長谷部浩ホームページ

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2018年5月27日日曜日

【劇評110】井上ひさし作品を席巻した喬太郎の地藝

 現代演劇劇評 平成三十年五月 紀伊國屋サザンシアター

喬太郎のしか芝居を観たことがある。
 十二人抜きで真打に昇進したころだから、二○○○年前後だろうか。中野の小さな劇場でさん喬一門が揃っての芝居だった。喬太郎が女装して(女方とはあえていわない)観客を笑わせた。もちろん座興のたぐいだから、あれこれいうのも野暮というものだが、喬太郎は役者向きではないなと思ったのを覚えている。
 あれから十八年が過ぎて、喬太郎は押しも押されもせぬ大立物となった。新作のみならず、古典でも進境を示し、今、もっともすぐれた落語家のひとりになりおおせた。その喬太郎がこまつ座に出演すると聞いて驚いた。しかも演目は井上ひさしの『たいこどんどん』である。初演では東京ボードヴィルショーの佐藤B作が演じた。ほぼ全編出ずっぱりで長時間、舞台上を動き回る。台詞も多い。並大抵の俳優でもねをあげるだろう。
 江戸の末期、吉原の幇間(喬太郎)が、薬種問屋の放蕩息子(江端英久)とひょんなことから九年の流浪の旅を続ける。単なるおもしろ、おかしい道中記ではない。人間の残酷と悲惨が次第に深まっていく悲喜劇である。
 ラサール石井の演出は、軽演劇の手法を取り入れ、また、井上戯曲のエロティックな側面をみつめて手際よい。
 なにより、すばらしかったのは、喬太郎の身体だった。落語はせんじつめれば、ひとり芝居である。何役も演じ分け、しかも顔とほぼ上半身の表情だけですべてを表現する。台詞回しと細やかな顔の表情が悪かろう筈もない。しかし、それに加えて喬太郎は身体のこなしが素晴らしかった。群舞のときばかりではない。身体全身がかもしだす雰囲気、その均衡にすぐれていて、まさしく江戸の幇間なのであった。
 これほどの地藝があって、はじめて『たいこどんどん』は上演できる。井上ひさしの実に恐ろしい企みを、喬太郎は受けて立ったのである。

2018年5月26日土曜日

【劇評109】コクーン歌舞伎、七之助の与三郎。

 歌舞伎劇評 平成三十年五月 シアターコクーン

一九九四年に始まったコクーン歌舞伎もついに第十六弾。今回は木ノ下裕一の補綴を得た『切られの与三』(串田和美演出 美術)が上演された。
瀬川如皐の世に知られた『与話情浮名横櫛』を原作としているが、『切られの与三』としたのには理由がある。半通しで上演されるときも、普通取り上げられない「玄治店」以降を丁寧に描いて、全身を傷つけられた与三郎を大団円で救うのではなく、その後も、辛酸をなめる人生を描きつくす。歌舞伎でよく知られた台本をミドリで出る場だけではなく全幕を俯瞰し、再構成した新たな戯曲である。これを七之助、梅枝、萬太郎、亀蔵、扇雀を中心とした歌舞伎役者に、コクーン歌舞伎ではおなじみとなった笹野高史、真那胡敬二らで上演する試みであった。
「見染め」「赤間別荘」「玄治店」は、あえて古典によりかからず、さっと走り抜ける。すでにある型によりかかりすぎては、この『切られの与三』の趣旨から遠ざかってしまう。歌舞伎好きには、与三郎の七之助、お富の梅枝がどのようなやりとりを見せるかが気になるところだが、このあたりは早々にはしょっている。私としては、納得できるやり方だ。
そのかわりにふたつの見どころが提示される。ひとつは与三郎(七之助)を育てた和泉屋の人間関係である。兄を気遣う与五郎(萬太郎)と許嫁おつる(鶴松)の存在。そしてのちにクローズアップされる和泉屋の奉公人で与三郎をいとおしむ下男の忠助(笹野高史)である。
もう、ひとつは、扇雀が勤める久次である。囚人として島送りになった与三郎とともに脱獄したかと思えば、ひとり良い目をみて、江戸に先に帰り、お富と夫婦になっている。ふたりの宅へ訪ねてきた与三郎を親切ごかしにもてなしつつも、町方に売ろうと企む。これも歌舞伎の定式だが、さらに、「モドリ」(原作では七幕目の長台詞、岩波文庫)がある。久次は与三郎の実の親に仕えた家で大恩がある。腹を切ったのは、与三郎に妙薬と生血で与三郎の全身の切り傷を治すため。串田の演出は、この荒唐無稽にして歌舞伎らしい「モドリ」をカタルシスとして描くのではなく、実にばかばかしい人間たちの愚かさとして暴いてしまう。
そのかわりに大団円として用意するのは、すべてが終わった後、与三郎の七之助を舞台にひとり置いて「しがねえ恋の情けが仇」と名台詞を巧みに使って、人生そのものの無情を強く打ち出すくだりだ。青い空、白い雲、江戸の町の屋根。たったひとりの与三郎。坊ちゃん育ちで恋もしたが、結局は困難のなかで孤独に死んでいった男の悲哀が、この『切られの与三』の眼目にある。また、繰り返される「江戸の夕立」も演出の意図を強調する。

これまで女方を中心に勤めてきた七之助からすれば、『切られお富』を演じるのが定法だろうが、あえて立役に挑んで、生にもだえ苦しむ魂がかもしだす色気を見せた。また、企みのなかで悪党振りをみせつけた扇雀も出色の出来。そして、歌舞伎の身体と現代演劇の台詞回しを自在にこなす笹野高史の技藝も成熟してきた。与三郎の七之助と再会した場面で情愛がこもった。三十一日まで。

【劇評108】直接的な死 寓意ではなく。前川知大の『図書館的人生Vol.4 襲ってくるもの』

 現代現劇劇評 平成三十年五月 東京芸術劇場シアターイースト

近年のイキウメは、破竹の勢いで、水準以上の舞台を発表しつづけている。劇団には旬というべき時期がある。また、長く見れば、春夏秋冬もある。さしずめ前川知大とイキウメは夏の盛りを生き、これから秋の収穫期へ向けて準備をしているのだろう。
もう、おなじみになったオムニバスの『図書館的人生Vol.4 襲ってくるもの』(作・演出 前川知大)は、三本の作品で構成されている。
#1は『箱詰め男』(二○三六年)と題されている。海外に赴任していた科学者の息子(森隆二)が久しぶりに実家に帰る。母(千葉雅子)の話を聞くうちに父(安井順平)は、認知症になったのではなく、意識や精神活動をコンピュータに移したのだとわかる。
AIを搭載した音声応答スピーカーのパロディともなっている。劇が前川らしい奇想へと滑り込んでいくのは、このコンピュータにある感覚器官が与えられたときだ。客演の千葉雅子が着実な演技で、困惑と不安をかもしだす。実際にマインドアップロードの作業を行った老科学者の森下創はいつもながらの怪演を見せる。
#2は『ミッション』(二○○六年)。配達の仕事の途中、老人を引いてしまう事故を起こした青年山田輝男を進境著しい大窪人衛が演じている。彼は、いけないとわかっていてもある種の衝動に駆られると止められない。交通刑務所から出所してきた輝男を気遣う友人佐久間一郎(田村健太郎)とのやり取りが軸となる。そのうちまともに見えた佐久間のストーカー行動が明らかになる。ここで疑われているのは、市民の常識である。「まともにみえる」ことと「まともでいる」ことには差がある。「まともでいる」ことと「まともでないことを起こす」の間にも差はあるが、この差異の境界が次第に曖昧になっており、法も倫理もこの越境を抑えられないのだと語っている。
#3は『あやつり人形』(二○○一年)である。大学三年生の由香里(清水葉月)は、母(千葉雅子)が難病にかかったことをきっかけに、おきまりのリクルートスーツで就職活動に身をゆだねる自分に疑問を持ち始める。はじめ、自由に生きることに理解を示す兄清武(浜田信也)も大学中退を示唆したとたんに態度を変える。また、すでに社会人の恋人佐久間一郎(田村健太郎)も、由香里の変化を受け入れられない。人間の好意や優しさは、本当に相手のためにあるのか。その行為自体が相手を苦しめる結果となっていないかと問いかける。
佐久間一郎が#2、#3に登場するために、#2に先だって、#3の事件が起こったかのように見える。また、全体に直接的な死が執拗に描かれているのが本作の特徴だ。
二○一八年の上演時点で、未来にせっていされているのは#1だけ。#1も#3も過去の物語だ。その意味で今回の三作品をSFと分類するのは正しくない。代表作『太陽』のように、SFの設定のなかで寓意として描かれていた種族の死ではない。ある個人の死がいったいどのような意味を持つのか。直裁に斬り込んで胸を打つ。

【閑話休題78】ケラリーノ・サンドロヴィッチとナイロン100℃の幸福

劇団の二十五周年のその年に、二冊の本が刊行される。また、劇団の公演も立て続けに行われた。ケラリーノ・サンドロヴィッチとナイロン100℃にとっては、幸福な一年といえるだろう。
はじめの一冊は、ハヤカワ演劇文庫の一冊で『ケラリーノ・サンドロヴィッチⅡ 百年の秘密 あれから』(早川書房 1500円)である。すでにこの文庫からは、二○○二年に『消失 神様とその他の変種』が上梓されている。他の著者には、○○○○ⅠやⅡの表記があるから、なぜケラリーノ・サンドロヴィッチにはないのだろうといぶかしく思っていた。今回、Ⅱが刊行されたのは、なによりよろこばしい。
『百年の秘密』は、二○一二年の四月に初演され、またこの一八年四月に再演された。KERA得意のクロニクルの形式を採る。一家の長い歴史を劇で叙述するが、発想の原点は、トーマス・マンの教養小説にあるように思う。年代記は、一族の興亡を描くから、親子、夫婦、親戚の愛憎と哀惜を浮かび上がらせるにふさわしい。また、グランド・ホテル形式とともに、登場人物が多人数になるので、俳優が成長した劇団の公演にはうってつけである。つまりは、出演者のだれもが見せ場のある芝居を書きやすいのである。
久しぶりに見た『百年の秘密』は、すぐれたエンターテインメントになっていた。家の庭にある樹木とその根元に隠されたあるものをめぐって叙述される。女教師と年の差のある教え子の恋愛と別れ、姉妹のようにして育ったふたりの女性、それぞれの生き方を描いて戯曲自体も充実しているが、六年の歳月を経て、劇団員が成熟したのが大きい。だれともいいにくいが、犬山イヌコと峯村リエが、抑えかねる悲しみをこぼれさせているのに打たれた。
もう、一冊は、豪華本で『ナイロン100℃ シリーワークス』(白水社 四七○○円)と題された劇団の二十五周年記念本である。私自身も原稿を寄せている。ナイロン100℃のパンフレットを手に取る度に思うのだが、KERAの意志が細部まで込められている。単に、自作戯曲の文学的な位置づけにこだわるのでない。あくまで上演された舞台が、懐かしく思い出されるように工夫されている。
また、劇団員のファンブックとしての側面も強く意識されており、犬山イヌコ、みのすけ、峯村リエ、三宅弘城ら、現代演劇を上演するときになくてはならぬ存在と成長した俳優たちの思いが伝わってきた。
記録としての側面も大切にされている。KERAといえばTwitterのようなSNSでの活躍も目立つが、こうした活字媒体を重く見ているのがよくわかった。
いずれにしろ書店や図書館で一度、手に取ってみると紙の束の重みがずっしりと感じられるだろう。

2018年5月12日土曜日

【劇評107】豊潤にして澄み渡る心境。菊五郎の弁天小僧

歌舞伎劇評 平成三十年五月 歌舞伎座夜の部

五月團菊祭の歌舞伎座。夜の部は、菊五郎の世話物極め付きというべき『弁天娘女男白浪』が出た。
昭和四十年六月、東横ホールで初めて演じてから、五十年あまりの歳月が過ぎた。今回は満を持して、「浜松屋」と「稲瀬川」だけではなく、菊五郎自身が「立腹」で立廻りを見せ、滑川土橋の場まで半通ししたところにも並々ならぬ意欲を感じた。
五代目菊五郎が初演し、六代目、七代目梅幸、当代と続き、また現・菊之助も襲名以来重ねて演じてきた狂言である。音羽屋菊五郎家の家の藝の代表というべき作品である。菊五郎は、豊潤な色気を失わず、不良の魅力を発散している。しかも、春の澄んだ空と通じるようなむなしさ、悲しみさえ感じさせた。
まず、「浜松屋」では、「見顕し」にすぐれている。作為はほとんど感じさせず、嫁入り前の武家の娘から、稚児上がりの小悪党まですらりと変わっておもしろい。「稲瀬川」では、当然のことながら海老蔵の日本駄右衛門を圧する気迫がある。さらに「立腹」では、立廻りの手は短くなっているものの生きることの懸命さをすっと手放してしまった悪党の心がよく伝わってきた。松也の鳶頭、種之助の宗之助、寺嶋眞秀の丁稚長松を見ていると、世代が確実に交替しつつ、菊五郎劇団のDNAが受け継がれていくのを感じた。
團蔵の幸兵衛、橘太郎の番頭、市蔵の狼の悪次郎、梅玉の藤綱。
続いて久しぶりに『菊畑』が出た。
松緑の智恵内、團蔵の法眼、児太郎の皆鶴姫、時蔵の虎蔵。それぞれの心の葛藤を、義太夫に乗せて芝居にしなければならぬ至難な狂言を次ぎに繋げるために健闘している。時蔵は先月から大変な活躍振りで、立女形としての実力を東都に知らしめている。ただし、色若衆となると、出では女方の色が強く違和感を感じさせた。後半はさすがの実力で若衆ならではの身のこなしを見せつける。
いずれは『六歌仙容彩』の通しが期待される菊之助。女方舞踊だけではなく、立役の舞踊も、勘三郎、三津五郎なきあとは、この人が規矩正しく継承していくのだろう。その試金石となるのが、今月の『喜撰』と六月の『文屋』である。
『喜撰』についていえば、茶屋の女にのぼせた高僧ではあるけれど、品格を決して失わないところがいい。ちょぼくれ、ワリミも軽やかにこなしている。ただ、こうした演目は、技巧の確かさを消していくことが必須となる。それには回数を踊って、自然体を獲得する過程を経なければならない。千穐楽近くにもう一度観てみたいと思わされた。二十六日まで。

2018年5月11日金曜日

【劇評106】海老蔵の新しい革袋

歌舞伎劇評 平成三十年五月 歌舞伎座昼の部

新しい酒は新しい革袋に盛れ。
『新約聖書』マタイ伝第九章にある一節だが、近年の海老蔵による歌舞伎十八番を踏まえた創作を見るとそんな言葉が浮かんでくる。
古典を単に新しい演出で模様替えをするのではない。古典を「新しい酒」として見つめ直す。それに見合った演出、演技、ついには型を作り上げようとする。そう簡単に結果がでるはずもないが、何度も上演を繰り返すうちに、説得力を持った舞台が出来つつあるのを感じている。
さて、五月團菊祭に選んだのは、『通し狂言 雷神不動北山櫻』である。パネルを使った口上によって、これから海老蔵が演じ分ける役柄をまず説明してしまう。沢潟屋ゆずりのやり方で、役を兼ねる歌舞伎の演出になれない観客にも通じる舞台を作ろうとしている。
序幕は、早雲王子(海老蔵)が帝位を狙う大きな枠組みの提示となる。
続いて『毛抜』の粂寺弾正(海老蔵)、三番目は『鳴神』の鳴神上人(海老蔵)、さらに大詰は早雲王子の立廻りを見せる。最後に『不動』となって不動明王(海老蔵)が地から離れ浮遊する趣向となっている。
もとより、『毛抜』『鳴神』は、すでに古典としての型が確立している。海老蔵も何度も手がけているから、破綻はない。粂寺弾正の持ついたずらな滑稽味、鳴神上人が雲の絶間姫(菊之助)の色香に惑わされていく人間くささ、いずれも野性が舞台全体を覆っていた時期と比べると、歌舞伎役者としての成熟が確かに感じられる。
『毛抜』では、雀右衛門の腰元巻絹がすぐれている。役者としての落ち着きがあって、はじめて粂寺弾正との戯れにおかしみが生まれる。
『鳴神』は菊之助の雲の絶間姫が亡き團十郎の相手役を勤めた名古屋御園座の舞台からずいぶん成長した。もっとも、規矩正しい鳴神上人と対峙した経験が、今になって生きたのだろう。勅命を帯びて誘惑を仕組む雲の絶間姫の深い思い。あえていえば権力を笠に着るのではなく、鳴神上人を墜落させる役割を負ったことへの悲しみが出た。
打ち出しは、時蔵の『女伊達』。先月に続いて「時蔵祭り」と呼びたくなるほどの大役続きだが、ここでも種之助、橋之助を相手に達者な女伊達を見せる。女の魅力がほとばしりつつも、強くたくましい。助六を真似るくだりも稚気がほのみえた。二十六日まで。

2018年5月6日日曜日

【閑話休題77】幸福な劇場 野田秀樹とソーホー・シアター

 世の中には、幸福な劇場と、薄幸な劇場がある。
さすがに国内の劇場は、これがそれと名指しするのははばかられるが、シアターゴーアーであれば、単にレパートリーの好き嫌いを越えた幸福の度合いを感じているに違いない。
野田秀樹にとって、ロンドンでもっとも幸福な劇場といえばソーホー・シアターになるのだろう。ウェストエンドの中心にあり、周囲は繁華な街並である。ロンドンのパブは、日本の感覚からすれば早く閉まってしまうから、演劇人が舞台の興奮をさますために、息を入れるチャイナタウンもほど近い。『THE BEE』『THE DIVER』が終演したときの興奮を今でも劇場とともに思い出す。そのソーホー・シアターで四月の三十日から、野田が作・演出する『One Green Bottle』が幕を開けた。この作品については、当ブログで劇評を書いたので参照していただきたいが、私にとっては、故・十八代目中村勘三郎と野田が俳優として、最初で最後の舞台となった事実が重い。
東京芸術劇場でリハーサルを観たときも、初夏の暑さが厳しく、出演者たちが汗びっしょりだったのを思い出す。
ウィル・シャープによる英語翻案は、この思い出を覆すように、新たな創作と呼ぶにふさわしかった。

私はかつて、ソーホー・シアターについて以下のような文章を書いている。

旅はどこか開放感がある。
日頃の敷居をまたいで、毎日のように野田と会った。特にソーホーシアターは、劇場の一階にバーとレストランが併設されており、芝居が終わると野田は若い友人たちに囲まれて飲むのを好んだ。東京では近づきがたい存在に、もはや野田秀樹はなっていた。日本やアジアの留学生に囲まれ、友人として話し込む姿を何度も見た。
ひとしきり話すと向かいのインド料理店や中華街に繰り出した。私は東京で野田と食事に行ったのは数えるほどだけれど、海外ではよく話した。舞台についてだけ話していたわけではない。他愛もないばか話もずいぶんした。野田は飲むと陽気になった。しかも、笑顔の魅力がさらに輝きを増す。才能はもとよりだけれども、この笑顔に惹きつけられて、人々は野田のもとに集まってきたのだと思った。
すでに演劇界に確固たる地位を築いたにもかかわらず、野田が偉ぶるのを観たことがない。特に若い俳優に対しては、対等に接するのを好むのを目撃してきた。劇作家・演出家ではなく、同じ舞台を踏む同僚として、若い世代とかかわろうとしている。演出家は孤独である。野田は決して巨匠にならないことで、孤立を避けているように思える。

今回の初日も、観客の反応がよかったと聞く。その喜びを受け止め、おそらくは、芝居が終わると、野田は若い友人たちと陽気に話し込んでいるのだろう。仕事に追われ、今回は現地の空気をともに出来なかったのが残念でならない。