長谷部浩ホームページ

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2017年11月17日金曜日

【劇評89】野田秀樹の『One Green Bottle』生と死を問い詰める時間

 現代演劇批評 平成二十九年十一月 東京芸術劇場シアターイースト

野田秀樹作・演出の『One Green Bottle』を二度観た。十一月四日と十六日、1週間余りを隔てている。一度目は、大竹しのぶ、阿部サダヲ、野田による吹き替えをイヤホンで聞き、二度目は一部の長台詞を除いてはイヤホンをほとんど使わなかった。私の英語力を差し引くとしても、一度目と二度目の印象があまりにも異なったのは、複雑な理由があるように思えてならない。簡単には説明できない。ただ、二度目は海外で現地で制作された英語上演作品を観るように観た。
かつて十八代目中村勘三郎と野田、そして黒木華と太田緑ロランス(ダブルキャスト)で上演された『表に出ろいっ!』が2010年に上演されている。『One Green Bottle』は、その単なる英訳版ではない。キャストを勘三郎からキャサリン・ハンターへ、黒木、太田からグリン・プリチャードに変え、台本自体も英訳ではなく、ウィル・シャープによる自由な翻案がほどこされていた。登場人物の設定はともかく、戯曲の展開は大きく変わっている。新作というのはおおげさだが、『表に出ろいっ!』のかなり大幅な書き替えと考えていい。
だが、この二作の物語の骨格は似ているために、勘三郎のイメージをふっきるのに正直言って時間がかかった。また、翻案によるさまざまな改訂を、英語と吹き替えの情報が溢れ出て来るなかで、追いつくのは大変だった。
今回の上演は、前半でさえもスプラスティック・コメディではない。むしろブラック・コメディというべきだろうか。それは登場する三者すべてが、性を変えている配役も影響している。男優は女性を演じ、女優は男性を演じている。しかも女優のハンターがハゲのかつらをかぶり、男優のプリチャードが現代のとがっている少女のコスチュームを着るなど奇想天外な衣裳(ひびのこづえ)が与えられている。そのため、あらゆる過激な発言や言動が、日常そのままではなく、架空のファンタジーとして現実から切り離された。
『表に出ろいっ!』では、現代日本のさまざまな「神」が家族のなかでひしめき対立している状況が、家族の間のコミュニケーション不全を起こしていた。それは2010年、当時のまぎれもない現実であり、リアリズムでもあった。けれど、今回の上演までの年月は私たちを取り囲む家庭の事態を変えた。たった七年のうちに、それぞれの「神」よりも上位にインターネットとそれをつなくデバイス(スマホや携帯やPC)があるとあらわになったのである。
そのため、ボー(ハンター)が信じる伝統藝能とワンダーランド、ブー(野田)が信じるボーイズボーイズに比べて、ピクル(プリチャード)のネットへのカルト信仰が圧倒的に見えてくる。そのためお互いがそれぞれの信仰を非難するよりは、もはや直接の会話が決定的に繋がらなくなった家庭の状況があらわになった。もし、コミュニケーションをとりたいのだとすれば、同じ空間にいてさえも、お互いがそれぞれのデバイスに向かってメッセンジャーやラインを打ち込むことでしか成立しないと鋭く告発していたのだった。
さらにいえば、後半も変わった。
もはや、水がなくなって助けを呼べない危機的な状況がそれぞれを怯えさせているのではない。お産を控えた犬を食べてしまうのか、それともお互いが食い合うことでしかコミュニケーションは成立しないのか。極限的な状況でひとは何を思い、何を押しとどめ、何を求めるかが主題となる。水を求めるパニックものではなく、人間が生と死を問い詰められる時間として『One Green Bottle』は成立していた。
他にも英語による上演でしか味わえない細部のおもしろさがある。シェイクスピアの言葉や業平の和歌(しかも謡いの調子で発声される)が日常の会話のトーンをかるがると覆すところだ。世代間の口調の違いにコミュニケーション不全の本質があるわけではない。むしろ、古典の言葉が時代を突き抜けて語りえる真実とは何かが胸に迫ってくる。そして童謡の底にある残酷さが劇を下支えしている。
ハンターは、威厳のある能楽師を演じつつも愛嬌がある。愛嬌ばかりではない。その向こうに空恐ろしいまでの恐怖がある。人間の深淵を見せる演技である。
プリチャードは、仕草、表情に技巧があり、少女を演じて不自然さはない。そればかりか少女特有の潔癖さと得体の知れなさを感じさせる。
野田は、『表に出ろいっ!』以上に、日常をただやり過ごすことで現実から逃避する人間の哀れさ、哀しさを狂騒的に演じている。   
三者三様、いずれも類型にとどまらない挑戦的な演技である。様式にとらわれずに、性を横断するだけの力があった。
また、作調と演奏を担当した田中傳左衞門がすぐれている。今回は八月の『桜の森の満開の下』のように自在に書かれた新作を歌舞伎の領域へととどめるのが目的ではない。たとえば、人形振りの所作が振り付けられた件りで三味線の録音を差配しているのだろう。その録音を蘇らせるように、その場で小鼓などの音を切り結んでいった。小鼓の弱音がとりわけすばらしい。音を伝統演劇の領域から解放していくその挑戦的な姿勢をおもしろく思った。
この作品をより味到できるのは、英語をネイティブとする人々なのだろう。それを考えると残念ではある。けれど、世界の最前線への向かって行くには、こうした試みが必要不可欠なのはよくわかる。
野田が役者として英語で舞台を勤めるとき、『RED DEMON』英国初演とは、まったく異なる柔軟かつ練られた領域へと達していることに驚かずにはいられなかった。故・勘三郎は、徹底した稽古に基づいて、即興であるかのような演技を繰り出す天才だった。野田はまだ、泉下にいる勘三郎と張り合おうとしているかのようだった。十九日まで。十一月二十三日から二十九日までソウル公演。
http://www.geigeki.jp/performance/theater143/
撮影:篠山紀信



2017年11月5日日曜日

【劇評88】制服の下のもろい生身の肉体。ホーヴェ演出の『オセロー』

 現代演劇劇評 平成二十九年十一月 東京芸術劇場プレイハウス

なぜ、海外の演出家を呼ぶ舞台が多いのですかと、演劇関係者が足繁く訪れる小料理屋の大将に聞かれた。しばらく考えて、「どうしてでしょう。よい俳優は外国の演出家の言うことを聞くでしょうから」と応えた。あまりまともな返事とはいえない。
ただ、かつて九十年代にデヴィッド・ルヴォーの演出に親しんだ私からすると、俳優を励まし、勇気づけ、言葉での決闘に送り出していく姿勢は、外国人演出家に共通しているのではないかと考えている。
中劇場の舞台が続いている。なかでも十年に一度の舞台に接したと思ったのは、十一月のはじめに三ステージだけ上演されたイヴォ・ヴァン・ホーヴェ演出の『オセロー』だった。オランダのトーネルグループ・アムステルダムによるプロダクションだが、一九七○年生まれのモロッコ系オランダ人ハフィッド・ブアッザによる新訳を採用している。
ムーア人のオセローを演じるハンス・ケスティングは、肌を黒く塗ったりはしない。名優ローレンス・オリヴィエでさえムーア人を演じるために必要と考えたのに、ホーヴェ演出はこの選択を避ける。白人のハンス・ケスティングは、たくましい肉体を持っている。ヴェニスの名家の娘デズデモーナ(ヘレーヌ・デヴォス)とは対照的である。すぐれた体躯を持った異国の軍人オセローと、きゃしゃで抱きしめれば壊れそうな肉体のデズデモーナ、この対比を観るだけで、ふたりの間に文化的宗教的な対立があるとわかる。いや、オセローは、自分以外のすべての人間と対立しているからこそ、ヴェニスの元老院議員である父のブラバァンショー(アウス・フレイディナス・ジュニア)の呪いのような言葉を受けて、悲劇へと突き進んでいくのだ。冷静な判断ができない。原作戯曲を演出するとき、冷静であるはずの軍人オセローがなぜこれほどまでにイアーゴ(ルーラント・フェルンハウツ)の計略に乗ってしまうのかが説得力を持ちにくい。ホーヴェ演出は、ポストコロニアリズムの陥穽をくぐりぬけている。旧植民地への贖罪意識に囚われてはいない。あらゆる人間のなかにある欲望と暴力のありかたを鮮明に描き出していた。
続いて、現代的な制服をオセローやイアーゴらに着せた視覚的な効果が大きい。ホーヴェ演出でオセローやイアーゴは、頻繁に制服を脱いで、裸の上半身、ついには下半身さえもさらす。軍隊は暴力的な権力装置であるのはいうまでもない。その長たる将軍は、絶大な権力を握っている。けれども制服を脱いだとたん、もろい生身の肉体を抱えている。どんなに筋肉質で立派な肉体であろうと、刃を当てれば血が噴き出す。嫉妬に狂えば、狂気に取り憑かれる。人間の欲望の果てしなさ、愚かさを舞台にたたきつけたところにホーヴェ演出の鋭さがある。
このホーヴェ演出の『オセロー』舞台とリチャード・トワイマン演出の『危険な関係』については、雑誌「悲劇喜劇」の1月号に詳しく書く。ご期待ください。