長谷部浩ホームページ

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2018年11月15日木曜日

【劇評122】清新にして、台本のおもしろさを伝える猿之助の『法界坊』

歌舞伎劇評 平成三〇年十一月 歌舞伎座

吉例顔見世大歌舞伎。
夜の部はまずは『楼門五三桐』を、吉右衛門の五右衛門、菊五郎の久吉の顔合わせでみせる。結構なのはいうまでもない。吉右衛門は台詞回しの技術を、技巧と感じさせない。大道具の豪華さ、鷹の加える血染めの片袖が重要な意味を持つこの狂言のおおらさがある。菊五郎は立っているだけで知将の趣きがあり、何も足さないことの大切さを教えてくれる。この顔合わせを新鮮に見せるのが、歌昇の右忠太、種之助の左忠太。若手花形のなかでも、吉右衛門の指導を受けて、技藝に熱心なのがこの役でもわかる。
続いて、雀右衛門がお京を勤める『文売り』。島原の遊女の心情を訴える件にすぐれる。また、「シャベリ」も単なる踊りに終わらぬ趣向があり、『嫗山姥』を清元に置き換える愉しみにあふれている。『白石噺』の宮城野を雀右衛門で観たくなった。
続いて『法界坊』(石川耕士補綴)を猿之助が通す。言わずと知れた十八代目勘三郎の当り狂言で、命日も近く、追善興行も続いているので、どうしても故人の俤を意識した。実際、猿之助の法界坊を観ると、勘三郎とはまた、違った面白さがあって、夜の部の大半を費やすだけの価値がある。石川の補綴は、その意味でも周到である。猿之助は生臭坊主のあくどさよりは、軽妙なおかしさをかもしだす。そのため、この芝居が同じ筋を別の役者で繰り返す「鸚鵡」で成り立っていると強調する。猿之助だけではなく、鸚鵡を演じる役者たちも立っている。
團蔵の源右衛門に重みがある。巳之助の奴五百平、種之助の野分姫と、弘太郎の長九郎と若手を起用しているのも近年の傾向で、彼等が懸命に舞台を生きているのがうれしくなる。
尾上右近のおくみは、女方の華やかさと芝居の確かさがあって出色の出来。猿之助が「歌舞伎座で一番いい男だとおもっている」とからかう楽屋落ちが、あながち冗談では内のが隼人の要助。長身でありながら、悪目立ちすることなく、柔らかみが出ている。
なんといっても、『法界坊』を支えるのは道具や甚三の歌六。これも猿之助が「いい型だね」と嘆息するが、立っている姿が歌舞伎になっているのは、大立者の証拠。歌舞伎役者の身体はこうあらねばならぬと指し示していた。
大喜利となってから、猿之助は法界坊の霊と野分姫の霊を勤めるが、女方の様子がいい。渡し守おしづは雀右衛門で、右近のおくみと猿之助のあいだを捌く貫禄に満ちている。二十六日まで。

【劇評121】菊五郎、時蔵、吉右衛門。大顔合わせで魅せる『十六夜清心』

歌舞伎劇評 平成三〇年十一月 歌舞伎座 

歌舞伎座の吉例顔見世。今年は、京都南座が新開場したために、東京は菊五郎、吉右衛門のふたりを芯に据えた座組。時蔵、東蔵、松緑、又五郎、歌六、雀右衛門、團蔵、猿之助が加わる。
昼の部は何と言っても、菊五郎の清心、時蔵の十六夜に、吉右衛門が俳諧師白蓮で加わる大顔合わせの『十六夜清心』が話題となる。菊五郎は黙阿弥の台詞が手に入っており、さらさらと張らずに歌っていく。「女犯の罪を」以下の重大といえば重大な件も、重くならない。罪の科よりは、運命に翻弄されたいい男を見せていく。時蔵の十六夜は、役を大きく見せようとするあせりなどみじんもなく、相手の菊五郎に合わせていくやり方で、ただただ哀しい。追い詰められたふたりの心中が決して成就しないところに悲喜劇があり、ふたりがともに舞台を踏んできた歴史があって、説得力を持つ。なんとも大人の十六夜清心である。
この世話物に洗練を重ねたふたりに、吉右衛門が加わる。思いがけなく十六夜を大川から引き当て「悪くねえなあ」とひとりごちるときに肚の底に悪がひらめく。どしっとした江戸の大悪党が俳諧師と見せている黙阿弥の仕掛があらわになる。清心に金を奪われる求女は梅枝。若女方として抜きんでた素質を持つが、難しい若衆を演じて匂い立つ美しさだ。台詞回しも安定している。
この狂言の話題は、役者ばかりではない。尾上右近が清元の太夫、栄寿太夫として初目見得。舞台度胸があるのは子役からで、声質が安定していて、安心して聞いてられている。「二刀流」が大リーグの大谷で話題だが、右近もまた、初々しい太夫ぶりで魅せる。
いまさらながら、幕切れ、絵面の大きさは比類ない。
朝幕は、時蔵が芯
となり、又五郎、東蔵が芝居を支える『お江戸みやげ』(大場正昭演出)。川口松太郎の代表作だが、くどくなく江戸前で、すっきりとした佳品である。
また、所作事は『素襖落』が出た。松緑の太郎冠者、坂東亀蔵の鈍太郎、巳之助の次郎冠者、種之助の三郎吾、笑也の姫御寮、團蔵の大名。松緑の踊りにおかしみがある。新しい世代の台頭を感じた。二十六日まで。

2018年11月4日日曜日

【閑話休題78】田中佐太郎自伝の沈黙と凄み

閑話休題 田中佐太郎著 氷川まりこ聞書き『鼓に生きる』

藝と教育とは何か。果たして、藝を伝えることは可能なのか。藝を追い求めることと、自分が舞台に立ちたい気持ちは、同じことなのか。
さまざまな問いが浮かび上がってくる良書。田中佐太郎の自伝『鼓に生きる』を読んだ。
ほとんど年子の三人兄弟を、能の大鼓方亀井広忠、歌舞伎の傳左衞門、傳次郎として育て、一方で、国立劇場の養成所で鳴り物を長年教えた。
実子を教えることの困難さがまず、ある。西洋音楽でもみな、自分の子供にたとえばピアノを教えるのはむずかしいという。
また、養成所の二年間で他人にそこまで時間とエネルギーを費やす無償の贈与。
おおよそを成し遂げた今だから、余裕を持って振り返っている。けれど、完全に男社会ではじめて黒御簾に社中を率いる者として入ったことの凄みは、だれにもわからない。おそらくは墓場まで持って行きたいことがあったはずだろうと思う。なにせ、現場は歌舞伎座である。けれど、何も語らない。その沈黙の凄さがこの一冊を必読の書としている。沈黙する大人の姿勢に、読者も身をただしたくなる。
夫、亀井忠雄はいう、「(観世)静夫と佐太郎がいたから、あの子たちみたいな「魔物」ができたんです」圧倒的な共感を呼ぶ一言だった。