客個人によって違う。  そして、自分の内面に見つけた問いに対して、解答を見いだすのは、観客の仕事である。  その意味で、『violet』は、愉快なミュージカルではない。むしろ考えよと突きつけてくるミュージカルである。  藤田俊太郎の演出は、このバスの旅、そしてヴァオレットの移りゆく心象風景を描くのに、回り舞台を使う。  背景には、モノクロの映像をときに使って、現在と過去を際立たせる。万事、行き届いて、現在と過去、六〇年代と現代を行き来する回路に、人々の思いがスムーズに流れている。  ただし、問題もある。  盆を使ったために、あたかも群像劇であるかのような印象が強い。 この作品の中心はあくまで、ヴァイオレット、フリック、モンティそして父親であり、この四者を中心に見せるには、盆の働きがいささか邪魔になる。  また、原作の問題でもあるが、ヴァオレットとモンティの諍いを徹底して演出していないために、幕切れのヴァイオレットの改心が唐突に見える。  また、幕切れの上からの光を使った演出も、ヴァオレットとモンティの将来が明快に示されていない。  問題点はあるものの一級品のミュージカルであることはいうまでもない。 こうした内容的には辛い作品にもかかわらず、観客を怯えさえたりはしない。そのかわりに深く考えに沈ませるのは、作品に関わるキャスト・スタッフの心象風景が、確実に反映しているからであるように思えた。

【劇評172】新型コロナウィルス下の「対面」上演のむずかしさ。

 九月の歌舞伎座は、四部制の第一部に『対面』がかかった。言わずと知れた曾我狂言の代表的な作品であり、きわめて様式性が強く、歌舞伎座の間口の広い舞台をさまざまな人物が埋め尽くしていく。  芯となるのは、「工藤館」とあるように、座頭役の工藤祐経で、今回は梅玉が勤める。立女形が勤める大磯の虎は、魁春。六代目歌右衛門の手元で育ったふたりが、工藤と大磯の虎かと思うと、ゆかしい心地がする。  この工藤に立ち向かうのは、松緑の五郎時致と錦之助の十郎祐成。  荒事と和事の代表的な役だが、役者の仁と柄が共にとわれる。怒りと柔らかさのせめぎ合いを愉しむ劇である。  今回、『寿曽我対面』の骨格を体現していたのは、又五郎の小林朝比奈と、歌六の鬼王新左衛門。  又五郎は、この芝居の祝祭性をよく理解して、理に落とさず、なお、言葉は名跡である。歌六の鬼王は、出のとき、線が細いかと思ったが、友切丸を持参する役だから、やりすぎないでさらりとやって本寸法になっている。  坂東亀蔵の小藤太成家、莟玉の八幡太郎がすっきりと芝居を運ぶ。米吉の化粧坂の少々は可憐で花を添える。  かつて、亡くなった勘三郎は、平成中村座には、劇場として似合う演目とそうでない演目があるといった。  現在、歌舞伎座は、客席を半減し、厳格なアナウンスとチェックが行われ、しかも開演中も晴海通りへ向かって開け放たれている。  もちろん役者が悪いわけではない。「対面」は、歌舞伎座にふさわしい演目だと思うが、今の劇場の雰囲気でこの狂言を高い水準に持って行くのは、残念ながらきわめて難しい。

【劇評171】吉右衛門、東蔵、雀右衛門、菊之助。「引窓」が照らし出す歌舞伎の未来。

 九月歌舞伎座、久し振りに一級の義太夫狂言を観た。  平成から令和を代表する時代物役者といえば、吉右衛門の名前がまっさきに挙がる。  四部制をとって、歌舞伎座が再開されて二ヶ月。本来は、これまで初代吉右衛門を記念して秀山祭行われていたが、残念ながら変則的な狂言立てとなった。  そのなかで、吉右衛門が満を持して出したのが「引窓」。『双蝶々曲輪日記』のなかでも、親子関係のむずかしさ、なさぬ仲の辛さを描いて普遍性を持つ。  また、明かり取りの窓と、仲秋の名月、放生会の日を描いて、趣向がおもしろく、情趣にあふれている。  今回の上演は、吉右衛門の長五郎、東蔵のお幸、雀右衛門のお早、菊之助の与兵衛の配役である。吉右衛門の時代物を支えてきたふたりの女形に、清新な二枚目が加わった。  嫁と姑にあたるお早とお幸が語るうちに、糸立てに身を隠し、白手手拭で頬被りをした吉右衛門の濡髪長五郎が花道から駆けて出る。この「出」がまず、見事で、からだをまるくしているが、相撲取りであり、今は罪を犯して負われる身分であると語り尽くしてしまう。  しばし本舞台で実母のお幸と語り、立ち上がって、嫁のお早から煙草盆を渡され、上手の二階座敷へと去る。この姿もほれぼれとする色気である。 相撲取りが人気商売であり、腕力だけではなく、色気を売るのが本質だと思い知らされる。東蔵は、実母の慈愛にあふれ、雀右衛門は突然のことに、戸惑う廓上がりの女の可憐さがよく出ている。  やがて、菊之助の与兵衛の出である。  町人でありながら、侍に取り立てらた喜び。歌昇の平岡丹平、種之助の三原伝造を案内する丁重さ。  ここで菊之助は、肚を割らず、無邪気な歓びに恵まれた青年を弾むように演じている。二人侍をお幸の隠居所へ誘い、世話木戸を入るところで、髷をなでつけ、羽織を直す。単純な型だが、この人にかかると、観客も晴れがましさをともにできる。  さぞ、うれしかろう、早く義理の母と愛妻に教えてやりたい気持ちに共感する。  雀右衛門のお早とのやりとりでは、澄み切った心持ちになる。預かった十手などを自慢する与兵衛とは対照的に、お早の心は淀んでいる。  お早が引窓の綱を引くと引窓が閉じる。光にあふれていた与兵衛の家が、急に暗くなったような心地さえする。  事態は暗転していく。手配書にあたる絵姿を義理の息子に売ってくれと懇願するお幸の辛さ、この成り行きに母の苦しみを探っていく与兵衛。  肚と肚の探り合いである。  さては、実の息子が来ていたのかと気がつく件りがきっぱりしている。「あなたはなぜものを書くしなされまする」。義理の仲であるがゆえに、心を許してくれない母をなじる件りだが突っ込んだ芝居にしたい。  手水鉢を使って、二階屋台の濡髪と見合う決まり、続いて四人の決まりが続くが、さすがにこのあたりは、吉右衛門が全体を小気味よく収めている。  さらに、与兵衛がすべてをのみこみ、腰の大小を置いて、「丸腰ならば今まで通りの南与兵衛」と、万難を排して長五郎を落ち延びさせ、義理の母の苦渋を救おうと決意するあたり、小気味よい青年の純粋にあふれている。 このやり方で間違いはないが、自らの登場が家の運命を狂わせてしまった長五郎の屈折と拮抗する肚でありたい。  鏡が用意されて、お幸が長五郎の見た目を変えていく。  周到な段取りを切々とした芝居で運んでいくのは、吉右衛門、東蔵の息が合っているから。いや、自在な藝境を競っているからだろう。  与兵衛が屋台に戻ってくる。お幸が後ろ手に縛った縄を切ると、引窓が開いて、秋の明るい月光が差し込む。四人の暗澹たる気持ちが一気に晴れる。  未来はわからない。けれど、今、四人の心がひとつになり、希望がさした。そう感じさせるからこそ、舞台面が明るくなる。  与兵衛が路銀として長五郎の金を渡す。ふたりの手と手がしっかりと結ばれる。  縁があって、絆が生まれる。そして、今日が終われば世界が消えるわけもなく、だれもが明日へと歩みを進めなければならぬ。  型を守り、歌舞伎を伝えていく。そのまっすぐな覚悟が伝わってきた。    

【劇評170】 純粋な言葉が細い鋼のように。野田秀樹作・演出『赤鬼』Dチームを観て。

 まっすぐに言葉を伝える。  簡単に思えるが、実はそうではない。 人 間は、正直に、じぶんの思いを言葉にのせるとは限らない。内心を隠すために、言葉が費やされることもある。  Dチームによって上演された『赤鬼』(野田秀樹作・演出 東京芸術劇場シアターイースト)を観て、そんなことを考えた。それほど、今回の上演は、戯曲の言葉を交じりけなしに伝える。愚直なまでに演劇の根本を大切にしていたからである。  私自身、これまでも、さまざまな論点からこの劇について語ってきた。野田秀樹の特質は、フィジカルシアターとみせながら、詩的な言葉がぎっしりと詰まった文学でもある。  フィジカルな面からいえば、村人たちがシャンプーをしたり、肩もみをしたり、どんな危険があっても、日常を保たなければならない現実をおもしろく観た。  こうしたさりげない場面に、まさしく新型コロナウィルスとの共生を強いられた私たちの現実が読み取れる。しかし、果てしなく繰り広げられる身体言語の氾濫、その遊びを統べるかのように、純粋な言葉が細い鋼のように張り詰めていたのだった。  思い出深い場面がある。  あの女と赤鬼とトンビが、ひとつひとつ言葉をおぼえていく。  まずは、お互いの名前を発見し、ついには「海の向こう」という理想郷を伝えようと願いはじめる。どのヴァージョンであろうとも、再演のたびに、この発見の件りに私は心を動かしてきた。  今回は、言葉が意味をまとうときの困難とパントマイムによる身体性が、実に巧みにからみあっていた。  人間はどんな絶望の淵にあっても、言葉と身体をくりだして、かすかな希望を見つけ出そうとする。次第に私たちの思いは、力を取り戻して、蘇っていく。青ざめていた顔に、血がかよっていく。そんな不思議を観たように思った。  こうした芝居を支えたのは、キャスト全体のちからだろう。  あの女の北浦愛は、決して他者に媚びることのない女のまっすぐな気性をよく伝えた。トンビの松本誠は、はじめ、しっかりとした体躯とそり上げた頭に違和感をもったが、次第に、妹思いの兄という根本的な性格を伝えた。ミズカネの吉田朋弘は、欲望と理性の間に揺れまどう人間の本性を描き出していた。赤鬼の森田真和は、初日に観たときよりも数段、怖さが増している。そして怖さのなかに、限りない優しさが感じられた。  そして、個性がくっきりとした村人たち。石川朝日、石川詩織、上村聡、近藤彩香、白倉裕二、谷村実紀、手代木花野、能島瑞穂、水口早香、茂手木桜子、八木光太郎、吉田知生、吉田朋弘、竜史が舞台の縁に座っているときも、その表情を追わずにはいられなかった。  いずれ、コロナウィルスの脅威は去り、辛い記憶も薄れ、日常のリズムが戻るのだろう。でも、忘れられないこともある。「勇気と闘志にあふれ、しかも純粋でまっすぐな舞台があったよ」。今回の『赤鬼』上演の試みは、懐かしい思い出として、そう語り継がれるだろう。

【劇評169】 猿之助、七之助の万事派手な「吉野山」。藝と笑いの「源氏店」は、幸四郎の戦略に貫かれていた。

 社交の場でもなければ、消閑の場でもない。舞台と観客席が、真摯に向かい合う歌舞伎座となった。    唄も三味線も鳴り物も黒いマスクを付けている。まるでアラビアンナイトの盗賊團といったら叱られるだろうか。  このマスクが来月も続くようであれば、立唄や立三味線は、さりげなく家の紋が入った特製をぜひ付けていただきたい。遊び心があれば、舞台はいよいよ楽しくなる。  第三部は、『義経千本桜』の「吉野山」。清元の地。猿之助の源九郎狐に七之助の静御前。猿弥の逸見藤太という充実の配役で、おもしろく観た。  七之助は花道の出からジワがくる。市松模様に座る席を抜いた劇場でジワがくるのは格別のこと。猿之助はスッポンから迫り上がるが、人でもなく、狐でもなく、雄の匂いが濃厚に漂う。  ふたりは、あせらず、急がず、のどかな春の気分を漂わせる。進境著しい二人の顔合わせである。  女雛男雛で決まるところも、猿之助がすっと入って、さりげなくのびて、決まる。主従であることを踏まえ、見せ方をよく心得ている。  竹本が加わって、いくさ物語へと進む。重く始まり、やがて合戦の描写に入り込み、扇を口に決まる。芸容の大きさが感じられる。  猿弥の藤太も当代一と呼びたくなる。柔らかな鞠のような身体が舞台を明るくした。    源九郎狐の引っ込みは、沢潟屋らしい派手なやりかたで、髪をさばき、白地に宝珠の衣裳にぶっかえり狐六法を見せる。 万事、観客本意の猿之助らしい一幕となった。  第四部は、『与話情浮名横櫛』から「源氏店の場」。幸四郎の与三郎に児太郎のお富。彌十郎の蝙蝠安に片岡亀蔵が藤八を勤める。  幕開きから児太郎の成長ぶりに驚いた。  まだまだ若手と思っていたが、この数年、重い役に恵まれ、いつのまにか花形を代表する女形に成長していた。    鏡台に向かっての仕事が多く、神経をつかうと聞くが、おそらくは叮嚀で時間をかけた稽古の成果が実っている。地声も上手く使っている。  こうして、役者は大きくなっていくのだな、これが歌舞伎が生き延びてきた原動力なのだなと得心した。  この場の前半は、お富と藤八の芝居、与三郎と蝙蝠安の芝居で運んでいく。亀蔵が当て込まず着実な芝居。まじめだがちょいとスケベなお店者になりきっている。芝のぶのおよしも小股が切れ上がった女っぷりがよい。  収獲は煮染めたような着物をぞろりと来て、嫌がらせで世を渡る蝙蝠安を彌十郎が好演している。この役者は人の良さが身上と思ってきたが、濃厚な嫌味を漂わせる役を自在にこなしている。「そうはさせねえ。けえすんだ」の啖呵が小気味よい。内心の屈折や卑屈な追従もおもしろく観た。  さて、後半は、与三郎の男を見せる芝居だ。育ちの良さと近年の荒れた生活が両立していなければいけない。柔らかい物言いにも底に針がひそませてある。  幸四郎は、このあたりのほどがよく、ひとりで場をさらうよりは、作品としてのバランスをよく考えて、周囲にも芝居をさせている。  お富との気迫のこもったやりとりに続いて、中車の多左衛門が出てからの焼き餅ぶりに実がある。また、中車も、こうした大番頭の格が必要な役をなんなく勤めるだけの器量がある。人の浮き沈みを語っていぶし銀の滋味があふれた。  充実した一幕となった。  お富が藤八に「自分で」白粉を塗らせる件り。与三郎とお富が抱き合う代わりに手拭を投げて、たぐりよせる件り。  役者同士の距離を取りつつ、笑いへと作り替えていくあたりに、世話物ならではの妙がある。幸四郎の大きな戦略を感じた。

【劇評168】愛之助、壱太郎の『連獅子』。勘九郎と巳之助の『棒しばり』。二本の舞踊ものがたり。 5

 小津安二郎の映画だったろうか、それとも三島由紀夫の小説だったろうか。  歌舞伎座が下お見合いの場となる描写があったように思う。欧州のオペラ座も同様だろうけれど、国を代表する豪奢な劇場は、単に観劇の場ではなく社交の場であった。  また、消閑という役割もあって、私の父の世代は、あまり気に染まない幕は抜いて、食道でビールをゆっくり飲んでいた。  当時は、なんと不真面目なと思っていたが、今は、そんなのんびりした情景が懐かしく思い出される。  二月の千穐楽から、八月の初日まで。長らく閉場していた歌舞伎座がようやく開いた。  新型コロナウィルスが猛威を振るうなか、万全の体制をしいて、ともかく感染者がでないように考え抜かれている。  小劇場ではないから、舞台と観客席には充分な距離がある。  劇場側としては、観客と観客、役者と役者、役者と地方のあいだに安全な距離をとるために腐心したのがよくわかった。  四部制の幕間は、時間をとって徹底した消毒にあてられている。土産物屋や喫茶も、観客席から直接は行けない。ロビーや客席内での談笑も控えるように求められる。人交わりを最低限にするのが、観客の安全を守り、興行を継続させるための唯一の方法となっている。  狂言一本にこの観劇料は高いとの声も聞く。  私に製作費の積算はできないが、どう考えても採算が割れているのではないか。それでも、歌舞伎座は開ければならない使命感が劇場スタッフを支えていると思った。その思いに深く感謝する。    さて、この稿では、第一部『連獅子』と第二部『棒しばり』について書く。  第一部は、愛之助の親獅子、壱太郎の仔獅子による『連獅子』。実の親子によって踊られると曲の内容と歌舞伎の伝承が重なって、感動を呼ぶ演目とされている。  けれど、先輩と後輩が純粋に舞踊として踊るのは、存外、作品としての正体が見えてくる。情にからまないだけに、歌舞伎舞踊は技巧だけではなく、イメージの交換であるとわかる。千尋の谷を舞台にしたファンタジーを見ようとする意志が、役者と観客に共有されなければならないのだった。  愛之助には華のある役者の自信がある。壱太郎には、上をめざしていく壮大な野心がある。この対比を面白く見た。  宗論は、橋之助と歌之助。ベテランが務めるときの遊びはないが、まじめな問答がおかしみを誘った。  さて、第二部は『棒しばり』。『連獅子』が親子ものがたりが底流にあるとすれば、勘三郎、三津五郎以来、『棒しばり』には、舞踊の名手をめざすふたりのライバルものがたりが曲に宿っている。  古くは六代目菊五郎と七代目三津五郎。近年では十八代目勘三郎と十代目三津五郎。このふたりの『棒しばり』を折に触れて見てきたが、そのときどきのふたりの関係性も見えてきた。  もちろん酒好きの浅ましさ、滑稽さを描いた舞踊劇としてもすぐれている。だれが踊っても、手はくるだろうが、その先がむずかしいと十八代目も十代目もよく知っていた。  今回はふたりの長男同士が踊る。勘九郎と巳之助は、少し歳の差はある。けれども、十八代目中村勘三郎写しの愛嬌を漂わせる勘九郎に、懸命にくらいついていく巳之助に好感を持った。特にツレて舞う件りが心地よかった。酔いが自然に回っていく様子がよくわかった。  巳之助は二十代のはじめ、どこか翳りが残っていた。また、その翳りが新作歌舞伎によく似合っていたが、父を亡くしてから、ひとりの役者として、ひとりの舞踊家として立っていく覚悟が強く感じられるようになった。   今回の太郎冠者はその集大成であった。  劇場を取り巻く環境が厳戒態勢にもかかわらず、観客に忘我の心持ちに遊んで貰いたいと願っている。  もっとも、三津五郎が健在であれば、彼らが、先輩たちから忠告されたように「そんなバタバタやるんじゃないんだよ」と笑って、巳之助にカスをかすをくらわすのだろうと思う。「親が早世してしまったというのは、こうした厳しい忠言が聞けなくなるということなのだな」そう思うと踊りを観ながら、しんみりしている私がいた。(続く)

【劇評167】空白を超えて、衝撃的で、極めて思索的な野田秀樹作・演出『赤鬼』の初日を観た。

 厳戒態勢のなか『赤鬼』を観た。  舞台を取り巻く状況  東京芸術劇場には、四ヶ月ぶりに訪れたが、私は自分自身の車を運転して行った。地下三階の駐車場に止めて、エレベーターで地下一階に上がる。  開演三十分前に到着したが、シアターイーストを取り囲むようにロビーには観客が集まっている。  客席は自由席で、当日渡されたチケットの整理番号が呼ばれ、順番に入る。案内の方ばかりではなく、スタッフ全員がマスクの上にフェイスシールドをかぶっている。切符の半券は、観客が自分自身で切るように指示があり、さらにアルコール消毒のボトルが待っていた。  劇場に入ると、方形の舞台の四方を観客席が囲んでいる。舞台と客席のあいだには、透明で巨大な幕が垂れ下がっている。言葉が適切かどうかはわからないが、まるで水族館に入り、水槽を観ているような心地さえした。  客席も市松模様に配置されており、隣席とは距離があり、直接前の席はない。ロビーの椅子も離れて置かれていて、隣接した通路への扉も全開になっている。  考えられるあらゆる手段が講じられているのがよくわかった。東京芸術劇場のスタッフの皆さんの努力に感謝する。  野田秀樹作・演出の『赤鬼』には、さまざまなヴァージョンがある。  一九九六年にパルコ・スペースパート3で初演されたこの作品は、九八年にはバンコク、二○○三年にはロンドン、○五年にはソウルで上演された。○四年には、シアターコクーンで、ロンドン版、タイ版、日本版の連続上演も行われた。  それぞれに特徴があり、『異質であることの意味』(『野田秀樹の演劇』河出書房新社 二○一四年所収)に詳しく書いた。 タイ版に近い冒頭の演出  今回の上演は、あの女、トンビ、ミズカネ、赤鬼の四人とともに、十四人の村人によって演じられる。冒頭、鍋やバケツホースやザル、竹竿などの日常の品を使って、祝祭的な光景からはじまる。  一見するとタイ版の演出に近いのではないかと思われた。  ところが、劇が進むうちに、私がこれまで観てきた『赤鬼』とは、まったく違う作品になっていると気がついた。  私がこれまで、この作品を肌の色や国境や文化の違いによって、人間社会には、差別が否応もなく起こる。その真実を摘出した劇だと思ってきた。  さらにいえば、同一の人種、同じ村のなかにも差別がある。あの女とトンビは、赤鬼が登場する前から、村人から隔離されて生きてきたのだ。  勿論、周到に書かれた戯曲は、単に「差別が悪い」とのマニュフェストに終わるわけではない。  危機的な状況における人肉食の問題を内蔵させ、人と鬼の境界そのものを告発する。多数派と少数派の永遠に続く対立と抗争を露わにしてきた。  ところが、新型コロナウイルスの脅威が、私たちの日常を大きく狂わせた状況下では、この上演そのものがはらんでいる問題にまで射程が届いた。 ソシアルディスタンスは、演劇と鋭く対立する。  政治家やマスメディアが頻繁に口にするソシアルディスタンスという概念は、舞台芸術と鋭く対立する。  観客と俳優、俳優と俳優の距離の問題をあからさまにする。観客と俳優をいかに隔てる対策が行われても、俳優と俳優の問題は残る。「ソシアルディスタンス」を徹底すれば、俳優がひとりだけ登場する『審判』のような作品しか上演できないことになる。  この『赤鬼』の主題は、コミュニケーションの不可能性にある。  どれほど、あるいは他の言語を理解しても、人間と人間はわかりあえない。 そのために、人間は激するまでに言葉を尽くし、お互いの距離を縮め、肌を接触する。  それは、人間がミュニケーションの不可能性を知りつつも、孤独に耐えられない生き物だからだ。  今回の上演では、この距離の問題が強く浮かび上がった。  ステイホームと政治家はいう。けれども、家族との接触を遮断することは、できない。発症して、症状が重くなり、ホテルへの隔離、入院の措置がとられて、はじめて本人と家族は切り離される。  『赤鬼』のあの女、トンビ、ミズカネ、赤鬼の四人は、ひとつ小舟に乗って大海原に出ることで、疑似家族となった。新たな共同体が生まれた。  海の向こうでは、どんなに残酷な村人も、彼らを引き離すことはできない。 演劇を作る共同体について  また、これは舞台表現を志した演劇人全体にもいえることではないか。  舞台公演を行う。そう決意して船に乗ったからには、他のだれも、演出家と俳優を、キャストとスタッフを、彼らが作った共同体を引き離すことはできない。  野田秀樹が今回の『赤鬼』で行ったのは、演劇というジャンルの特異性であり、独自性の主張である。  いかなる理由があろうとも、私たちは、稽古場と舞台での共同作業にすべてを捧げて、貫いていく。強い覚悟が感じられた。  日比野克彦の美術は、きわめてシンプルである。もし、舞台と客席を隔てる透明な皮膜を大道具として考えるならば、その試みは、距離が明快となる効果をもたらした。  また、舞台が白熱化するとともに、こうした皮膜は見えなくなり、舞台と客席が一体となることも明らかにした。  照明の服部基は、今、私たちがいる世界が、薄暗い洞窟であると明らかにしている。その壁には、私たちの幻想が投影され、幻影は現れては消える。  音楽の原摩利彦と音響の藤本純子は、重低音を充分にきかせて、根源的な不安を拭い去ることのできない現在を強く感じさせた。 舞台に熱を与えるキャスト  私が観た初日は、Aチームによって演じられた。  あの女を演じた夏子は、まっすぐな眼差しによって際立っている。あの女の精神は、いかなる邪念にも染まることなく、永遠に向かって手を差し伸べていると語っていた。  ミズカネの河内大和は、これまでひねくれたインテリとして描かれてきた役を一新した。自分の都合を追求する人間の浅ましい本質を描いて、逃げようとしていない。  トンビの木山廉彬は、狂言回しに徹して、強い自己主張を控えている。劇中では重要な役割を果たしながら、傍観者でもあって過不足ない。  赤鬼の森田真和もこれまでの赤鬼とは違っている。日比野の美術は、ウイルスを思わせる触手を与えているが、そのフラットな演技もあって、赤鬼=外国人ではなく、赤鬼は異物なのだと語っていた。  そして、この舞台に限りない熱を与えていた村人たち、池田遼、織田圭祐、金子岳憲、佐々木富貴子、末冨真由、扇田拓也、八条院蔵人、花島令、広澤草、深井順子、藤井咲有里、間瀬奈都美、三嶋健太に敬意を感じた。  演劇界は長い空白にいた。その空白を超えて、こうした衝撃的で、なお極めて思索的な秀作が生まれたことを喜んでいる。

2020年4月14日火曜日

【劇評166】人間が世界を冷ややかに見詰めている。『天保一二年のシェイクスピア』

趣向と綯い交ぜの戯曲である。

 井上ひさしの『天保一二年のシェイクスピア』はシェイクスピアの全作品を、『天保水滸伝』の世界に落とし込んだ芝居である。

 元の講談に特に説明はいらないだろう。やくざの一家が対立する単純な筋に、リア王やロミオとジュリエットやリチャード三世やオセロの人間関係を、井上は超絶技巧のような手さばきで織り込んでいった。

 そのため、蜷川幸雄やいのうえひでのりの演出で、この作品を観てきたが、どうしても、シェイクスピアのどの作品が織り込まれているかに注意がいってしまった。置き換えの手さばきばかりが気になり、舞台を愉しむには至らなかったというのが、正直なところだ。

 今回、「豪華絢爛 祝祭音楽劇」と惹句がついた。

 作曲は宮川彬良、演出は藤田俊太郎。
 音楽劇というよりは、限りなくミュージカルに近い楽曲と演出である。

 藤田が蜷川幸雄によく学んだステージングは、冒頭から手際がいい。
 装置(松井るみ)を大胆に動かし、奥行きや高さを生かして群衆を展開する。
 人間の生活を象徴的に見せ、しかも着物でのダンスをふんだんに織り込む。
 ショーアップされた和物のミュージカルとして完成度が高い舞台となった。

 はじめに趣向と綯い交ぜといったが、代表的な書き手に四世鶴屋南北がいる。この名手の作品には、大きな意味での主題が根底にある。南北の『東海道四谷怪談』でいえば、赤穂の禄を奪われた武士とその家族が、いかに江戸の底辺に生きるか。その陰惨きわまりない人間の生き方が浮かび上がる。
金と性への欲望に翻弄される人間

 井上ひさしの『天保一二年のシェイクスピア』の主題は、金と性への欲望に翻弄される人間の果てしないエネルギーだろう。

 食うや食わずの抱え百姓からのし上がるためには、裏切りも計略もためらわない。主にリチャード三世を重ねあわせた、佐渡の三世次(高橋一生)、ハムレットを模した、きじるしの王次(浦井健治)が、いかに負の記号を活力としていくかが焦点となる。
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 豪華絢爛な音楽劇でありつつ、シェイクスピアが持つ世界観はそこなわれていない。
 人間が世界を冷ややかに見詰めている。

 こうした舞台が生まれた理由のひとつには、蜷川演出でも隊長役を勤めた木場勝己の存在があるだろう。
 木場は、冒頭、幕外の口上で登場した後も、蜷川演出の『日の浦姫物語』や『海辺のカフカ』で見せたように、舞台上を浮遊する。
漂うだけではなく、人々の営みを見詰めている。
 井上の戯曲では、百姓一揆の隊長という位置づけだと思うが、今回の演出では、登場人物たちからは見えない観察者としての役割を負っている。私はときに、木場は、井上ひさしやシェイクスピアの分身にも見えた。

 悪代官やヤクザに搾取され、生きることが精一杯の人々の怒りが、最後に炸裂するところに井上の本来の意図があったとすれば、木場は三重の役割を負っている。
 観察者であり、劇作家の分身でもあり、隊長でもある。この分裂が統合されずに、舞台上にあるのは意図的な演出だろうか。それとも、木場が過去のインタビューで語っているように、木場自身の選択なのだろうか。
理屈は無用か。役者の輝き。

 ただ、こうした理屈は、無用だとも考えられる。
 高橋のグロテスクなまでの悪、浦井の甘くねっとりとした色気。伝法なお光としとやかなおさちを演じ分けた唯月ふうか。いずれも俳優の根源にある魅力が引き出されている。人間の欲望が、人生を狂わせると語りかけている。
  そして、十兵衛は辻萬長。さすがに舞台を圧する。

 リア王の姉ふたりを濃厚に演じた樹里咲穂と土井ケイト。そして、桶屋の佐吉を愛するかゆえに、悲劇を生み出す母の梅沢昌代がすぐれている。シェイクスピアや井上の女性に対する愛憎がよく出ている。 梅沢は、『マクベス』の魔女を重ね合わせた老婆としても登場する。

 木場、梅沢のようにすぐれた語り手があってこそ、この軽薄にして、凄絶な戯曲が生きてくる。
疑問点もある。

 もちろん疑問点がないわけではない。
 高橋の三世次が、おさちに鏡を突きつけられる衝撃的な場面。やがて、階段に脚を上、頭を下に仰向けになる演出は、十字架にかけられたキリストの反転を思わせて面白い。
 けれども、リチャード三世は、アンを決して愛してはならない。従って、三世次がおさちに真摯な愛を捧げているかにみえるのは疑問だ。
 あくまで悪党を貫いてこそ、そのあとの馬(ここでは天馬)を求める件りに至って、絶望と孤独が舞台上に生まれる。
 
 勧善懲悪になってはならない。悪党の一代記、ピカレスクロマンとなってこそ感動が生まれる。

【劇評165】仁左衛門にとって大切な「道明寺」

歌舞伎座、昼の部は、『菅原伝授手習鑑』の半通し。

「加茂堤」「筆法伝授」「道明寺」と、丸本歌舞伎の真髄というべき演目。三月の『新薄雪物語』とともに、どんなことがあろうとも、間を空けすぎずに舞台にあげなければいけない演目となる。

とくにこの半通しは、松嶋屋、片岡仁左衛門家にとっては、もっとも重要な狂言。
特に「筆法伝授」「道明寺」は、十三世による神品というべき舞台が伝説として残っている。
今回の上演では、仁左衛門、秀太郎、孝太郎、千之助が渾身の舞台を勤めている。藝の継承がこうして世代から世代へ伝えられていく過程を観るのは、歌舞伎の醍醐味なのだなあとしみじみ思った。

まずは「加茂堤」。のどかな土手。
斎世親王(米吉)と刈屋姫(千之助)の逢瀬が一転して大きな悲劇へと結びついてく。それは桜丸(勘九郎)と女房八重(孝太郎)の流転とも繋がっている。

米吉、千之助の旬の美しさ。勘九郎、孝太郎のおっとりした気分が、一転する。人生はこんなふうに人間を弄ぶのだと実感する。

続いて「筆法伝授」。この場は、秀太郎の園生の前が迫り来る運命にひっしで向かい合う姿を見せる。
仁左衛門の菅丞相は、あくまで沈痛。武部源蔵(梅玉)と戸浪(時蔵)が、前場の斎世親王と刈屋姫と二重写しになり、失われた関係は、二度と取り戻せないと世の残酷を告げている。
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『仮名手本忠臣蔵』の判官切腹の場と並んで、ひたすら沈痛な一幕。孝太郎の立田の前が、夫の宿禰太郎(彌十郎)とその父土師兵衛(歌六)の悪巧みに抗して、はかなく死んでいく。忠義に生る女性である。孝太郎にとって、現在できるかぎりの藝を見せている。

困難な伯母覚寿は玉三郎。さすがに品格高く、菅丞相に対する尊敬と遠慮が見えてくる。
ただし老けている気配はなく、あくまで美しい覚寿であった。

輝国はこの幕のなかで、一点の曇りもあってはならず、困難な役。今回は芝翫が勤めている。

さて、仁左衛門の菅丞相。舞台姿を観ていると、この幕が木像を使った伝説をめぐる物語だとよくわかる。
単なる型を見せるのではない。
右大臣が讒訴によって都から流され、時代を経て学問の神となった。その縁起が語り起こされているとよくわかった。
役者もまた、追善によって伝説となり、歴史のなかで像を結ぶ。

二十五日まで。 

【劇評164】菊五郎の左官長兵衛、至芸。

今月の歌舞伎座は、十三世片岡仁左衛門の二十七回忌。故人ゆかりの狂言が、我當、秀太郎、仁左衛門三人の子息によって演じられる。
 私は一度だけ、十三世の素顔に接したことがある。
 といっても、南座の楽屋口。昼の部が終わって、人を待っていると、十三世仁左衛門がひとりぽつねんと立っていた。ベージュのステンカラーコートがよく似合って、まるで京都大学の学者さんのような佇まいだった。 一九九二年の二月。資料を調べてみると、十三世は、賑やかな『江戸絵両国八景(荒川佐吉)』で、相模屋政五郎を勤めている。佐吉は、孝夫(現・仁左衛門)第九の辰五郎は、十八世勘三郎(当時・勘九郎)の配役である。底冷えのする京都が思い出される。
 
 さて、二月大歌舞伎夜の部の追善狂言は日本。
 まずは、我當による『八陣守護城(はちじんしゅごのほんじょう)』が出た。
 この芝居は、十三世仁左衛門から受け継いでいる。加藤清正の忠誠を描いた短い幕だが、大船の上に座して、我當はほとんど動かない。義太夫は泉太夫。新之介、萬太郎、片岡亀蔵、魁春らで運ばれていく。我當は短い台詞を振り絞るように語る。生きていること、舞台にいることがひとつになる。歌舞伎俳優にとっては、舞台上にいること、それが芝居になると思わせる。それがまた、悲運の武将、加藤清正の無念と重なり合う。
 珍奇を追うだけが歌舞伎ではない。命のゆらめきを観た。
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 続いて玉三郎の天女、勘九郎の伯竜による『羽衣』。気品と情調にあふれた舞台だが、勘九郎の神妙な伯竜が舞台を支えている。遠くを見る目で踊りにめりはりを付けるのは、父、勘三郎譲りで、この目線による描写と色気が中村屋の人気の源泉なのだろう。

 夜の部芝居としての実質は、『人情噺文七元結』が十二分に担っている。菊五郎の左官長兵衛は、何度も観てきた。円朝による人情噺で原作も脚色もよくできている。泣かせようとすれば、いくらでも出来る演目だが、菊五郎は自在な境地で、まったく芝居をあてこまない。なのに、心が動く。心が動かされる。世話物の芝居はこうでなくてはいけない。

 序幕の長兵衛内では、雀右衛門のお兼とのやりとりで嫌味なく観客を笑わせる。團蔵の藤助もほどがよい。雀右衛門にはめずらしい裏店の女将さんだが、この人の芝居の巧さが生きている。

 角海老内は、襲名したばかりの長兵衛娘小久を莟玉が勤める。純情にして、ひたむき。儲かる訳だが、この役も菊五郎に合わせてくどくはしていない。この場で芝居を回していくのは、角海老女房に回った時蔵。修羅場をくぐってきた吉原の女将の風格があり、加えて色気があふれる。

 二幕目大川端の場は、菊五郎と五十両の金を見失って茫然自失となった梅枝の文七のやりとりに実がある。梅枝はひたむきな若者を演じて、ぐいぐいと押してくる。
なるほど、この必死さならば、死なせてはならないと大切なお金をやってしまうのも道理と思わせる。
 ここでも、菊五郎がすぐれた境地に遊ぶ。金をやろうか、それともやるまいか。単に江戸っ子の粋ではない。追い詰められたのは、文七だけではなく、この若者にかかわってしまった長兵衛なのだとよくわかった。

 大団円は、片岡亀蔵の家主、左團次の和泉屋清兵衛、梅玉の鳶頭がいい。三者の滋味があって、「めでたしめでたし」と、観客をもてなしている。

 十三世の忠兵衛に梅川をたびたび勤めてきた秀太郎が、踊りの『道行故郷の初雪』で、「封印切」のあとに続く「新口村」を見せる。心中物のなかには、冷え切った冬のさなかにさすらう男女の哀切がある。

 秀太郎の梅川、梅玉の忠兵衛。老いの花というには、若々しさが残り、けれど、若い世代ではかもしだせない諦念もある。松緑が万才の松太夫として間に入る。明るい気分をかきたてるが、かえって未来が立たれたふたりの心持ちが浮かび上がった。
 二十六日まで。

【劇評163】欲望と依存。森田剛の『フォーチュン』

だれにでも好みはある。
 傾きのある翻訳劇に惹かれてしまうのは、かねてから気がついていた。  傾きというと、曖昧な表現だけれど、主流派ではないと思ってもらってもかまわない。
 過激で、悪ふざけをしながらも、真実に突き刺さっている舞台に惹かれてしまう。

 劇作家サイモン・スティーブンスの新作『Fortune(フォーチュン)』(広田敦郎翻訳 ショーン・ホームズ演出 ポール・ウィルス美術・衣裳)は、ファウストの物語を下敷きにしている。
 つまりは、自らの欲望のために悪魔に魂を売り渡してしまった男の悲劇である。

 劇作家はこの物語を、映画監督という芸術家に設定している。
 だれもが知っているように、実績のある映画監督は、少なくとも自分の作品制作のなかで、絶対的な権力者である。
 権力があれば、当然、孤独が生まれる。日常を支えてくれるスタッフも全面的には信頼出来ない。

 森田剛が演じる映画監督フォーチュン・ジョージは、若いプロデューサーのマギー(吉岡里帆)を事務所に迎える。
 極めて優秀だが、麻薬の使用歴があると本人も認める。フォーチュンは彼女に一目惚れするが、相思相愛の夫がいる。新しい映画の企画をすすめるうちに、フォーチュンはロンドンの新しいタワーにあるシャンパンバーで、ネットで知り合ったルーシー(田畑智子)と会う。彼はやがて、悪魔の化身のルーシーと奇妙な契約を結んでしまう。

 極めて表面的にいえば、フォーチュンがルーシーという麻薬の売人に出合い、コカインなどに手を出た。それ以降は麻薬がもたらした幻覚で、犯罪を犯し、ついには収監されて破滅した物語とも読める。
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 ただ、こうした皮相的な読みを超えるだけのエネルギーがこの作品にはある。それは時空を超えた人間の宿命へと手を伸ばしているからだろう。

 欲望と依存、良心と倫理。
 古典的な主題を扱い、巧みに現代の消費社会の物語に置き換えた戯曲は、常に不安をかかえこんだ人間を描いている。

 演出のジョーン・ホームズは、この世界をまやかしではあるが、蠱惑的な魅力のある場所として現実化する。
言葉と言葉のやりとりが、人間の関係を微妙に変えていく。この基本にあくまで忠実だ。

しかも、スタイリッシュで眩い意匠を散りばめて、観客を惹きつける。この作業の中心になるのは、美術・衣裳のポール・ウィルスである。
 舞台前面の半分をスライドドアとし、左右の袖には暗幕を置かずに照明機材をさらしてしまう。ここには広大ではあるけれど、中心を欠いて、人間の不安をかき立てる空虚感が棲みついている。

 小野寺修二のステージング、かみむら周平の音楽、佐藤啓の照明、佐藤裕子のヘアメイクが偽物のロンドンを幻のように舞台上に出現させている。

 森田剛は、ふるえるような魂をかかえこんでいるアーティストをてらいなく演じている。この純粋な魂は、悪魔がぜひともほしがるだろうと思われた。

  吉岡里帆は、ストレートな役柄として登場するが、やがて彼女は大きな分裂を抱え込んでいるとわかる。ハリウッドで映画の出資者を応接するあたりから、がぜんおもしろくなる。

  田畑智子は絶対的な悪にはなりきれない悪魔という複雑な役柄を演じていてすぐれている。
 私たちの現実社会にも、その人のためには決してならないと思いつつも、不動産や車を長期ローンで売りつける営業があふれていると思わせる。

 さらにフォーチュンの母、キャサリンを演じた根岸季衣が出色である。自分一人の手で息子を育てた強さと暖かさがあるから、人間はだれの愛を信じるべきかという問いが投げかけられた。

 この作品は世界初演である。
 英国のすぐれた劇作家の初演が、日本で行われた。サイモン・マクバーニーの『春琴』がその達成として思い浮かぶが、『春琴』はあくまで谷崎潤一郎の原作があってのプロダクションだった。
 キリスト教社会とその価値観が浸透していない日本で、この戯曲が制作されたことの意味は重い。松本、大阪、北九州を巡演。3月1日まで。


【劇評162】『メアリー・スチュアート』と宮廷の権力

国王ではない。女王の物語である。

 フリードリッヒ・シラー作の『メアリー・スチュアート』(森新太郎演出)は、宮廷の権力がいかに移ろいやすく、儚いものかを描いている。

 スティーブン・スペンダーによる上演台本は、メアリー・スチュアート(長谷川京子)とエリザベス一世(シルビア・グラブ)を軸にすえて、彼女たちをめぐる宮廷の貴族たちの忠誠と変節を嘲笑している。

 ハンサムなレスター伯は、ふたりの愛を弄んでいるかにみえて、決して何も手に入れることが出来ない。
 陰謀家のバーリー(山崎一)は、エリザベス女王の忠臣だが、本当の信頼を得られない。
 サー・ポーレット(山本亨)は、メアリーを守り通そうとするが果たせない。
 タルボット伯(藤木孝)は、メアリーに好意的だが、宮廷人としての知力に欠けている。
 サー・モーティマー(三浦涼介)は、メアリーに愛を捧げ、軟禁状態から救い出そうとするが、自殺に追い込まれる。

 男たちは、自分の思うがままに、ふたりの女王に近づくが、その忠誠も野望も満たされない。
 ならば権力の中枢にいるふたりの女王はどうか。
 彼女たちも自らの権威の保持に追われ、プライドを守ることに汲々としている。権力に座についたとたんに、失うことが怖くなる。権力は、ひとりの人間を孤独に突き落とす。
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 こうした普遍的な権力論が、この作品では展開されている。
 長谷川は、圧倒的な美しさで、メアリーの持つカリスマを描く。
 グラブは、顔を白塗りにして表情を殺し、孤独の深さを感じさせる。

 山崎、山本、藤木、三浦に加えて、黒田大輔は青山辰蔵、池下重太も、それぞれの個性を際立たせる。女王の対立ではなく、権力をめぐる群像劇としてすぐれている。

 ではメアリーとエリザベスの違いは何か。

 メアリーには絶対的な信頼で結ばれた乳母のハンナ・ケネディ(鷲尾真知子)がいた。鷲尾はメアリーの擁護者であり、全体の観察者でもある。その暖かさと客観性をあわせもった人格を造形したところで、この作品はかすかな救いを得た。
 
 まっとうな台詞劇だが、第二幕からは、権謀術数の行方から目が離せない。堀尾幸男の装置が立体感のある城のたたずまいを構成してすぐれている。照明の佐藤啓が重厚な場を描いていた。

【劇評161】白鸚の芸境

まさか「桜を見る会」の諷刺なのか?
 見どころにあふれるミドリの公演で、ゆったりと観た。

 朝いちばんの朝幕は、『醍醐の花見』(中内蝶二作 今井豊茂台本)。幕外のやりとりが終わると幕を振り落とす。
 季節は違えど、桜の花は、歌舞伎の美の原点にある。

 梅玉の秀吉、福助の淀君、勘九郞の三成、七之助の北の方、芝翫の智仁親王、魁春の北政所が、盛大に花見を愉しむおおらかなな一幕。昨今世情を騒がせている権力者の「桜をみる会」を、まさか下敷きにはしていないだろうと思うが、諷刺ならばまた、見方が変わってくる。中村の姓を名乗る役者が集まって、新年を寿ぐ。

 凍える悲しみ
 一転して、雪のなかに凍えるような悲しみがこもる『奥州安達原 袖萩祭文』。
 なんといっても雀右衛門の袖萩が、三味線を弾きながら、こころのうちを語る件りが切々と胸に迫る。

 父直方(東蔵)とその妻浜夕(笑三郎)とのやりとりも緊迫感がある。東蔵は、娘に思いがけずにあえた嬉しさをひたすらに隠す思い入れがすぐれている。芝翫の貞任、勘九郎の宗任と立役が大きく、単に勘当された親子の話に終わらない。勘九郎の男っぷりがよく、懐剣を持って迫る件りに生彩がある。葵太夫の浄瑠璃、寿治郎の三味線。
 
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大曲の舞踊劇に軽み 
 正月だからか。吉右衛門は時代物の大役ではなく、舞踊劇を選んだ。『新歌舞伎十八番の内 素襖落』。
 大盃を重ねて、頂き物の素襖を落とす。大名(又五郎)、鈍太郎(種之助)になぶられる他愛のない筋だが、吉右衛門が出て、雀右衛門が姫御寮につきあうと、がぜん舞台が立派になる。
 吉右衛門はもとより巧い役者だが、技巧本意に見えず、軽みとして観客に感じられるところが見事。
 眼目の件り。那須の与一の合戦を軍物語として語るが、重くもたれない。 弓を構え、矢をいるときの身体に見惚れた。
 又五郎の受けの芝居が、吉右衛門を支えている。

白鸚の芸境
 さて、白鸚の『河内山』だが、また一歩、いや二歩、芸境が進んだ。
 今回は、上州屋で娘を救い出す仕事を請け負う場を欠く。「広間」「書院」「玄関先」だけを通すと、河内山宗俊を俗にまみれた悪党ではなく、肚の座った大悪党とするやり方が成立する。

 従って、「玄関先」で北村大膳(錦吾)を馬鹿めとののしる爽快さは観客サービスとなり、「書院」での対決が眼目になる。大名の松江出雲守(芝翫)と御数寄屋坊主。立場は違えど、官僚同士の肚のさぐりあい、意地のはりあいが芝居になっている。

 白鸚は、観客に噛んで含めるようなやり方をしない。説明調になるのを徹底してさけて、あくまで内輪に、肚の芝居に徹した。
 観客と着実に気持ちがかよいあっている。そんな安心感が見て取れた。

 白鸚の芝居を受ける芝翫も大名の風格がある。酒乱ではなく、色好みな大名の色気まで漂う。
 家老の小左衛門に歌六。宮崎数馬は高麗蔵。二十六日まで。

【劇評160】菊五郎劇団の正月

邪気のない愉しさ

 菊五郎劇団の正月は、邪気のない愉しさにあふれています。

 国立劇場は、妙に繭玉が似合う劇場でもあります。樽酒が積まれた正面玄関を入ると、おめでたい気分になります。戦争なんぞにならず、楽しく暮らせればいいのにと、切ない願いで一杯になります。

 今年の復活狂言は、『菊一座令和仇討(きくいちざれいわのあだうち)』と題されています。四世南北作の『御国入曾我中村』を原作としています。 復活といっても、かつての上演台本そのままを上演するのではありません。大胆な改訂を加えて、しかも、新たに場を創作して付け加えるのが通例になっています。
 国立劇場には、文芸研究会という組織があって、そのメンバーがこの書き替えの作業(補綴といいます)に毎回、心を砕いています。
 
 さて、今回の『菊一座令和仇討』は、現在の観客の好みに合わせて、とても簡潔にまとまった台本になりました。

 良い点をいくつかあげます。
両花道の活用 

南北の原作は「権三と権八」とも言われます。権三に松緑、権八に菊之助を配役して、見えない力で交錯するふたりの人生を描写していきます。上手側にも仮花道を作りました。この両花道で、ふたりの入場、退場をダイナミックに見せて、宙乗りなどの派手なケレンによらず、スペクタクルな歌舞伎にまとめたのです。

 第二に、趣向を大切にする視点が一貫しています。
 南北の作は、綯い交ぜといわれる作劇法で知られています。そのため、それぞれの世界に標準とされる登場人物のキャラクターが頭にはいっていないとわかりにくいので、そのあたりを整理しています。

 今回の焦点は、現実の怪我が、劇に入り込んでいるところです。
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 さきにいった権三と権八が、負傷を追い、傷をなおすうちに、町医者閑心(菊五郎)の家に居候する。そこに、悪婆といわれる伝法な女三日月おせん(時蔵)夫婦とからみができる。やがて閑心は範頼という天下を狙う大悪党だとわかる。
 権三と権八のからみあう人生が、敵討という歌舞伎の定型に収まっていく。このあたりが見ていて楽しい。
 つまり、御家の宝物が失われたくだりと、敵とねらう悪党を追い詰める仇討このふたつのエンジンは、話のつじつまや合理性に優先しています。
 偶然が多すぎるとか考えるのは、禁句です。


 このごろ作られた新作歌舞伎は、どうしても私たちの現代的な考えにそまっていますが、こうした復活狂言は、古風です。
 このおっとりした世界が、国立劇場の丹精な大道具とあいまって、こせこせしない楽しみを生んでいます。
去年の怪我さえも、趣向とみる

 第三は、菊之助の怪我のからみです。
 今月の国立劇場に来たお客さんのほとんどは、去年の十二月、新橋演舞場で上演された『風の谷のナウシカ』で、菊之助が左手の肘を負傷したと知っているでしょう。

 今回の『菊一座令和仇討』は、時間的なことを考えると、負傷した時点ですでに第一稿は出来上がっていたでしょう。

 先に筋を書きましたが、菊之助の権八は、典型的な二枚目ですが、劇の途中から負傷している設定です。現実の怪我と劇の虚構がまぜこぜになっていく。
 今も菊之助は痛みを抑えて演じているのではないか。そんな想像を愉しみながら見るのも趣向となっています。

 白塗りの二枚目として登場した菊之助が、なぜか女性となって、吉原へ売られていくくだり。そして、宝物を手に入れると女形の演技を投げ出して男にもどるくだり。なかなか見どころが多い。
 
 近年の菊五郎劇団の正月復活狂言のなかでも、なかなかの佳品です。正月松の内が過ぎて、月半ばとなっても、おっとり江戸の芝居を愉しめるそんな舞台になりました。お薦めできる愉しさです。二十七日まで。

【劇評159】花組芝居の円熟『義経千本桜』

十九八七年の設立というから驚く。

 花組芝居が『義経千本桜』の通しを上演すると聞いて、急に観たくなった。

 序幕の「仙道御所」から始めて、知盛、権太、忠信のくだりをすべて網羅している。「北嵯峨」の件りまで含んでいる。これで休憩を含めて三時間以内に収めている。
 かといって駆け足だとは思わない。むしろ、脚本・演出の加納幸和が差し出した「歌舞伎の愉しさ」をどれだけ理解出来るか。知的なパズルを観に行ったような心持ちがした。

 短くはしている。してはいるけれども、原文を生半可に現代語にしたりはしない。竹田出雲、三好松洛、並木千柳の台詞を尊重する。

 そのため、歌舞伎を全く初めて見る観客には(イヤホンガイドがない分だけ)むずかしいかもしれない。
 けれど、ここには、歌舞伎の本質を愛するまっとうな精神がある。
 そして、歌舞伎を愉しんでほしいという強い願いがある。
 姿勢が正しいので、観客も背筋を正して観る。ドラマに入り込み、チャリでは笑う。
 素晴らしい仕事を長年続けてきたものだと頭が下がる。
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 『義経千本桜』は、源義経が主人公の芝居ではないとよく言われる。
 けれども、花組芝居による『義経千本桜』は、序の「仙洞御所」を出して、核心となる鼓の皮の表裏が兄頼朝、弟義経であると強調する。
 従って、この通し狂言の底流には、兄に疎まれた弟の悲しみがあると明らかになる。
 そう思いながら見ると、知盛、権太、忠信、それぞれの物語は、義経が見た幻であるように見えてくる。メタシアターのしつらえである。

 古川雅之の美術は、全幕通して使われる。
 見捨てられた廃屋のようなしつらえである。舞踊の大曲『将門』を思わせる。自分自身の物語を脳内に作りだし、それにすがりつかなければ、人間は生きられない。
 義経もまた、同様の人間だったと語っているかのようだ。

加納幸和は、「渡海屋・大物浦」のお柳実は典侍の局と「鮨屋」のお里の二役。どちらも円熟の域にある。
 芸境が上がったからといって、悪ふざけも止めていないのがまさしく歌舞伎である。

【劇評158】幸四郎の佳品『蝙蝠の安さん』

十二月は、新作歌舞伎の月になりました。

 歌舞伎座の「白雪姫」、演舞場の「ナウシカ」が大作だとすると、国立劇場の『蝙蝠の安さん』は、佳品です。
 私はあまのじゃくだからか、こんなさりげない舞台が気になります。なので、わずか五回の公演しかないのですが、三宅坂に行ってみました。

 まず、木村錦花の脚色という言葉にひかれました。
 『野田版 研辰の討たれ』も、錦花の小説を原作としていますが、大正、昭和の演劇界で活躍した人だけに、モダンでセンスがいい。
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 昭和九年(一九三四)に日本で初公開されましたが、ワールドプレミアのわずか半年後には歌舞伎座で上演されていた。その速度感がなんとも小気味がよいじゃありませんか。

 『蝙蝠の安さん』は、もとより、『与話情浮名横櫛』の「蝙蝠安、蝙蝠の安五郎」です。与三郎に悪事を教えたのはこの蝙蝠安。
お富の住む小粋な家にゆすりたかりに現れる小悪党です。
 与三郎とお富が、美男美女だとすると蝙蝠安はどうも冴えません。
 本来は上手い脇役が演じる役ですが、六代目菊五郎や初代吉右衛門が勤めた例もあるので、演じてみたい欲を誘うのでしょう。

 今回、幸四郎の安は、もとより祖父の初代吉右衛門を意識しているのでしょう。渋いこしらえで出ますが、当代の幸四郎は、少し外してチャリのある役に向いています。チャップリンと似ているかどうかは別として、幸四郎が舞台で遊んでいるのがよくわかります。

 たとえば、チャップリンの『街の灯』ではボクシングだった場面。
 蝙蝠の安さんは、眼病に苦しむ花売りのお花(新悟)のために、治療費を稼ごうと相撲の懸賞に挑みます。
 役付に勝ったら五両。ボクシングのポーズを入れているのも、ご愛敬。肌を見せても、それが愛嬌になっている。ひどいめにあっても、悲惨にならない。このあたりが幸四郎のよさだと思います。
 
 酔っては周囲に絡み、朝になると安を招いたことさえ忘れてしまう。裕福な旦那を演じる猿弥とのやりとりも軽快です。
 お花の母おさき(吉弥)のやさしさ。母娘に同情する大家の勘兵衛(友右衛門)と、チャップリン世話物を盛り立てていました。

 安易な希望を語れない世相を反映しているのでしょうか。

 幸四郎は、年の瀬にもかかわらず安易な大団円を用意しませんでした。お花は、きっと蝙蝠の安さんの熱い気持ちに気がついていたが、決して寄り添う相手ではないと思っていたような気さえしてきます。
 結末から、お花や安さんの明日を想像してみるのも、私たちの楽しみだと思います。

 二十日(金曜日)、二十四日(火曜日)、二十五日(水曜日)いずれも十九時から、国立劇場。

2020年3月5日木曜日

【劇評157】『風の谷のナウシカ』夜の部(下)。菊之助は「母」となりうるか?

 粘菌は世界を覆い尽くす

 夜の部の物語は、兵器として作られた粘菌が大きな役割を果たす。
皇弟ミラルバは、粘菌を兵器としようとする。大地が人の住めない腐海になろうとも怖れない。

原作が成立した時点では、まだ緊急のものとなっていない世界の問題が、ときに顔を出す。たとえば、この粘菌の件りで、テロや化学兵器や温暖化に何の対策も講じない(講じることさえできない)権力者が思い出されたりもする。

物語は、ミラルバの兄ナムリスが弟にとって変わり、さらに大地の破壊がエスカレートするあたりから急変する。
ナウシカもトルメキアのヴ王(歌六)、クシャナ(七之助)までもが、土鬼の聖都シュワをめざしていく。だれもがカタストロフへこの星が進んで行くのを止められない。
巨神兵の覚醒
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原作がおもしろく、この歌舞伎版でも異彩を放っているのは、第六幕第一場の巨神兵の覚醒である。
この巨大な兵士は、なぜかナウシカを母と思い慕う。単なるストーリー上のご都合主義ではない。この兵士を「操って」シュワとその聖地の墓所へ向かうナウシカは、母と慕う存在を利用しているだけではないかと自ら疑っている。
「風の谷」の平和は、戦いによってしか守れない。それには、最終兵器の隠喩である巨神兵を利用するしかない。
治者たる者のジレンマを、ナウシカとクシャナはやがて共有することになる。
かけがえのない友人テトの死

 さらに、歌舞伎版は原作漫画の名場面をのがさない。
注目されるのは、大詰の第二場、ヒドラの庭の場である。
 上演時間を考えれば、迂回にも見えるこの件りを、今回の上演台本は割愛していない。
 シュワをめざす途中、ナウシカは、いつも肩にのっていたテトを失う。

 これは、巨神兵の放つ毒の光によるものとされる。つまりは、ナウシカは最終兵器を得たかわりに、かけがえのない友人、キツネリスのテトを失ってしまう。これほど痛烈なナウシカ批判はあろうか。

 ナウシカの身体も弱っている。
 庭の主は、殺戮と毒に満ちた世界とは屁だったこの庭で、ナウシカを休息させる。庭の主は、実は不死のヒドラ(芝のぶ)で、ユートピアに見せたディストピアで、ナウシカを絡め取ろうとしている。

 舞台面は、歌舞伎でよく使われる農村の風景である。郷愁をさそう日本的な風景が、先へ行こうとするナウシカを惑わせる。このパラドックスもまた、安らぐ場所を持たないナウシカ、いかなることがあっても、すべてを許してくれる「母」を持たないヒロインの苦渋が強調される。

 菊之助は、この場での戸惑い、不安に生彩がある。ナウシカであることを超えて、人間の不条理に達しているからだろう。

 セルム(歌昇)の存在もあって、風の谷のナウシカ』の根源的なテーマが現れる。腐海が世界を浄めたあとの世界は、今生きる人間たちを許容するか。ただし、歌舞伎は、こうした哲学的な苦悩を描くには適していない。

 大詰の詳細については、まだ、上演中のためにここでは書かない。ヴ王の自己犠牲が物語をようやく着地させるとだけ書いておく。

(これ以降は、舞台に接してからお読みになることを強くおすすめする)

 
 墓所の主の声は、吉右衛門。声だけの出演ではあるが、超常的な存在として、さすがの大きさを示している。

 背景にゆらめく文字は、コンピュータ言語によって支配されるようになった二十一世紀を予感している。
 ただ、この揺らぎを止めるのが、いささか早い。墓の主の精(歌昇)のとオーマの精(右近)の対立は、歌舞伎舞踊の「石橋」の見立てで、歌舞伎ならではの演出となっている。

 主な登場人物で絵面(えめん 一幅の絵画のように、人物を配置して、決まる)となる。背景には血に染まった日輪が登る。犠牲の上に立った世界の再生を思わせる。

 壮大な通し狂言にふさわしい結末であった。

【劇評156】『風の谷のナウシカ』夜の部(上)菊之助が生まれ持ったオーラ

 壊滅的なカタルシスへ

 昼の部の案内役は、「口上(尾上右近)」。これが道化(種之助)に変わる。
 タペストリー幕を使っての世界の紹介は、昼の部同様だが、大海嘨(だいしょうかい)の文字が加わっている。壊滅的なカタルシスをあらわす。
 この道化が、大詰で大きな役割を果たすのが、今回の歌舞伎版『風の谷のナウシカ』のもっとも重要な趣向だろう。

 第一幕のプロローグは、『仮名手本忠臣蔵』の大序を意識した「名乗り」から始まる。
 主要な登場人物が、みずからを語る趣向である。トルメキア王のヴ王(歌六)、土鬼皇弟ミラルバ(巳之助)、僧官チャルカ(錦之助)、ユバ(松也)、アスベル(尾上右近)、ケチャ(米吉)、クロトワ(片岡亀蔵)、そしてクシャナ(七之助)が、勢揃いして「名乗り」を上げる。

 この幕開きは、まさしく大歌舞伎らしい愉しみ。
歌舞伎に初めて接する観客も、こうした様式的な演出には、新鮮味を感じるに違いない。
詰めかけた観客とは?

 そもそも、観客席を埋めているのは、漫画『風の谷のナウシカ』の全巻をすでに読んでいる人々だろう。すくなくともアニメ版に一度は接したことがある人々に違いない。
 こうした事前の知識を前提とするのは、歌舞伎でも文楽でもお能でも狂言でも同様である。

 もっとも、夜の部は、昼の部の観劇を前提としていない。それだけでも独立して愉しめる。

 だが、『風の谷のナウシカ』の原作の体験があったほうが、当然、深い読みができるのは当然と言えば当然。
 『風の谷のナウシカ』をすでに体験した日本人は、どう少なく見積もっても歌舞伎ファンよりは遙かに多い。この舞台は、歌舞伎を初めて観る『風の谷のナウシカ』ファンに、満足して貰うのが大前提。
 そのあとに、役者の贔屓や新作歌舞伎ファンが想定されているに違いない。
 これは、歌舞伎の未来に対する投資である。挑戦でもある。
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無償の愛によって、ナウシカは守られている。

 さて、ナウシカには、付き従うサブキャラクターたちがいる。昼の部から登場しているるキツネリスのテト、砂漠のなかで出合った子どもチクク(安藤然と星一輝の交互出演)、そして、序盤からお守り役を務める城オジのミト(橘太郎)である。彼らの無償の愛によって、ナウシカは守られている。

 この幸福感をかもしだすのが、菊之助の生まれ持った役者としての人柄で、単に、姿形ではない。全体にかもしだす人格というべきアウラだろう。
こうした人々に愛されるには条件がある。

 ナウシカは優しいだけの役ではない。 

 だれも止められない、お転婆な雰囲気を強く打ち出すことが、ナウシカ役者に求められている。
 女形には、足取りについて決まった型がある。この型をいささか変型しても、ナウシカの溌剌たる魅力を発散することが望ましい。

 それは、せんじつめれば、オーラといいかえてもいい。
 それさえあれば、歌舞伎という役者本位の演劇は、成立する。

 宮崎駿原作の『風の谷のナウシカ』が、アニメの世界の世界的な古典として君臨するのは、この「ナウシカ」にオーラを放つことに成功したからだろうと思う。
 これは、ナウシカが育った境遇だけによるものではない。ナウシカが、複雑な糸にからめとられて運命を背負っているからだともいえる。

 こうした特別な存在は、歌舞伎の芯になる役者と親和力がある。

 「ナウシカ」は唯一無二の存在である。他にかけがえのないキャラクターとして、漫画からアニメから離れて、メディアの宇宙を生きている。こうした存在は、役者のなかの役者、歌舞伎のなかで、ある運命を背負って生まれてきた役者によって演じられてこそ輝きを持つ。
 菊之助は生まれ落ちてから、この世を去るまで、役者であり続けることを宿命とした存在だった。

(この稿、下に続く)

【劇評155】『風の谷のナウシカ』 昼の部(下) 颯爽たる七之助のクシャナ。

 皇女クシャナの登場は、劇的である。

 昼の部の(上)に、書いたように、ナウシカとの個性の違いは、拵えから明確になっている。 
 皇女クシャナ(七之助)の登場は、劇的である。
 原作の衣裳にならって、金属製のメタルが輝き、風と自然を味方とするナウシカとは対象的である。ナウシカは族長の娘であるのに対して、クシュ母皇女。その威厳に満ちている。

  あえていえば、威厳にはその裏側にプライドがある。自尊心には、高慢も当然、つきまとっている。七之助はこのあたりをひとつの人格として造形するのが巧みな役者である。他の追従を許さない。


 ナウシカ実験室の場、空中ガンシップの場、は、『風の谷のナウシカ』の原作、前半の名場面集の趣き。腐海・森の奥の場、同・森の底の場は、ベジテの王子アスベル(右近)との出会い、ナウシカと王蟲との特別な関係が描かれる。

 原作では、ナウシカとアスベルの淡い恋が重要に思われるが、舞台ではさらりと描かれている。むしろ、松也、右近の立役としての成長、立廻りのキレが序幕を支えている。
 
 第八場では、クシャナとつかず離れずの主従となるクロトワ(片岡亀蔵)が登場し、観客を沸かせる。

 第九場では、ケチャ(米吉)に案内され、土鬼のマニ族の僧正(又五郎)と出合う。幼い王蟲を囮とする土鬼の軍の戦略にナウシカは強く反発する。

 序幕から第一幕へ。菊之助のナウシカは、これまで優しい少女に終始していた。
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強い意志を持った女性へと成長していく。

 今回、七巻に及ぶ漫画を原作としたために、ナウシカの成長譚として成立しているかが舞台の鍵となる。
  
 第一幕の第十一場、ナウシカが傷ついた王蟲の幼虫を助ける件りから、物語の主筋が鮮明になる。

 あえていえば、ナウシカが持っている世界観は、マイノリティへの共感に貫かれている。見た目の美醜は、ナウシカにとって意味を持たない。蟲や蟲使いへの共感が、ナウシカの心性をよくあらわしている。

 ただし、この成長が明確になるには、夜の部を待たなければならない。
 これは、昼夜通し狂言の宿命だろう。『仮名手本忠臣蔵』でも『義経千本桜』でも、カタルシスは後半に来る。
土鬼帝国の神聖皇弟(巳之助)の登場 

 第二幕は、土鬼帝国の神聖皇弟ミラルバ(巳之助)の登場が見どころとなる。ミラルバは僧官のチャルカ(錦之助)とともに現れる。

 原作でも「皇帝」ではなく「皇弟」であると強調するために「弟」に傍点が打たれている。注意されたい。
 
 悪をあらわす青筋隈、荒事の身体を駆使して、この超常的な能力を持つ人物を造形している。

 役としての大きさを小手先ではなく、身体そのもので見せる役者に成長したとわかる。

 ナウシカ、クシャナ、ミラルバは、前半の人物図において対立の三角形を作る。
 それぞれの個性が鮮明に描かれなければならない。

 演技の工夫はそれぞれの役者にゆだねられているのは、もちろんだが、拵えや鬘、筋隈など古典歌舞伎の記号、シンボルが総動員されている。
クシュナの流離譚

 第三幕は「白き魔女」と呼びなわされるクシュナの流離譚が中心となっている。高貴な家柄に生まれながらも、上の三人の兄皇子に妬まれ、辺境へと追いやられ、手兵を失いつつある。

 窮地にある皇女クシュナとナウシカのあいだに友情らしきものの芽生えがある。
 この友情は、親愛とも違う。人
 間は世界といかに向かい合うべきかを、ふたりは互いの行動で考えをすすめていく。
 兵の血、王蟲の暴走によって購われているこの友情は、きれいごとではすまされない。

 第三幕の哀切。ナウシカはトリウマに乗って戦場を疾走する。本舞台の中央、ナウシカが倒れたトリウマをいたわう場面は、いかなるアクロバットな宙乗りよりも感動的に思われた。

昼の部では、ナウシカの「反戦」ではなく「不戦」への憧れがよく出ている。
 血に塗られた闘いに溺れていくのも人間の業。
 戦いをなんとか避けようと思いつつ否応なく巻き込まれていくのも人間の宿命だろう。

【劇評154】『風の谷のナウシカ』 昼の部(上) 菊之助の無念。

 突然の事故が菊之助を襲った。

 新橋演舞場の『風の谷のナウシカ』は六日に初日を開けた。

 すでに報道されているように、八日の昼の部の第三幕、幕切れに事故がおきた。ナウシカを演じる菊之助が、不慮の事故にあって左肘を骨折、夜の部は中止となった。
 翌、九日昼の部からは、左腕を固定したまま、演出を一部変えて舞台に復帰した。

 私自身は、十二日の昼の部、夜の部を通して観た。

 六日の初日も通して見た若い友人と劇場で会った。彼女によると、昼の部に限っても、演出は現行とは、かなり異なっていたようだ。

 振り落としや振りかぶせのような歌舞伎演出が整理されたこと。
 菊之助による立廻りや宙乗りが削られたこと。

 役者にとって、こうした見せ場を身体の故障によって小気味よく演じられないのは、さぞ辛いことだろうと思う。 

 しかし、こうした歌舞伎的なスペクタクルを欠いたために、逆に得たものも大きかったのではないか。
 失ったものもあれば、引き換えに得るものもある。人生も舞台もうまくできている。
 昼の部は、宮崎駿による原作七巻本をあたると、ほぼ第三巻までに相当する。

 原作の漫画だけで一千六百万冊が売れたナウシカである。
 ナウシカの人物論は、読者それぞれによって違うのはいうまでもない。

 私の理解するところでは、大規模な戦闘に巻き込まれるまでのナウシカは、粘菌類を含めた植物や民草への慈しみにあふれている。決して、戦闘や殺戮、血を流すことを好んではいない。だとすると、歌舞伎のスペクタクル、特に立廻りは、ナウシカ本来の性格と矛盾するきらいがあった。

 また、メーヴェに乗ってのフライングは、漫画だから重力の制約とは無縁だ。しかも、その細部を描ききる必要はない。けれど、舞台化したとたんに、重力の制約は重くのしかかり、道具としての精度やリアリティも問われることになる。ナウシカの熱烈な愛好者を納得させるのは、むずかしい。

 今回、昼の部の立廻りとフライングを欠いたことによって、かえってナウシカの不戦の心情があきらかになった。
 菊之助が左腕をぎこちなく使うときに、優しく慎重なナウシカの性格が強く出る。
 そのために、歌舞伎の役柄でいえば「女武道」に相当する七之助のクシュナとの対比が鮮明になったのである。
 序幕から書いていく。
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 まずは、第一場のプロローグ。尾上右近による口上。このナウシカの世界を年代記風に描いたタペストリーを背景に、腐海、王蟲、トリメキア、土鬼など、この作品独特の用語を、要領よく説明していく。

 第二場の注目点は、ナウシカ(菊之助)の「出」。
 ナウシカは、歌舞伎で言えば娘方だろうけれど、和服の着付や鬘に守られていないために、女形の発声がナウシカのキャラクターと重ならず、登場の「出」から少女ナウシカと思わせるのは正直言って厳しい。
 けれども、こうした新作では、往々にして起こることでもある。なにしろ男性が少女役を演じるのだから、不自然さがまったくないはずもない。

 はじめは違和感を感じた観客が、劇が進むにつれて、菊之助はナウシカなのだと信じていく。芸の力、歌舞伎の技藝で、観客から徐々に受け入れられていく。昼の部をみただけで、この困難な試みは、充分成功していた。

 第二場、ナウシカは、トルメキアに滅ぼされた工房都市ベジテのラステル(鶴松)と出合う。瀕死のラステルに秘石を託される。

 そこで、この芝居の基調が明らかになる。だれもが世界を支配するための鍵、秘石を狙っている。偶然、この石はナウシカに託された。探して、見つける。シーク&ファインドの物語である。

 第三場は、剣士のユバ(松也)、ナウシカの父、族長のジル(権十郎)、城ババ(萬次郎)、城おじのミト(橘太郎)ら主要な人物が紹介される。
 こうした周囲の人物がナウシカを族長の後継として認め、さらにその優しい心根が人を惹きつけるところに物語の格がある。

 しかも、「風の谷」人物たちは、菊五郎劇団の中核にいる役者たちが演じている。菊之助は将来、菊五郎の名跡を継承するのは当然とだれもが考えている。

 歌舞伎は役と役者が二重写しになるだけではない。役の関係性と役者のおかれた状況もまた二重写しになる。このあたりを考えての配役だろう。同じ劇団に育ち、菊之助にアクシデントがあり、それを乗り越えて舞台を成立させなければならぬ。
 役者同士がお互いを思う気持ちが自然に通って、説得力を持った。

(昼の部 下 に続く) 

2020年2月23日日曜日

【お知らせ】長谷部浩の劇評について

遅ればせながら、12月歌舞伎座の劇評をブログにアップいたします。
この時期から、長谷部浩の劇評は、noteに移行しました。
恐縮ですが、有料です。

このnoteからは、上演から二ヶ月以上、経過してから劇評に限って、こちらに転載する予定です。
ただ、時期もしくは、転載については、お約束ではないことをご理解下さい。

私としては、SNSでの活動は、noteに移していきたいと考えています。

こちらのサイトでは、新年より五つ星が満点の★をつける試みを始めています。
もし、御興味があれば、こちらのサイトをご覧になって下さるようにお願いします。

https://note.com/hasebehiroshi

2020年2月22日土曜日

【劇評153】自己撞着を怖れぬ玉三郎の覚悟。

十二月大歌舞伎の夜の部もまた、梅枝の活躍に目を見張った。

『神霊矢口渡』は、女方のためにある狂言である。
一夜の宿を求める義峯(坂東亀蔵)への思慕から、過激な行動へと駆り立てられる娘の話である。ついには父頓兵衛(松緑)にはばまれようとも、義峯を逃がそうとする。一目惚れにはじまり、みずからの死を厭わないところまで、一気に走り抜ける。若さゆえの疾走感、一途なありようを梅枝は、よくつかまえている。

 梅枝は同世代のなかでも、理知的な俳優といえるだろう。すべてに破綻がない。所作も台詞回しも、「あれっ」と違和感を感じさせない。役の性根をよく掴んでいる。
 世話物も新作もよいが、この『神霊矢口渡』では、時代物を大きく捉えている。義太夫の詞章をよく吟味して、舞台でもきちんと台詞を聴いているのがよくわかる。
 隙がないと言ってしまうと、せせこましい演技に思えるが、そうではない。恋の狂いにも緻密な表現力が必要とされる。「父さん、おまえはなあ」と頓兵衛に訴えかけるときの絶望に深さがあった。

 松緑の頓兵衛もなかなかの出来。まず、容易には肚を割らない。謎を秘めた人物として舞台にあって、説明的にならない。
 現代的な父娘関係などは、一切持ち込まず、ただただ、自分の信念に生きる男であり続ける。花道のひっこみにも力感があり、途中、息を整えるあたりも、執念の人として頓兵衛をよく捕まえている。

『神霊矢口渡』が終わると、玉三郎の新作『本朝白雪姫譚話』(竹柴潤一脚本、玉三郎補綴・衣裳考証)が出た。
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 序幕から打ち上げるまで、休憩をのぞいても二時間を費やす。この物語、台詞の密度で、二時間をもたせるのはむずかしい。衣裳考証とあるからは、俳優の美意識をみせるのも狙いの一つであろう。なるほど、素晴らしい衣裳に打たれた。玉三郎が関わるかぎり、この水準の高さは、保証されている。

 けれども、このグリム童話の「白雪姫」は、女性の美しくありたい願望を扱っている。これは、俳優がいつまでも若く、美しくありたい願いと重なる。
 野分の前(児太郎)が、鏡に向かって、一番の美女はだれかと問いかけるが、鏡のなかの鏡の精(梅枝)の答えは、野分の前ではない。白雪姫(玉三郎)と答え続ける。
 
 ここで問われているのは、相対的な美しさなのだろうか。それとも、絶対的な美しさなのだろうか。
 美を表現の手段とする女方が扱うには、自己撞着が起こってしまう。取りようによっては、自分自身の美しさは永遠であり、だれも凌駕できない。そんな信念がこの狂言を貫いているともとられかねない。

『本朝白雪姫譚話』は、かなり危険な領域に踏み込んでいる。批判をはねかえすだけの覚悟があって、作られた作品なのだろうと思う。
 それだけに、短編や掌編を思わせる舞踊劇に仕立てたほうが小気味よかったのではと思った。

【劇評152】梅枝の十二月。

歌舞伎劇評 令和元年十一月 歌舞伎座


歌舞伎にとって、むずかしい局面が続いている。

 歌舞伎座は、基本的に「ミドリ」の興行を続けている。つまり、通常、昼の部と夜の部にそれぞれ三本から四本の狂言を並べている。当然のことながら、すべてが最高水準の舞台であるはずもない。

 こうした現実は、急に起こったわけではない。「ミドリ」の宿命かも知れない。けれども、以前、新聞劇評を担当していたとき、すべての演目について触れなければいけないのは、正直言って苦痛だった。

 このことは、はっきり書いていた方がよいと思う。恐らく、観客の少なくない方が、同意されると思う。

 私の父の世代は、意欲がそそられない幕があると、食堂で麦酒を飲んでいたりした。この頃は、万事がせせこましくなっているのか、こうした自由人が、観客に見当たらなくなっているのも残念である。

十二月の歌舞伎座では、まず、梅枝の奮闘を特筆したい。

 昼の部は、『阿古屋』。梅枝にとって二度目の挑戦になるが、琴、三味線、胡弓、いずれの演奏も安定している。 平成三〇年の十二月の初役とは、別の境地をめざしている。
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 ご承知のように、重忠(彦三郎)は、詮議のために、阿古屋に演奏を求めている。それぞれの楽器のあいだにある阿古屋の語りが重要なのは勿論だが、まず、演奏の充実が必須である。梅枝は、難曲に向かっているのではない。重忠へ答えを差し出している。さらに、景清に対して、思いを通わせている。

 「景清の行方は」と語るときに、遠い場所へイメージが飛んでいる。三重に身を横たえた姿は、まるで瀕死の孔雀のようでもある。厚い懐紙の捌きも重くならず、小道具ではなく、たしなみが通っている。

 景清との別れが、格子先の一瞥、はかない逢瀬だとわかって、胡弓の演奏に入るとき、なお切なさが通う。音程がもとより不安定な楽器である。そのために岩永(九團次)のチャリがあるが、その助けがいらないほどである。技巧を見せるのではない。

 音楽は、だれのためにあるのか。
 もとより詮議のためではない。
 
 他人を慰めるためにあるのか。
 それもあろう。

 梅枝の阿古屋は、今、現在の境遇を、深い井戸としている。分かりつつ、その深いところへ、没入していく心地がした。
 一歩進んだ境地にあるとよくわかった。

なお、梅枝がはじめて阿古屋を勤めた公演についての劇評は以下でお読み頂けます。
https://hasebetheatercritic.blogspot.com/2018/12/blog-post.html