長谷部浩ホームページ

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2020年12月14日月曜日

【劇評169】 猿之助、七之助の万事派手な「吉野山」。藝と笑いの「源氏店」は、幸四郎の戦略に貫かれていた。

 社交の場でもなければ、消閑の場でもない。舞台と観客席が、真摯に向かい合う歌舞伎座となった。    唄も三味線も鳴り物も黒いマスクを付けている。まるでアラビアンナイトの盗賊團といったら叱られるだろうか。  このマスクが来月も続くようであれば、立唄や立三味線は、さりげなく家の紋が入った特製をぜひ付けていただきたい。遊び心があれば、舞台はいよいよ楽しくなる。  第三部は、『義経千本桜』の「吉野山」。清元の地。猿之助の源九郎狐に七之助の静御前。猿弥の逸見藤太という充実の配役で、おもしろく観た。  七之助は花道の出からジワがくる。市松模様に座る席を抜いた劇場でジワがくるのは格別のこと。猿之助はスッポンから迫り上がるが、人でもなく、狐でもなく、雄の匂いが濃厚に漂う。  ふたりは、あせらず、急がず、のどかな春の気分を漂わせる。進境著しい二人の顔合わせである。  女雛男雛で決まるところも、猿之助がすっと入って、さりげなくのびて、決まる。主従であることを踏まえ、見せ方をよく心得ている。  竹本が加わって、いくさ物語へと進む。重く始まり、やがて合戦の描写に入り込み、扇を口に決まる。芸容の大きさが感じられる。  猿弥の藤太も当代一と呼びたくなる。柔らかな鞠のような身体が舞台を明るくした。    源九郎狐の引っ込みは、沢潟屋らしい派手なやりかたで、髪をさばき、白地に宝珠の衣裳にぶっかえり狐六法を見せる。 万事、観客本意の猿之助らしい一幕となった。  第四部は、『与話情浮名横櫛』から「源氏店の場」。幸四郎の与三郎に児太郎のお富。彌十郎の蝙蝠安に片岡亀蔵が藤八を勤める。  幕開きから児太郎の成長ぶりに驚いた。  まだまだ若手と思っていたが、この数年、重い役に恵まれ、いつのまにか花形を代表する女形に成長していた。    鏡台に向かっての仕事が多く、神経をつかうと聞くが、おそらくは叮嚀で時間をかけた稽古の成果が実っている。地声も上手く使っている。  こうして、役者は大きくなっていくのだな、これが歌舞伎が生き延びてきた原動力なのだなと得心した。  この場の前半は、お富と藤八の芝居、与三郎と蝙蝠安の芝居で運んでいく。亀蔵が当て込まず着実な芝居。まじめだがちょいとスケベなお店者になりきっている。芝のぶのおよしも小股が切れ上がった女っぷりがよい。  収獲は煮染めたような着物をぞろりと来て、嫌がらせで世を渡る蝙蝠安を彌十郎が好演している。この役者は人の良さが身上と思ってきたが、濃厚な嫌味を漂わせる役を自在にこなしている。「そうはさせねえ。けえすんだ」の啖呵が小気味よい。内心の屈折や卑屈な追従もおもしろく観た。  さて、後半は、与三郎の男を見せる芝居だ。育ちの良さと近年の荒れた生活が両立していなければいけない。柔らかい物言いにも底に針がひそませてある。  幸四郎は、このあたりのほどがよく、ひとりで場をさらうよりは、作品としてのバランスをよく考えて、周囲にも芝居をさせている。  お富との気迫のこもったやりとりに続いて、中車の多左衛門が出てからの焼き餅ぶりに実がある。また、中車も、こうした大番頭の格が必要な役をなんなく勤めるだけの器量がある。人の浮き沈みを語っていぶし銀の滋味があふれた。  充実した一幕となった。  お富が藤八に「自分で」白粉を塗らせる件り。与三郎とお富が抱き合う代わりに手拭を投げて、たぐりよせる件り。  役者同士の距離を取りつつ、笑いへと作り替えていくあたりに、世話物ならではの妙がある。幸四郎の大きな戦略を感じた。