長谷部浩ホームページ

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2015年2月27日金曜日

【追悼】青空と白い雲と 十代目坂東三津五郎

 五十九歳の若さで三津五郎さんがこの世を去った。

昨年の秋に転移が見つかり、今年に入ってからは厳しい状況にあると聞いてはいたが、まさかこんな日がくるとは思わなかった。
勘三郎さん、三津五郎さん、私とは同世代の歌舞伎役者が相次いでなくなり、淋しくてならない。
歌舞伎界、日本舞踊界はかけがえのない人を失ってしまった。

はじめて三津五郎さんと会ったのは、いつだったか。記憶に確かなのは、平成十年一月の浅草公会堂に出演したときだったろうか。
公会堂二階のロビーで五重塔を眺めながら、三津五郎さんを私は待っていた。
演目は『河内山』。話の内容は忘れてしまった。

まもなく、十一月歌舞伎座昼の部、七代目中村芝翫が『紅葉狩』を勤めたとき、三津五郎さんは山神を踊った。
「『紅葉狩』は実は山神のためにあるんじゃないかと思っているんです」
と、おっしゃったのが印象的だった。すでに確かな舞踊の技術は認められていたが、名人の域には遠かった。
その後、断続的にお付き合いがはじまり、平成十七年の七月『NINAGAWA 十二夜』が歌舞伎座で初演されたとき、監事室でばったり会った。
満員御礼が出て、二階の隅にも席がなかったのがかえって幸いして、私は三津五郎さんの解説で歌舞伎を観る幸運を得た。
ガラス張りの監事室は、いくら話をしても外にもれる気遣いはない。
部屋にはふたりだけだったから、女形の袖のつかいかたや歌舞伎演出の詳細まで、あれこれ訊ねつつ『NINAGAWA 十二夜』を観た。贅沢な時間だった。
この体験を岩波書店の編集者に話したところ、すぐに、歌舞伎をみはじめて二年くらいたった観客を対象に。本を編むことになった。三
津五郎さんが快諾して下さったので、一年間の取材を経て、平成二十年には『坂東三津五郎 歌舞伎の愉しみ』を上梓した。さらに二十二年には、続編と言うべき『坂東三津五郎 踊りの愉しみ』が出ている。

この平成十九年から二十一年までは、ほぼ毎月、取材のために三津五郎さんと会っていた。

三津五郎さんの話はいつも明晰で曖昧なところがみじんもなかった。
具体的かつ分析的で、文字に起こしても破綻がない。聞書きを担当する身としては、本当に楽しかった。
当時、私の歌舞伎に対する理解は正直言って浅かったと思う。そんな非力なインタビューアーを励ますように、懇切丁寧に答えて下さった。今でも感謝にたえない。

三津五郎さんも私もまだ五十代に入ってそこそこだったので、取材が終わると、時間の許す限り飲みにいった。
銀座のワインバーswitchや、クラブのブルームがお気に入りだった。
たいていはふたりだったが、彌十郎さんと三人でグレにいったこともあった。
「ひとつの店に長くいるのは野暮なので、一時間とはいられない」
と、言って笑った。屈託のない笑顔だった。

平成二十四年八月二十二日、NHKが主催した「芸の真髄シリーズ」で『楠公』『流星』『喜撰』の三番を踊り抜いた舞台が忘れられない。
名人としての舞台だった。今後どれほどの芸境に進むのか。ロビーで勤務先の大学にある日舞専攻の学生たちと興奮して話したのを覚えている。
その輝かしくも、規矩正しい踊りは、目も眩むばかりだった。

二年ほど前、私が本郷から大塚へ転居したとき報告すると、
「ごめん、僕は両親とも大塚の癌研でなくしているので、あまりいい思い出がないんだ」と、少し湿った調子で言ったのを思い出す。それから間もなく三津五郎さん自身が膵臓癌の病を得るとは、本人も私も思ってもみなかった。

三谷幸喜監督に認められて、巳之助君が『清洲会議』に配役されたときは、本当にうれしそうだった。
「本人が自分の力で取ってきた仕事です」
と、喜びを隠さなかった。

病に倒れてからは、巳之助君の舞台を観るたびに、私なりの考えをメールしていた。長男の成長を何より楽しみにしていたし、ひとかどの役者になるまでそばで見守ってやりたかっただろう。その気持ちを思うだけで、胸が張り裂けそうになる。
芸のことについては、来月の『演劇界』三津五郎追悼号に書く。今は、浮かんでくる思い出をとりとめもなく書き綴った。
冬の終わりを告げるように、今日は暖かい。青い空を掃くように白い雲が流れている。
青空と白い雲と。
三津五郎さんの人柄は、そんな彩りだったと思い返す。

2015年2月22日日曜日

【訃報】三津五郎さんが逝去された

坂東三津五郎さんが亡くなった。
20時に全国の坂東流のお師匠さんには連絡が入ったようなので、もう公にしてもいいのだろう。
勘三郎に続いて同年代の役者が相次いでなくなり衝撃を受けている。
岩波書店から二冊の聞書きを上梓できたのは、私にとって本当に幸せなことだった。
聞き手としての私はふがいないかった。その不満などけぶりにも出さずに、丁寧に答え、教えて下さった。
改めて追悼を書きたいと思うが、今は言葉が出てこない。
名人といわれる人がこの世を去った。それだけがずしりと肚に応える。

【劇評9】哀切きわまりない「陣門・組打」再見

 【歌舞伎劇評】平成二十七年二月 歌舞伎座夜の部 「陣門・組打」再見

昨日、二十二日に「陣門・組打」が急に観たくなって歌舞伎座へ行った。
気まぐれなようだが、今月の夜の部ではやはりこの『一谷嫩軍記』がとりわけすぐれている。吉右衛門、芝雀、菊之助の顔合わせも早々あるわけでないだろうから、脳裏に刻みつけておきたかったのである。
結論からいえば、招待日の四日に観たときよりも格段に緻密に組み上がっていた。特に菊之助の敦盛実は小次郎が、両の手を合わせて合掌するとき死を覚悟した敦盛の澄み渡った心境が劇場にしみわたってくるのがわかる。
平山が出て事態はさらに悪化する。
敦盛実は小次郎が「おろかや直実、悪人の友を捨て、善人の敵を招けとはこの事。はや首討って、亡き後の回向を頼む、さもなくば、生害しょうか」と吉右衛門の熊谷に迫るときの緊迫感は、またとない。。二十五日間繰り返す歌舞伎興行でありながら、一期一会、孤独な魂がふるえるようだった。
芝雀の玉織姫が敦盛の首がみたいと願い、すでに目が見えないとわかってから熊谷は首を渡す。身代わりと知れてはいけないという肚だが、ここでも過剰な思い入れを避けている。内心の葛藤をみせるばかりではなく、恋人をなくした姫への思いが立っている。
「どちらを見ても蕾の花、都の春より知らぬ身の」
敦盛実は小次郎と玉織姫の非業の最期を嘆く熊谷の絶唱が生きている。
そのため、母衣を使って、敦盛と玉織姫の遺体を海に流す件り、あ愛馬に敦盛の形見の鎧、兜、大小を背負わせる芝居も、段取りに終わらない。熊谷の重い心の内を写して、ゆったりと芝居を運び、哀切きわまりない。
〽右に轡の哀れげに、壇特山の憂き別れ」
葵太夫の竹本も、吉右衛門の芝居に寄り添うように、言葉を踏みしめるように語る。
右に敦盛の首を抱え、左に愛馬の轡を握って決まる幕切れの大きさは無類であった。
子役を使っての遠見の演出も生きる。
それにしても、海の青さと白波のなんとあざやかなことか。
網膜に焼き付いて離れない。

2015年2月21日土曜日

【劇評8】生きることのおかしさ 『三人姉妹』(アントン・チェーホフ作 ケラリーノ・サンドロヴィチ上演台本・演出)

 【現代演劇劇評】二〇一五年二月 シアターコクーン

生きることに懸命な人間を観た。
チェーホフの『三人姉妹』を、ケラリーノ・サンドロヴィチは古典としてひたすら礼賛するのではない。上演台本を作成し、戯曲の言葉をたどりながら、登場人物はどのように舞台上にいるのかを丹念に読み解いている。
オーリガ(余貴美子)は、婚期をのがした教師の枠に収まらない。ふたりの魅力的な妹を愛情をこめて見守り、ときにいらだちをかくさない人間として描いている。
マーシャ(宮沢りえ)も倦怠感あふれる美女ではない。もう一度生の感触を取り戻そうと、ベルシーニン(堤真一)との恋愛に燃え上がるひたむきさが前面に出る。
イリーナ(蒼井優)は、没落しかけた家のお嬢さんではない。自分が何も実現できないことに煩悶する女性として生き急いでいる。
求婚してくるトゥーゼンバフ(近藤公園)とソリョーヌイ(今井朋彦)を突き放してみるしたたかささえ見せる。
ナターシャ(神野三鈴)は育ちの悪い悪趣味な女ではない。信念を持ってこの沈滞した家を変えていこうとする野性に充ち満ちている。
女性ばかりではない。チェプトィトキン(段田安則)も人生に疲れた老軍医ではなく、過去の思い出にしがみつき、ときに狂気をほとばしらせるエネルギーを隠している。
クルイギン(山崎一)は、退屈で気取った教師ではない。自らが俗物であることに絶えかねている煩悶がほの見える。そして、まぐれもなくマーシャを愛し抜いているのだ。
堤真一のベルシーニンは哲学を繰り返すが、火事の場面では、だれも聞いておらず、自らの言葉が浮遊していく徒労感を描き出している。
新しい登場人物像が提示されたのは、台詞をうまくしゃべることに専心すのではなく、そのとき人間の身体はどうあるのかを徹底して追求したからだ。ときに人間は言葉とはうらはらに、奇矯な行動をみせたりもする。イリーナが火事の場面で洗面器の水を自ら顔に浴びせかけたり、マーシャがベルシーニンとの別れに我をうしなって足にしがみついたりもする。こうした唐突な行動を怖れず見せることで、とりすました「チェーホフの名作」が私たちのものとなった。人間の懸命な姿はときにおかしみを誘う。これほど笑いと共感をもって受け入れられた『三人姉妹』を私は知らない。演出の緻密さとそれを受けたキャストの自由なありようを観ていただきたい。三月一日まで。五日より大阪公演がある。http://www.siscompany.com/shimai/gai.htm

2015年2月17日火曜日

【エッセイ3】野田秀樹の軌跡3

事件としての演劇をめざして
一九九一年の八月、野田はこれ以降の拠点となる渋谷のシアターコクーンにはじめて登場する。客席数七○○の中劇場は、このとき開場したばかりであったが、広すぎず、狭すぎず、しかも渋谷の至便な場所にあって、 野田の作品世界を実現するには、もっとも適した場所であったろう。ロンドン留学を経て、九四年、『キル』をひっさげて、ふたたび東京に戻ったとき、野田が選んだのも、この劇場であった。
『TABOO』『ローリング・ストーン』『カノン』『オイル』『贋作・罪と罰』『ロープ』『パイパー』と、ずいぶんたくさんの作品をこの劇場で見た。日本経済新聞で新聞劇評を担当している間は、劇評を書くまでは野田と作品の話をしないように決めていたが、二度、三度、重ねて観たときは、会って話すのを楽しみにしていた。劇場下手の通路を通って、小道具を横目に、舞台袖を抜け、地下に降りる。野田は個室より、他の男優たちと大部屋にいるのを好んだ。芝居が終わったあとに、缶ビールを開けて、長話をするのが、いつもの習慣だった。
一度だけだが、野田と議論になったのを覚えている。幕切れの演出について、私が注文をつけたことに、野田が反論してきたのである。出演俳優たちが何の騒ぎかと集まってきたほどの勢いだった。一五分くらい議論は続いたような気がする。なぜ、私は、あんな余計なことを言い出したのだろうか。野田との距離を見失っていたのだろうか。今振り返ると恥ずかしく思う。
代表作というべき『パンドラの鐘』を観たのは、世田谷パブリックシアターである。このとき、雑誌『文学界』に、野田の戯曲とともに長文の劇評を書く予定であった。公演中に、新聞ではなく雑誌に、まとまった枚数の劇評が載るのはめずらしく、私は緊張していた。しかも、同時期に蜷川幸雄演出の『パンドラの鐘』が、シアターコクーンで幕を開けている。このときの初日ほど、張り詰めた気持で舞台に向かったことはない。
演劇的事件、いや事件としての演劇を、蜷川も野田も、めざしていたのだろう。舞台が演劇の世界にだけとどまることを潔しとしないところで、ふたりは共通していた。当時、私は蜷川を一年半かけてインタビューしていた途中だったので、この競演を興味深く観た。ふたりの演劇人としての出自の違いが、鮮明になった舞台だった。
新国立劇場中劇場では、『贋作・桜の森の満開の下』と『透明人間の蒸気』を観た。演劇がもっとも苦手とする表現は、全力疾走だろうと思う。シアターコクーンの舞台では、舞台を横切るように走っても速度がピークになる前に、壁につきあたってしまう。その意味で、広大なバックヤードを持つ新国立劇場は、野田のつねに疾走していたい欲望を満たしてくれる唯一の劇場であった。当時、野田は、新国立劇場がレパートリーを持ち、これらの作品を繰り返しキャストを変えて上演すればよいと主張していたが、結局、実現せずに終わってしまったのが残念でならない。

海外の劇場を走り抜ける

番外公演というのが適切かどうかわからないが、少人数のキャストによる作品を立て続けに発表した。『Right Eye』『農業少女』、タイ版『赤鬼』の初演は、シアタートラム。『売り言葉』は、スパイラルホールで観た。
俳優としての野田秀樹を味わい尽くすには、こうした小空間がふさわしい。拡大を続けてきた野田が、いとおしむようにこの一群の作品をつくりはじめたのも、時代の趨勢だろうか。生きることではなく、死ぬことを主題とした作品群が、こうした劇場で生まれていった。
ロンドンやソウルの劇場も、こうした作品を発表するために選ばれていった。『RED DEMON』のヤングヴィックシアター、『パルガントッケビ』(赤鬼韓国ヴァージョン)の韓国文芸振興院芸術劇場小劇場、『THE BEE』 『ザ・ダイバー』のソーホー・シアターに、これらの作品を観るために飛行機に乗った。
旅はどこか解放感がある。
日頃の敷居をまたいで、毎日のように野田と会った。特にソーホー・シアターは、劇場の一階にバーとレストランが併設されており、芝居が終わると野田は若い友人たちに囲まれて飲むのを好んだ。東京では近づきがたい存在に、もはや野田秀樹はなっていた。日本やアジアの留学生に囲まれ、友人として話し込む姿を何度も見た。
ひとしきり話すと向かいのインド料理店や中華街に繰り出した。私は東京で野田と食事に行ったのは数えるほどだけれど、海外ではよく話した。舞台についてだけ話していたわけではない。他愛もないばか話もずいぶんした。野田は飲むと陽気になった。しかも、笑顔の魅力がさらに輝きを増す。才能はもとよりだけれども、この笑顔に惹きつけられて、人々は野田のもとに集まってきたのだと思った。
すでに演劇界に確固たる地位を築いたにもかかわらず、野田が偉ぶるのを見たことがない。特に若い俳優に対しては、対等に接するのを好むのを目撃してきた。劇作家・演出家ではなく、同じ舞台を踏む同僚として、若い世代とかかわろうとしている。演出家は孤独である。野田は決して巨匠にならないことで、孤立を避けているように思える。
悲しい思い出もある。
ヤングヴィックシアターの二〇○三年『RED DEMON』は、過酷で理不尽な新聞評にさらされて、不入りであった。駒場小劇場から現在まで、つねに満員の客席に向かって芝居をしてきた野田にとって、これほどの屈辱はなかったろうと思う。評論家の私が言うのはおかしいが、ザ・タイムスの評を読んで、身が震えるような恐怖を味わった。
『RED DEMON』の不評をはねかえした『THE BEE』のときは、素直にうれしかった。三年が経過していた。ソーホーシアターのロビーが、興奮した観客の熱気で沸き立つようであった。ああ、これが成功の味というものだなと思った。野田はこうした夜をたびたび味わい尽くしてきたのだなと改めて実感した。
○一年、八月納涼歌舞伎『野田版 研辰の討たれ』初日。今はもうない歌舞伎座でカーテンコールが巻き起こったのも、まさしく事件であったろうと思う。
『文学界』に書いた劇評の締めくくりに、私は、
「幕が引かれても、私はしばらく動けなかった。ただ、万雷の拍手が歌舞伎座に轟くのを聞いていた」(『野田秀樹の演劇』河出書房新社 二○一四年 一五七頁)
と書いている。
装置の堀尾幸男、衣裳のひびのこづえと手を取り合うようにして喜んだ。なぜか、この日は野田と会わなかった。ふたりは初日祝いの席に行ったように記憶している。私はひとり、夜の道を帰った。劇評家であることは寂しいものだなと、その日ばかりは思わずにはいられなかった。けれど、この作品がなければ、私が歌舞伎評に手を染めることはなかったと思う。
○九年、野田秀樹は東京芸術劇場の芸術監督に就任する。その記念プログラムとして、芸術劇場の小ホールで『ザ・ダイバー』の公演が行われた。ロンドンで観た作品の日本版である。芸術監督とは、劇場のまさしく顔であろう。これまでなじみが薄かったこの劇場に、これからは通い詰めるのだなと思った。
長い旅はまだ終わっていない。

【エッセイ2】野田秀樹の軌跡2

自然に向って開かれた空間を求めて
 八五年の第二六回公演『白夜の女騎士』からは、本格的な全国ツアーを行っている。紀伊國屋ホールで幕を開け、芦屋市ルナ・ホール、名古屋市民会館中ホール、広島市東区文化センター、岡山市立市民文化ホール、福岡市立少年科学文化会館ホールをめぐり、ステージ数は、四一回、観客数は二万三七五六人を数えている。『石舞台星七変化』と名付けられる三部作のはじまりである。
 『彗星の使者』は、科学万博―つくば`85エキスポホールで上演されたのも思い出深い。ニーベルンゲンの指輪を下敷きにした神話世界は、より開放感のある空間を求めていた。
 その頂点となるのは、『白夜の女騎士』『彗星の使者』『宇宙蒸発』を一日で一挙上演した舞台であろう。
一九八六年六月、バブルは頂点に達して、時代は浮かれていた。国立代々木競技場第一体育館で行われた公演は、演劇は劇場にあるものという常識を覆して、事件としての演劇を希求していたように思う。オリンピック用に建てられた体育館で、客席との距離は遠く、音響も最悪である。このような上演形態で、作品の実質を確保できないのは、もとより承知の上だったろう。
 のちに、私は夢の遊眠社の解散にあたって、まとまったインタビューを行う機会があった。一九九二年の八月の時点で、野田はこの時期を振り返って、「つくば万博に出ようと思ったのは、芝居はもちろんお祭りの近所にいるのが正しい姿だろうし、事件にならなくちゃいけないんだというのはありました。今、マスコミとか情報誌とかの事件のつくり方というのが、事件のように見せる切り口がパターン化して、結局、事件じゃないんですよね」(前掲書 四六二頁)
 と、当時の考えを示している。

 初の海外公演を行ったのは、八七年八月、エジンバラ国際芸術祭に参加した『野獣降臨』である。出発前、言葉遊びに満ちた戯曲の言葉をいかに日本語を母国語としない海外の観客に伝えるか、野田は腐心していた。
 野田は、字幕やイヤホンガイドを取らず、DJの小林克也を起用し、舞台上手に文楽の義太夫のような役割を与えて、筋の説明を劇の一部に織り込んでいく方法を取った。めずらしく私のところに制作から連絡が入り、海外公演にそなえて劇場を借り切っての舞台稽古を行うから来てほしいとの求めがあった。通し稽古が終わって、野田、演出補の高都幸雄と私の三人で、問題点を洗い出したのを覚えている。
 私がすでに批評家になっていたこともあって、駒場小劇場からこの時点までは、ほとんど個人的な接触はなかった。
 インタビューのような公式の場で会うことはもちろん何度もあった。しかし、終演後、楽屋を訪ねた記憶がない。お互い若かったのだろう。作り手と批評家は一線を引かなければいけない意識が強かった。
 私は『定本・野田秀樹と夢の遊眠社』の監修をし、野田のほとんどの作品について劇評を書いてきたけれども、夢の遊眠社およびNODA・MAPのパンフレットに原稿を書くのは、この文章がはじめてである。ずいぶん意地を張り合ったものだと思う。余談だが、NODA・MAPの制作スタッフから、私の劇評が、熱心なファンの間で「裏パンフ」と呼ばれていると聞いたことがある。これには笑った。

中座の座長部屋にて
 野田秀樹が公演を行った劇場のなかでも、特に思い出深いのは、ともに『贋作・桜の森の満開の下』を上演した京都・南座(八九年)と大阪・中座(九二年)である。
 伝統演劇の色彩と空間配置は、初期から野田秀樹の演出に影響を与えていると思うが、南座は、出雲の阿国が歌舞伎をはじめた鴨川べり近くにある歌舞伎劇場であり、中座は、長く松竹新喜劇の藤山寛美が拠点とした劇場であった。中座では、旅の気安さもあって、野田を楽屋に訪ねた。古風な芝居小屋の雰囲気を残した劇場である。もちろん座長部屋である。作品の話もひとしきり終わって雑談となった。
 「野田さん、ここって寛美さんが寝泊まりしていた座長部屋じゃありませんか?」
 「え、知らなかった。一度泊まってみようかな」
 巨額の借財に追われつつも、夜の遊びをやめなかった喜劇の巨頭の血と汗がしみついた楽屋に野田秀樹がいるのが、不思議な気がした。きょとんとした野田の表情を今でもおぼえている。
 その日、公演終了後、客席にハンドバッグが残っているが、客が見当たらないという事件が起きた。忘れ物かと思ったが、取りに来ない。奈落まで探したが、どこにもいない。怪談話である。彼女は、今も中座の跡をさまよっているのだろうか。
 劇団主催の公演ばかりではなく、東宝や銀座セゾン劇場主催の公演に主に劇作家・演出家として進出していったのも、この時期の特徴であろう。
 八六年『野田秀樹の十二夜』(日生劇場)、八九年『野田版・国性爺合戦』(銀座セゾン劇場)、九○年『野田秀樹のから騒ぎ』(日生劇場)、九二年『野田秀樹の真夏の夜の夢』(日生劇場)である。
 銀座セゾン劇場は中劇場の範疇にあると思うが、日生劇場のような商業演劇の大劇場に、演出家として招かれた野田を見るのは、こころのすみにどこか引っかかりがあった。
 シェイクスピアや近松門左衛門の翻案に異議があったわけではない。むしろ作品は、単なる翻案にとどまらず、野田独自の奇想にあふれたオリジナルにちかいものであった。スケールの大きな舞台で、潤沢な予算のもとに、自在に演出する野田を見るのは新鮮な体験だった。
 九二年の『野田秀樹の真夏の夜の夢』のときだったと思うが、どういう風の吹き回しか、東宝の制作に楽屋に案内された。終演後ではない。幕間である。大竹しのぶらのメインキャストたちと、幕間に談笑する姿を見て、いけないものを見てしまったような気がした。私も狭量だったと思うが、野田がどこか華やかな世界に連れ去られていった寂しさがあったのだと思う。
 もちろんこれは裏話に過ぎない。
 こうした商業演劇の世界で野田は、才質にめぐまれた俳優が、野田が独自に編み出した演技術に、正面から取り組んでくれるよろこびを味わったのだと思う。劇団のメンバーが野田の演技術をまねてくれるのは、その成り立ちからして自然である。大竹しのぶはじめ、毬谷友子、唐沢寿明、堤真一、橋爪功らの才能が、野田の才能に惚れ込み、自らの演技スタイルに固執せず、野田の演出に身をゆだねているのがわかった。
 もとより、野田秀樹の演劇界での商業的な成功は、頂点に達しつつあった。九○年の『半神』は、シアターアプルで幕を開けて、全国を巡演したが、ステージ数は六十九。観客動員は六万人を超えた。『三代目、りちゃあど』では、東京グローブ座を公演場所に選んだ。どこの劇場の制作も野田と仕事をするのを望んでいたであろう。芸術性と大衆性の綱渡りのできる劇作家・演出家は、もとより少数である。演劇界のエースをどの劇場が獲得するかが話題となっていたのである。

すべての集団には終わりがある。
  九二年の九月、『ゼンダ城の虜』をシアターアプルで上演して、夢の遊眠社は解散した。歌舞伎町の深部にあるこの劇場は、どこか陰気で、ここで解散公演かと溜息をついた。このときも、ゲネプロに呼ばれたのをおぼえている。長年、ともに走ってきた評論家への配慮だったのだろうか。久しぶりに芯となる主役を務めた野田が、場面を終えると舞台から降りて、廊下にそなえつけたモニターへと走り、自分の演技をチェックしていた。暗い廊下が悲しげに思えた。
 解散の理由については、先のインタビューで野田は以下のように答えている。
 「今稽古していて、まだ二日か三日ですけれど、やっぱりいいですよね。集団としてはいい劇団だったなと思うし、ちょっとよぎりますよね。おれ、なんでこんなところを解散しようとしているのかって(笑)。でも、解散すると言ったから、つくづくいい劇団なんだなと今稽古しながら思うんだけど、解散していなければ、今この稽古場にいて、やっぱりずっと何かひっかかりがあったと思うんですよ。本当にこれを繰り返していて自分は満足するんだろうかというのが絶対ある。今解散して、つまり今死ぬと明言したから、すごく生きているんだと思うんですよ。そういうことって、すごく集団には必要なことだと思うんですよね」(前掲書 四六四頁)

2015年2月16日月曜日

【エッセイ1】野田秀樹の軌跡1

今回『野田秀樹の演劇』(河出書房新社)を刊行するにあたって、これまでに野田秀樹について書いた原稿を改めて読み直した。
なかでもNODAMAPの依頼を受けて『パイパー』のパンフレットに書いた「野田秀樹の軌跡」は、長文であり、収録を最後までためらった。
夢の遊眠社時代の駒場小劇場から、野田が芸術監督を務める東京芸術劇場までを思い出している。
内容的には、野田秀樹と私とのかかわりを、劇場を縦軸としてエッセイとして綴った原稿である。
評論集に収録するには、私自身の心情をあけすけに語っている。最終的には収録をあきらめた。

パンフレットの性格上、あとから入手するのはむずかしくなるので、3回に分けて、ここにアップロードしておこうと思う。
どうぞ楽しんでお読み下さい。


思えば長い旅を続けてきた。
一九七六年、夢の遊眠社結成から、現在まで。三十五年あまりの歳月が過ぎ去っている。
演劇人にとって、劇場は仮寝の宿である。仕込みをし、舞台稽古を行い、公演の初日が開き、千龝楽を終え、バラしを行って、その場から去っていく。ひとところにとどまることはない。

自由でダイナミックな駒場小劇場

七六年五月の旗揚げ公演は、『咲かぬ咲かんの桜吹雪は咲き行くほどに咲き立ちて明け暮れないの物語』だった。
駒場小劇場の公演である。小劇場の舞台幅は、およそ十二メートルを超えていただろうか。学生食堂を改造したこの劇場は、八メートル近い高さを持ち、いわゆる小劇場の規模を超えていた。照明機材を吊るために舞台の上手下手に鉄骨が組んであったが、舞台も客席も固定されておらず、作品によって自由に舞台空間を作り変えることができた。
東京大学駒場キャンパスの施設であったために、大学に在籍する学生による申請が必要だったが、長期にわたって借りることが出来、本番を行う舞台で、稽古を行える利点があった。もちろん野田秀樹率いる夢の遊眠社の独占ではなく、今は亡き如月小春が主宰する劇団綺畸なども後年、公演を行うことになる。
当時、六本木にあった自由劇場の狭隘な空間と比較してみても、駒場小劇場がいかに恵まれた空間であったことか。この特異な空間がなければ、ダイナミックな野田秀樹の空間造形は、生まれなかったのではないかと思う。
舞台空間だけではない。立地もまた素晴らしかった。
駒場東大前駅からキャンパスを進んでいくと、鬱蒼たる森に入る。学生寮が隣接していたが、都会の中にひっそりとした自然が残り、開演前に散歩していると、大きながまがえるに出くわすような環境であった。今回、久しぶりにそのあたりを訪ねてみたが、もはや跡形もない。浅茅が宿は、再び訪ねようとしても、辿りつけないものなのだろう。
私がはじめて夢の遊眠社の舞台を観たのは、一九八○年の三月に行われた『二万七千光年の旅』からである。
それに先立つ二月、ある女性誌の取材で、野田秀樹を駒場小劇場に訪ねた。稽古を観て、まったく新しい演技体が誕生したことに驚いた。いっときもひとところにとどまらずに、跳躍と疾走を繰り返していく。野田戯曲には詩的な台詞が散りばめられているが、そのリリカルな言葉を身体が解説するのではなく、センチメンタリズムの罠にはまることを怖れるかのように、身体は走り続けていたのである。
稽古が一段落して、インタビューとなった。キャンパスを出て、野田がいきつけにしていたぐりむ館という喫茶店に出かけた。この公演についての取材であったが、野田が繰り返し、自分が天才であると主張していたのを懐かしく思い出す。
私は稽古を観ただけで、まだ舞台に接してはいなかったから、安易に野田の主張に同意する訳にはいかなかったが、素顔であってもカリスマ特有のオーラを発していた。かつて無名時代の蜷川幸雄は、自宅の表札に「天才蜷川」と掲げていたというが、特異な存在であることを露悪的なまでに主張し、自らを鼓舞する時期だったのかもしれないと今になって思い返す。
それから一九八二年十月の第十九回公演まで、六年半の間、この劇場に通い続けた。『赤穂浪士』『少年狩り』『走れメルス』『野獣降臨』『ゼンダ城の虜―苔むす僕らが嬰児の夜』と初期の代表作は、すべてこの駒場小劇場で上演され、作品のレベルは着実に上がり、天才誕生の名声は、つとに高く、もはや自ら主張する必要もなくなっていった。
どの公演だったか忘れてしまったが、稽古を観るために駒場を訪れた際、当時の制作者がひとりで公演ポスターを貼っていた。時間があったので、手伝って構内にポスターを貼って回ったこともあった。
野田とはそのインタビュー以来、格別親しく話す機会はなかったけれども、彼が生み出す舞台に熱狂していたのか、サポーターのつもりでいたのだろうと思う。私はまだ、演劇評論を書き出してはいなかった。
大きな転機となったのは、八一年の『ゼンダ城の虜』の赤頭巾役に、当時人気絶頂であったアイドルグループ、キャンディーズの伊藤蘭が客演した舞台だろう。
七五年に沢田研二が唐十郎作、蜷川幸雄演出の『唐版・滝の白糸』に出演したことがあったが、当時、テレビの人気者が小劇場に出演するのは一般的ではなかった。伊藤蘭の華が、駒場小劇場にこぼれた。すでに翌年の紀伊國屋ホールでの『怪盗乱魔』への出演も決まっていたのだろうと思う。

劇場とは、人と人とが交差して別れていく辻
夢の遊眠社は、揺籃の時代を終え、学生劇団からの脱皮を模索していた。八二年以降、紀伊國屋ホールと本多劇場を拠点として、公演を繰り返していく時代へと移る。
この時期の傑作はなんといっても、八三年、本多劇場で初演された『小指の思い出』だろう。再演の舞台ではあるが、ソニーミュージックエンターテインメントからDVDが発売されているので、今でも追体験できる。
下北沢にある本多劇場は、三八六席の客席を持ち、八二年に開場したばかりであった。真新しい劇場空間が、渋谷の場外馬券場から、中世のニュールンベルグの冬へと転位していく。少年たちが寝ていたはずのふとんが、いつのまにか空を飛ぶ凧へと変わっていく。鮮やかな演出に見惚れた。
野田は八三年九月二十二日の日記にこう記している。十五日の初日から八日目。
「ゼンダ城と優劣つけ難し という一般的な声 並びに、観客との一帯感の復活のキザシ 駒場の劇場から離れて、漸く、一帯感のトレル空間を持つことができそうだ。それにしても、一月の紀伊國屋公演は、そこんところたいへんだ」(『定本・野田秀樹と夢の遊眠社』一九九三年 河出書房新社 一五六頁)
駒場小劇場は、異界にある劇場であった。観客も劇場に入る前に、参入の儀式に参加する空気があった。
それに対して、紀伊國屋ホールも本多劇場も、夢の遊眠社が終われば、新劇などの公演が待っている街中の小屋である。野田が、現実との折り合いを模索していたとわかる。
新宿にしろ下北沢にしろ、人が集まる盛り場には独特の魅力がある。人間と人間が交差して別れていく辻とは、劇場のことではなかったか。当時の作風に見合ったキャパシティの劇場で観る夢の遊眠社の舞台は、至福の瞬間をかいま見せてくれた。
『小指の思い出』で、野田は女装して粕羽聖子役を演じた。その直後だったか、池袋の西武百貨店内で、岸田今日子との対談が行われた。スタジオ200の主催だったと思う。喫茶店のようなスペースに野田は、粕羽聖子の役衣裳で現れた。女装する怪人であった。私はどぎもを抜かれた。演じることの毒が、野田という人間にどのように作用しているのか。考え込まされたのをおぼえている。

2015年2月12日木曜日

【閑話休題1】一ヶ月のご報告とお礼

1月11日に慌ただしく出航したブログ「長谷部浩の劇評」も、一ヶ月を経過した。これまでに現代演劇、歌舞伎とりまぜて七本の劇評をアップロードした。今日の時点でページビューは2800余り。さしたる宣伝もしないのに、こうして読者がいるのを確認できてうれしく思います。

こうした劇評サイトを改めて始めようと思ったのは、今回,「菊之助の礼儀」と「野田秀樹の演劇」二冊の本を上梓してみて、以前、岩波書店から三津五郎さんと「歌舞伎の愉しみ」「踊りの愉しみ」を出版した時期と比べても、情報の流通があきらかに変わってきたと実感したからです。
なかでも市川左團次さんの人気ブログに「菊之助の礼儀」が取り上げられたとたんに、Amazonのランキングが急進して、古典芸能のカテゴリーで一位となった速度感はすさまじいものでした。また、同じブログで左團次さんの奥様がまた書いて下さったときも、一位となる現象が再現されました。

「今、どんな本がおもしろいか」といった情報は、インターネット、しかもコンピュータよりはスマホで主に流通しているようです。だとすれば、「今、どんな舞台がおもしろいか」も、ネットでの情報流通が主軸となっているのも当たり前のことでした。

紙の単行本を主な表現手段としていく方針は変わりませんが、ネットもまた重要な発表の場と思うようになりました。
これからも、できるだけ充実した劇評を発信していきたいと思います。どうぞよろしくお願い申し上げます。

2015年2月10日火曜日

【劇評7】若武者と公達 吉右衛門、菊之助の「陣門・組打」

【歌舞伎劇評】平成二十七年二月 歌舞伎座夜の部 

「熊谷陣屋ほどではないが、『一谷嫩軍記』の「陣門・組打」もたびたび上演され、哀切きわまりない物語が胸を打つ。
今回は、吉右衛門の熊谷。菊之助の小次郎、敦盛。芝雀の玉織姫とまたとない顔が揃った。まずは「陣門」。先陣の功名を立てようとする颯爽たる若武者を菊之助が勤める。花道からの出がよく、怖れを知らずに戦場に向かっていく若者のはやる気持ちがよく伝わってきた。引き止める平山武者は、吉之助。
小次郎が陣門の内へと向かうと、息子の身を案じて熊谷が出る。吉右衛門の熊谷はすでに定評があり、今更、賞賛を重ねるのも気が引けるくらいだが、今回の「陣門」では、小次郎とは対照的に、戦場の血しぶきをさんざん浴びてきた武者の貫禄にあふれる。熊谷が傷を負った小次郎を助け出す。さきほどの颯爽たる若者が、手傷を負って痛ましいが、その後、緋縅の甲冑が眩しいほどの敦盛となって出る。
いずれも菊之助だが、小次郎が若武者なら、敦盛は公達。そなわった品位が舞台を圧する。「熊谷陣屋」で明らかになるのだが、この敦盛は実は小次郎で、身代わりとなる企みを持っている。こののちの「組打」でも、敦盛として小次郎は熊谷に打たれるのだが、菊之助の「敦盛」は決して肚を割らない。あくまで敦盛の品位を保ったまま、父に討たれていく。いや、父にではない。敵の武将に討たれていく性根を崩さない。
「組打」では、菊之助がすっくと立ち上がる件りがいい。気品をもって怖れなどみじんもなく立ち上がる。身につけた鎧の裾を吉右衛門の熊谷が払う。このなにげない所作にふたりの心がありありと観客席に届く。
また、〽振り上げながら」では、熊谷が断腸の思いで「敦盛」を討つが、俗世への未練を断ち切った「敦盛」の魂が冴え渡る。そして、生首を掲げて熊谷が決まるときの力感。張り裂けんばかりの胸の内が舞台を圧した。芝雀の玉織姫が切ない思慕がしみわたらせる芝居で場を盛り上げた。前月『伊賀越道中双六』で吉右衛門と菊之助が本格的に一座した。吉右衛門の四女を娶ったことで、今月のような平成歌舞伎の精華を観ることができた。その幸福を感じる。
続く『神田祭』は、菊五郎の鳶頭を中心に、時蔵、芝雀、高麗蔵、梅枝、児太郎とあでやかな芸者衆が居並び、明るい踊りを見せる。時蔵、芝雀に仇な芸者の風情がある。
『水天宮利並深川』は、通称「筆幸」の一幕二場。河竹黙阿弥の散切物だが、明治に零落した武士階級の辛さを描く。黙阿弥の筆によるのだから、もとより社会問題の告発ではなく、風俗をありのままに写した芝居として演じるべきだろう。
今回筆屋幸兵衛を演じる幸四郎は、平成二十三年三月、新橋演舞場での上演とは性根を一変させた。貧苦と借金取りの責め苦にあい、狂っていく過程をリアルに見せるよりは、長屋に暮らす一家の心の通い合いを打ち出している。箒を長刀に見立てて『船弁慶』の振りをなぞる件りなど、深刻さよりは滑稽味を強調して、風俗劇に徹している。
金貸しの彦三郎、代言人の権十郎が金がすべての世の中を生き延びる男を好演。幸兵衛の娘、お雪の児太郎、お霜の金太郎が観客の泪を誘う。今月の児太郎は、着実に役を勤めて成果をあげた。由次郎の大家もほどがいい。清元社中の余所事浄瑠璃も効いている。萩原妻おむらの魁春に品格があった。二十六日まで。 

2015年2月8日日曜日

【劇評6】歴史は繰り返す 『エッグ』(作・演出 野田秀樹)

【現代演劇劇評】二〇一五年二月 東京芸術劇場

二年の月日を隔てて再演された『エッグ』(野田秀樹作・演出)が、初演を遙かに上回る出来で驚いた。戯曲のバックグラウンドについては、拙著『野田秀樹の演劇』(河出書房新社)収録の「昭和史のバトンリレー」と題した劇評に書いた。阿部比羅夫(妻夫木聡)、粒来幸吉(仲村トオル)、苺イチエ(深津絵里)など役名の由来。一九四○年に東京で開催される予定だった東京オリンピックとその公式競技について。満州国にあった第七三一部隊と細菌兵器などについてである。
また、その劇評のなかで
「劇の幕切れ、苺は車椅子を押している。爆音とともに阿部は立ち上がる。
「『満州には、余りにもたくさんの絶望がある。だから満州の夕日はあんなにも赤く大きい……無念です。無念です。無念です。けれども、人が絶望の淵で、全身全霊を込めて、未来に賭けた思いは、ぺらぺらと歴史のマルタにはりつく。そして、俺は多分……もうじき目を閉じる』
阿部の長台詞は、この『エッグ』が野田秀樹にとって昭和史を後世へとリレーしていくためのバトンに相当するのだとわかる。平成の今から振り返れば、満州国も遠い霧の向こうにある。忘れ去れさられていく歴史を次の世代へと残していきたい。そんな強い意志が伝わってきた。この舞台が3.11を経験してはじめての新作であることも意味を持った」
と、私は記している。
今回の再演の舞台で思い直した。この劇は、満州国にあった第七三一部隊の犯罪を糾弾するために書かれたのではない。むしろ、スポーツと音楽がつねに権力によって利用されてきたこと。そして、満州国のような大きな虚構が崩れるときには、その犠牲となった難民が長い旅を強いられること。その「無念」が胸に迫ったのである。
満州国から日本へと帰国する人々の列に野田は、その後の人生がどうであったかをナレーションのようにかぶせている。あえていえば、その列が、原発事故と津波を受けて、福島から逃れざるをえなかった人々のように私には思えてならなかった。古今東西を問わず、戦争は難民をつくりだす。戦争とは無縁でいるかに見えたこの日本にも難民がまたしても作り出されたではないかと語りかけているように思えてならなかった。
こうした社会的、政治的な意味ばかりではない。キャストの成長によって、男女間の関係もあざやかに浮かび上がった。妻夫木聡の阿部比羅夫の陽気さのなかに翳りが感じられるようになった。深津絵里の苺イチエにファンキーなだけではない屈折が読み取れるようになった。そのためにこの不仲に見える夫婦が、実は愛憎という深い絆で結ばれているように思えたのである。
愛して、そして憎む。男と女のさまざまな衝突。それは苺イチエの父母にあたる消田監督(橋爪功)とオーナー(秋山菜津子)の間にもあって、またしても阿部とイチエによって繰り返されたのではないかと思えてくる。
歴史は繰り返す。人間もまた繰り返す。この残酷な事実が、いかに美しい夕日のもとにあばかれたかを、この劇から読み取ったのである。

【劇評5】大切な時間 幸四郎と菊之助

【歌舞伎劇評】平成二十七年二月 歌舞伎座 昼の部

二月、八月の興行は観客動員がむずかしいと、昔からいいならわされている。それだけに今月の歌舞伎座は、興味深い演目と顔合わせの番組で、智恵を絞ったと思われる。その結果、実質のある舞台となった。
昼の部は『吉例寿曽我』から。「鶴ヶ岡石段の場」で幕を開ける。又五郎の近江小藤太成家と錦之助の八幡三郎行氏が藤原定家卿の一巻を奪い合う。こうした場面にこそ、歌舞伎の骨法とは何かが問われる。当たり前のことを、当たり前に演じることの大切さを思う。重厚な又五郎とすっきりとした錦之助が好一対となった。
屋根がぐるっと回転する「がんどう返し」は、役者の踏ん張りどころだ。装置のスペクタクルに負けない肉体の緊張が求められるが、ふたりはその重圧によく応えている。
続いて「大磯曲輪外の場」。曽我狂言おなじみの役柄が揃う。歌六の工藤祐経、歌昇の曽我五郎、萬太郎の曽我十郎、巳之助の朝比奈、国生の秦野四郎国郷、橘三郎の茶道珍齊、児太郎の喜瀬川、梅枝の化粧坂少将、芝雀の大磯の虎。歌六と芝雀が図抜けているのは勿論だが、朝幕とはいえ、若年揃いのこの配役では舞台面が持たない。五郎には荒事の大きさが必要だし、十郎には和事の柔らかさが求められるが、まだまだ歌舞伎座に期待される水準には達していない。梅枝、児太郎が健闘しているが、若女方のアドバンテージというべきだろう。こうした配役で曽我物を開け、若手の奮起を期待しなければいけないところに、現在の歌舞伎界の苦渋が集約されている。
続く『毛谷村』は、菊五郎初役の六助がすぐれている。母への孝行のために剣術師範になりたい。そのために勝ちをゆずってくれという微塵弾正(團蔵)の頼みを引き受ける。そのうえ、山賊に殺された老人から託された幼子の弥三松を、太鼓であやす。まさしく絵に描いたような善人である。菊五郎の手にかかると、六助の純朴さがなんの衒いもなく舞台上にある。芝居をうまくやろうとする野心が出たとたんに、六助役は見るに堪えないものになる例をこれまで観てきたが、菊五郎はいかにも自然体でこの役になりきっている。そればかりではない。弾正に騙されたと気づいたときの胆力、その充実が観客によく伝わってきた。まさしく剣豪の気迫であった。
加えて六助の許婚のお園を演じる時蔵がいい。さらっとした芸風が生きている。男の虚無僧の姿で「女武道」として登場してから、許婚と知ってからの身体の変わり目が巧い。
六助とお園が、亡父の敵討ちをめぐって哀しむところに、東蔵のお幸が上手の一間から現れる。踏みしめるような台詞回しで、竹本の糸に乗る。確かな地芸が舞台を支える。
左團次の杣の斧右衛門は、仲間うちたちと死体を運び込む役柄で、さしたるしどころがない役である。弾正の企みをあばくきっかけとなる件りだが、老女が殺された陰惨さがみじんもない。それは左團次に俳味といいたくなるような独特のフラがあるからだ。この役者の力の抜け具合が鮮やかな一筆書きのように見える。化粧もあえて老けに描きこまない。それにもかかわらず観客をなごませる。
菊五郎劇団のアンサンブルのよさが丸本物でも発揮され、群を抜くおもしろさであった。
さて、昼の部の切りは、幸四郎の関守関兵衛実は大伴黒主、菊之助の小町姫、傾城墨染実は小町桜の精、錦之助の宗貞とこれまでにない顔合わせで、常磐津の大曲『積恋雪関扉』が出たことを喜ぶ。
幸四郎がさすがの大きさで〽一杯機嫌で関守は」の件りでみせる酔いにおおらかさを見せる。また、大盃に星影を見てからの異変を巧く運んでいる。衣装をぶっかえて黒主になってから一気に古怪な味を出して舞台を制圧する。
それに対して菊之助は、踊りの巧さが光っている。所作の正確さ、下半身の安定、きまったときの型の美しさ。いずれも現在の女形舞踊を牽引するだけの実力が備わっている。もとより小町では冴え渡る美貌を見せ、墨染となってからも、全盛の傾城はかくあろうと思わせる。ただし、小町桜の精となってからは、異界の存在が出現したことの怖ろしさを顕してもらいたい。幸四郎の黒主に古怪をもって拮抗する課題があり、この一月の成長が楽しみだ。幸四郎、菊之助がこの大曲で同じ舞台に乗ることの意味、その大切な時間を見届けたい。二十六日まで。