長谷部浩ホームページ

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2020年3月5日木曜日

【劇評157】『風の谷のナウシカ』夜の部(下)。菊之助は「母」となりうるか?

 粘菌は世界を覆い尽くす

 夜の部の物語は、兵器として作られた粘菌が大きな役割を果たす。
皇弟ミラルバは、粘菌を兵器としようとする。大地が人の住めない腐海になろうとも怖れない。

原作が成立した時点では、まだ緊急のものとなっていない世界の問題が、ときに顔を出す。たとえば、この粘菌の件りで、テロや化学兵器や温暖化に何の対策も講じない(講じることさえできない)権力者が思い出されたりもする。

物語は、ミラルバの兄ナムリスが弟にとって変わり、さらに大地の破壊がエスカレートするあたりから急変する。
ナウシカもトルメキアのヴ王(歌六)、クシャナ(七之助)までもが、土鬼の聖都シュワをめざしていく。だれもがカタストロフへこの星が進んで行くのを止められない。
巨神兵の覚醒
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原作がおもしろく、この歌舞伎版でも異彩を放っているのは、第六幕第一場の巨神兵の覚醒である。
この巨大な兵士は、なぜかナウシカを母と思い慕う。単なるストーリー上のご都合主義ではない。この兵士を「操って」シュワとその聖地の墓所へ向かうナウシカは、母と慕う存在を利用しているだけではないかと自ら疑っている。
「風の谷」の平和は、戦いによってしか守れない。それには、最終兵器の隠喩である巨神兵を利用するしかない。
治者たる者のジレンマを、ナウシカとクシャナはやがて共有することになる。
かけがえのない友人テトの死

 さらに、歌舞伎版は原作漫画の名場面をのがさない。
注目されるのは、大詰の第二場、ヒドラの庭の場である。
 上演時間を考えれば、迂回にも見えるこの件りを、今回の上演台本は割愛していない。
 シュワをめざす途中、ナウシカは、いつも肩にのっていたテトを失う。

 これは、巨神兵の放つ毒の光によるものとされる。つまりは、ナウシカは最終兵器を得たかわりに、かけがえのない友人、キツネリスのテトを失ってしまう。これほど痛烈なナウシカ批判はあろうか。

 ナウシカの身体も弱っている。
 庭の主は、殺戮と毒に満ちた世界とは屁だったこの庭で、ナウシカを休息させる。庭の主は、実は不死のヒドラ(芝のぶ)で、ユートピアに見せたディストピアで、ナウシカを絡め取ろうとしている。

 舞台面は、歌舞伎でよく使われる農村の風景である。郷愁をさそう日本的な風景が、先へ行こうとするナウシカを惑わせる。このパラドックスもまた、安らぐ場所を持たないナウシカ、いかなることがあっても、すべてを許してくれる「母」を持たないヒロインの苦渋が強調される。

 菊之助は、この場での戸惑い、不安に生彩がある。ナウシカであることを超えて、人間の不条理に達しているからだろう。

 セルム(歌昇)の存在もあって、風の谷のナウシカ』の根源的なテーマが現れる。腐海が世界を浄めたあとの世界は、今生きる人間たちを許容するか。ただし、歌舞伎は、こうした哲学的な苦悩を描くには適していない。

 大詰の詳細については、まだ、上演中のためにここでは書かない。ヴ王の自己犠牲が物語をようやく着地させるとだけ書いておく。

(これ以降は、舞台に接してからお読みになることを強くおすすめする)

 
 墓所の主の声は、吉右衛門。声だけの出演ではあるが、超常的な存在として、さすがの大きさを示している。

 背景にゆらめく文字は、コンピュータ言語によって支配されるようになった二十一世紀を予感している。
 ただ、この揺らぎを止めるのが、いささか早い。墓の主の精(歌昇)のとオーマの精(右近)の対立は、歌舞伎舞踊の「石橋」の見立てで、歌舞伎ならではの演出となっている。

 主な登場人物で絵面(えめん 一幅の絵画のように、人物を配置して、決まる)となる。背景には血に染まった日輪が登る。犠牲の上に立った世界の再生を思わせる。

 壮大な通し狂言にふさわしい結末であった。

【劇評156】『風の谷のナウシカ』夜の部(上)菊之助が生まれ持ったオーラ

 壊滅的なカタルシスへ

 昼の部の案内役は、「口上(尾上右近)」。これが道化(種之助)に変わる。
 タペストリー幕を使っての世界の紹介は、昼の部同様だが、大海嘨(だいしょうかい)の文字が加わっている。壊滅的なカタルシスをあらわす。
 この道化が、大詰で大きな役割を果たすのが、今回の歌舞伎版『風の谷のナウシカ』のもっとも重要な趣向だろう。

 第一幕のプロローグは、『仮名手本忠臣蔵』の大序を意識した「名乗り」から始まる。
 主要な登場人物が、みずからを語る趣向である。トルメキア王のヴ王(歌六)、土鬼皇弟ミラルバ(巳之助)、僧官チャルカ(錦之助)、ユバ(松也)、アスベル(尾上右近)、ケチャ(米吉)、クロトワ(片岡亀蔵)、そしてクシャナ(七之助)が、勢揃いして「名乗り」を上げる。

 この幕開きは、まさしく大歌舞伎らしい愉しみ。
歌舞伎に初めて接する観客も、こうした様式的な演出には、新鮮味を感じるに違いない。
詰めかけた観客とは?

 そもそも、観客席を埋めているのは、漫画『風の谷のナウシカ』の全巻をすでに読んでいる人々だろう。すくなくともアニメ版に一度は接したことがある人々に違いない。
 こうした事前の知識を前提とするのは、歌舞伎でも文楽でもお能でも狂言でも同様である。

 もっとも、夜の部は、昼の部の観劇を前提としていない。それだけでも独立して愉しめる。

 だが、『風の谷のナウシカ』の原作の体験があったほうが、当然、深い読みができるのは当然と言えば当然。
 『風の谷のナウシカ』をすでに体験した日本人は、どう少なく見積もっても歌舞伎ファンよりは遙かに多い。この舞台は、歌舞伎を初めて観る『風の谷のナウシカ』ファンに、満足して貰うのが大前提。
 そのあとに、役者の贔屓や新作歌舞伎ファンが想定されているに違いない。
 これは、歌舞伎の未来に対する投資である。挑戦でもある。
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無償の愛によって、ナウシカは守られている。

 さて、ナウシカには、付き従うサブキャラクターたちがいる。昼の部から登場しているるキツネリスのテト、砂漠のなかで出合った子どもチクク(安藤然と星一輝の交互出演)、そして、序盤からお守り役を務める城オジのミト(橘太郎)である。彼らの無償の愛によって、ナウシカは守られている。

 この幸福感をかもしだすのが、菊之助の生まれ持った役者としての人柄で、単に、姿形ではない。全体にかもしだす人格というべきアウラだろう。
こうした人々に愛されるには条件がある。

 ナウシカは優しいだけの役ではない。 

 だれも止められない、お転婆な雰囲気を強く打ち出すことが、ナウシカ役者に求められている。
 女形には、足取りについて決まった型がある。この型をいささか変型しても、ナウシカの溌剌たる魅力を発散することが望ましい。

 それは、せんじつめれば、オーラといいかえてもいい。
 それさえあれば、歌舞伎という役者本位の演劇は、成立する。

 宮崎駿原作の『風の谷のナウシカ』が、アニメの世界の世界的な古典として君臨するのは、この「ナウシカ」にオーラを放つことに成功したからだろうと思う。
 これは、ナウシカが育った境遇だけによるものではない。ナウシカが、複雑な糸にからめとられて運命を背負っているからだともいえる。

 こうした特別な存在は、歌舞伎の芯になる役者と親和力がある。

 「ナウシカ」は唯一無二の存在である。他にかけがえのないキャラクターとして、漫画からアニメから離れて、メディアの宇宙を生きている。こうした存在は、役者のなかの役者、歌舞伎のなかで、ある運命を背負って生まれてきた役者によって演じられてこそ輝きを持つ。
 菊之助は生まれ落ちてから、この世を去るまで、役者であり続けることを宿命とした存在だった。

(この稿、下に続く)