長谷部浩ホームページ

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2017年12月24日日曜日

【閑話休題74】還暦後のテニスと村上春樹さんの思い出

 還暦を迎えて一年がたった。
いや、これほど体力が衰えるとは思わなかった。階段を一段、いや二段くらい降りた感触で、特に筋肉の衰えが著しく、これではいかん、なんとかしなければと思い立った。
一昨年の秋から昨年の春までは、五月に刊行した『権力と孤独 演出家蜷川幸雄の時代』の書き下ろしにかかりっきりになっていた。終わって一息ついたので、遊びのスイミングでは効果がないと諦め、同じスポーツクラブのジムエリアに行き、インストラクターを頼んで、パーソナルトレーニングを始めた。
筋肉がしっかりとしたWコーチは、とても人柄がよく、いつも怪我を気づかってくれた。東日本大震災をきっかけに、五十代の半ばで中断したテニスを再開するだけの体力をつけてほしいとお願いした。
断続的ではあるが、ほぼ週一のパーソナル、週一回の自主練習を重ねて、この十一月には近所にあるテニススクールで、無事、復帰を果たした。久しぶりにするテニスは、息が切れる。カゴ一パイの球出しや振り回しにはあはあ、ぜいぜい。情けなくはあるが、何より愉しい。まだ、二ヶ月に過ぎないが、筋力もアップし、筋力量も増した実感がある。 
私の場合、こうした生活は、書き下ろしとは両立しない。毎日ランニングを何十年も続けている村上春樹さんはすごいなと思う。千駄ヶ谷のピーターキャットというカフェバーを経営されていたときには、もうランニングを始めていらしたのだろうか。営業時間が終わると麦酒の小瓶を開けて、実においしそうに飲まれたのを覚えている。
そういえば、外苑にあった写真家の稲越功一さんの事務所で偶然、村上さんと会ったことがある。ランニングの途中で立ち寄ったとのことで、なるほど、ランニングも走り続けるのがすべてではない。途中休憩もありなのだなと思った。稲越さんももう、この世にはいない。稲越さん、村上さんとどんな話をしたかはすっかり忘れてしまった。稲越さん、村上さん、安西水丸さんの三人がともに本を出版された時期だったと思う。ふたりがざっくばらんな会話をされいたことだけが印象に残っている。
還暦を過ぎた今となっては、スポーツも勝負ではなく、娯楽になる。きつくなったら休んでもいいのだな。
もっとも、調子に乗って過日、ワンデイキャンプも申し込んだ。朝の十時から二時間半のレッスンである。キャンプの初めに「体をあっためましょう」と広い体育館を三周、ジョギングしたのには参った。喉がいがらっぽいをの押して参加したら、案の定、次の日、風邪の症状が出た。それでも、反省するどころか、ご満悦なのだから、手に負えない。風邪を引きずったまま、この慌ただしかった一年が暮れていく。

2017年12月23日土曜日

【劇評97】決して分かり合えない関係。吉田鋼太郎、藤原竜也の『アテネのタイモン』

現代演劇劇評 平成二十九年十二月 彩の国さいたま芸術劇場

演出家蜷川幸雄がなくなってもう一年半あまりが過ぎた。今更ながら不世出の演出家だったとの思いが深い。現代演劇の世界は、長くこの演出家の芸術性と大衆性を綱渡りする才能に大きく頼ってきた。全作品上演を掲げた彩の国さいたま芸術劇場のシェイクスピア・シリーズの残りは、今回の『アテネのタイモン』を含めて五本となった。
もちろん最後まで残った五本には、それなりの理由がある。いかに地球史上最高の劇作家といえども、すべてが傑作とはいえない。『アテネのタイモン』も、観客の共感を呼びさます登場人物がいない。芸術監督を引き継ぎ、今回は演出・主演した吉田鋼太郎は、よくこの仕事に取り組んだと思う。
吉田がこの劇の焦点としたのは、藤原竜也が演じるアペマンタスの忠告を聞かずに、取り巻きへの饗応に溺れ、やがて破滅するタイモンとの決して分かり合えない対話にある。自らの人生が破滅しようとしても、アペマンタスとの対話は、永遠にすれ違っている。考えてみれば、他人から耳障りのよくない忠告を得て、喜ぶ人間などいるだろうか。いや、いるかもしれないが、金と友人に裏切られようとも、その否を決して認めないタイモンは、あまりにも人間的である。その愚かさを愛おしく演じたところで今回の『アテネのタイモン』は、あえてする上演にふさわしいだけの舞台となった。傍若無人に徹した藤原竜也のアペマンタスも、内部にみなぎるような怒りが貫いている。
この二人を対象化するようにして、柿澤勇人のアルシバイアディーズは、軍人としてのありかたを崩さない。横田栄司のフレヴィアスが滅私奉公ではなく、タイモンの人間性に惚れた執事を好演する。
スタッフワークを含めて、蜷川幸雄演出を思わせる部分がある。私にはかえって、このオマージュが中途半端な結果を生んでいるように思えてならなかった。大劇場で上演するには、蜷川のスペクタクルな演出は、不可欠かに思えるが、芝居の実質を考え、より小さな空間での上演も考えられる。
いずれにしろ大きく張る吉田流の演技術が他の多くの役者にも浸透している。今後の上演は、演出もまた、吉田流を貫いていくのだろう。二十九日まで。一月五日から八日まで兵庫県立芸術文化センターにて上演。

2017年12月21日木曜日

【劇評96】吉右衛門と菊之助。無間地獄の対話

 歌舞伎劇評 平成二十九年十二月 国立劇場

吉右衛門の一座に菊之助が頻繁に加わるようになったのは、歌舞伎座新開場の『熊谷陣屋』のあたりからだろう。単に初役を勤めるから先輩に教わりにいくのではない。時代物の第一人者の吉右衛門と同じ板を踏むのは、これからの歌舞伎の伝承を考える上で大きな出来事に相違ない。今月の国立劇場は、時代物ではなく世話物。ふたりがしっかりとからむ芝居を見ることができ、平成二十九年の掉尾を飾る舞台となった。
演目は『通し狂言 墨田花妓女容性(すみだのはるげいしゃかたぎ)ーー御存梅の由兵衛ーー』。並木五瓶の作、国立劇場文芸研究会が補綴した台本だが、引き締まった出来で退屈しない。梅の由兵衛は、初代吉右衛門の当り役で、初代白鸚が二度演じているとはいえ、二代目吉右衛門にとっては初役。頻繁に出る狂言ではないだけに、理詰めでいけば劇作上の傷はあるが、その傷を傷と思わせないのが役者の技藝である。理屈では解けない登場人物の行動を、歌舞伎の趣向と技藝でさばいていく手際を愉しんだ。
まず、序幕の「柳島妙見堂」は、吉右衛門演じる梅の由兵衛の頭巾が見物。この芝居のシンボルとなる。鷺と烏の文様の衣裳とともに、男伊達の粋が凝縮されている。舞台上の記号にとどまらず、周囲の人物や観客は、この頭巾に幻惑されて、時間を過ごすことになる。
言い交わす小三(雀右衛門)と金五郎(錦之助)に千葉家の家臣伴五郎(桂三)が横恋慕。伴五郎は土手のどび六(又五郎)を使って、御家から持ち出した色紙を売りさばこうとするが、このお宝と百両の金が人々を迷わせ、なんともやるせない結末へと導いていく。
「妙見堂」「橋本座敷」「入口塀外」と人物をうまくさばいて面白くみせる。由兵衛の妻でもとは芸者の小梅(菊之助)にしつこくからむ源兵衛(歌六)。小三の身請けの金を用立てる勘十郎(東蔵)と吉右衛門一座の役者が、それぞれ類型に陥らず、活き活きとした人物を立ち上げていく。
「橋本座敷」では、先にいったシンボルとなる頭巾をカタに、身請けの金の刻限をのばすところがみそ。男の意気地を担保としたために、由兵衛はのっぴきならない立場に追い込まれていく。このあたりの仕組みを、吉右衛門の技藝がのちの圧倒的な嘆きと絶望へとつなげていく。
二幕目は一転して、姉の小梅に頼まれた金の工面に追われる弟長吉(菊之助)の苦悶が焦点となる。なぜ、奉公人の身で百両の金を何とかしようと思ったのか、また、恋仲にある主家の娘お君(米吉)を金策に巻き込んだのか。こうした劇作上の難も、ようやく姉やその夫のために手にした百両の金を、こともあろうにその由兵衛に奪われ、無残に殺される結末で償うことになる。このあたりの因果応報を当然のものとして運んでいくのが、吉右衛門と菊之助の息の良さ、芝居の行儀のよさで、不自然さはない。運命に翻弄される市井の人の苦しみばかりが伝わってくる。恋敵の居候、長五郎(歌昇)が若くして巧み。チャリを担って、真面目に生きる人々を相対化している。
「奥座敷」のよそごと浄瑠璃「梅ヶ枝無間の鐘」の哀しさ、長吉には、無間の地獄が待っている。「大川端」では、金を争って吉右衛門と菊之助が争うまっすぐな気持。この場の吉右衛門は腕を組み、思案顔で花道を出るが、紫の地におおぶりな梅をちらした着付で粋の極み。「長吉殺し」では、様式美に終わらず、写実に徹した吉右衛門の腕が冴える。「どうぞ、許して下されいのう」とふたりが重ねていうときに内実がこもる。長吉を殺し、由兵衛が「なんまいだぶ」と念仏を唱えるうちに、叢雲からおぼろに半月が現れる。寂しい江戸の夜が浮かび上がる。
大詰の「梅堀由兵衛」は、由兵衛の出から、義弟殺しの罪に押しつぶされている体。米吉のお君が長吉は生きていると信じていて由兵衛内を訪ねてくるが、幼さがゆえの強引さがよくでている。歌六は吉右衛門を相手に一歩も引かぬ源兵衛の心情を見せる。小梅に対する恋慕を訴える件りに実がある。
菊之助が長吉から小梅へと替わり、自ら小指を落としてまでも、弟殺しの罪をかぶろうとする。菊之助は長吉、小梅を自己犠牲に傾く人間として一貫させている。小梅が場を去っては、何度も登場する趣向は歌舞伎ではめずらしいが、まるで無間の地獄を彷徨っているかのようだ。
この場を引き締めるのは、吉右衛門の名台詞「二十三夜の月代に、死顔見ればお前に生き写しと、思えどあとのしがいの片付け。差し汐なれば大川へ、この由兵衛は人殺しの、仕置きにあわぬその先に、心はしんでいるわいやい」である。「心はしんでいるわいやい」は、絶望のアリア。吉右衛門のこれまでの蓄積が一言に凝縮されて胸を打つ。

通し狂言の前に雀右衛門の『今様三番三』が出た。「三番叟」に「布晒し」を綯い交ぜにした趣向の踊り。雀右衛門が当て込まず、確かに踊る。平家の白旗を使って軍兵とからむ「布晒し」も自在な境地で愉しんだ。佐々木小太郎に歌昇。結城三郎に種之助。
実質のある着実な舞台で、師走の慌ただしい時なれど、見逃すには惜しい。二十六日まで。

2017年12月20日水曜日

【閑話休題73】郵便ポストにご用心

先日の午後、愛犬小太郎とともに散歩に出かけた。
手には封書が一通。その前日、ドラマーの森山威男さんを囲んで『スイングの核心』を上梓した記念の打ち上げがあった。森山さんにお礼を書いて投函しようと、駅前のポストに出かけた。
師走である。ポストの投函口は、左が年賀郵便、右が通常郵便に分けてる。右に投函しようとしたところ、私の顔の至近距離のぬっと顔が突き出された。
見れば見知らぬ老人で、杖を突いている。あまりの異様さに、封書を投函してそさくさと去る。いやな予感がして振り返ると、この老人は投函口に手をつっこんで、封書を取り出して手元のバックにしまっている。私の投函が十分ではなく、下まで落ちきっていなかったのだろう。封筒の白が目にしみた。
不審な人物の不可解な行動。とっさに声をかけてよいか迷って後をつける。バックから私の封書を取り出して、点検してまた戻す。金目のものかどうか見聞したのだろうか。さらに近くにある別のポストに行くと、また、左、右とまたしても手をつっこんでいる。
あまりのことに、
「手紙を返して下さい。明らかな不法行為です」と声を掛けた。
「なんでもない」
と、否定して逃げ去ろうとする。
再度、注意を喚起すると、いやいや皺になった封書を返して、後ろを振り替えずに、足早に去っていった。
手紙はポストの下に落ちるまで、何があっても確認しましょう。そんな教訓を導き出したいわけではない。
世の中には、悪意が充満していて、トラップがあちこちに仕掛けられている。年の瀬の実感なのだった。

2017年12月14日木曜日

【劇評95】大女優の名演。大竹しのぶの『欲望という名の電車』

現代演劇劇評 平成二九年十二月 Bunkamuraシアターコクーン


大女優という言葉がある。私の世代では、文学座の杉村春子が、この名にふさわしい存在であった。今、思い返すと、単に女優としてのスケール感があるばかりではなかった。貴族を演じてすぐれているばかりではなく、庶民を演じてリアリティを備えていた。また、声がよく台詞回しにすぐれ、細部の技巧に秀でた女優がある年代に達したときに、大女優と呼ばれるのだと思う。
二○一七年の現在、大女優といえば、大竹しのぶの名前がまず浮かぶ。この呼び方がしっくりくるようになったのは、実は最近のことで、今年四月の『フェードル』のタイトルロールで決定的になった。その貫禄は、蜷川幸雄演出の、『欲望という名の電車』(二○○二年)『王女メディア』(二○〇五年)ですでに認められた。このいずれもが、Bunkamuraシアターコクーンで上演されている。
今回、大竹しのぶは再び、テネシー・ウィリアムズの『欲望という名の電車』のブランチに挑んでいる。翻訳は前回と同様、小田島恒志、演出はフィリップ・ブリーンである。演出家が異なるから、単純に演技を比較するのは意味がないが、二度目になるブランチは、狂気を大づかみに捉えるのではなく、細部へと徹底して還元した。まさしく大女優ならではの演技であり、全体と部分が複雑にからみあっている。大竹のブランチは、自分がコントロールできない狂気を演じるにあたって、緻密な細部の構成がなされており、リアリズムの極みにある。
まず、客席を通っての登場がいい。
思い詰めた表情、少し固くなった身体、しっかりと前方を見定めながらも焦点が結ばない目。台詞が放たれる前から、ブランチのなかに得体の知れない怪物が宿っていると雄弁に語っていた。
ベル・レーヴをめぐるスタンリー(北村一輝)との争い、ステラ(鈴木杏)との対立と共感、ミッチ(藤岡正明)との駆け引き。いずれも変幻自在で飽きることがない。
演じることによってこれまでの人間関係を切り抜けてきたブランチの刹那的な生があからさまになる。また、そうした生を選び取らざるを得なかった理由が、自ら生を絶った夫への悔悟にあるとわかる。ワルシャワ舞曲とともに蘇ってくる記憶の怖ろしさが、大竹の演技によって観客に否応もなく襲いかかってくるのである。
スタンリーによる告発、ミッチの離反、そして、過去を取り繕うのを止めていかがわしいホテルを、フラミンゴではなくタランチュラと断ずるときの戦慄が忘れがたい。大女優とは、演技によって、自ら断崖を飛び降りる勇気をもった憑依する者の別名であった。
北村一輝のスタンリーの冷酷、鈴木杏のステラの包容力、藤岡正明のミッチの混乱と絶望、いずれも大竹のブランチをいっそう輝かせる。ブランチの狂気が、周囲の人々を破滅の瀬戸際まで追い込んだとよくわかる。
ブリーンの演出は、一言一言への緻密な読解によって成り立っているよくわかる。ブランチが夫の死に立ち会った事件を、寓意的ではあるが、実際に視覚化して演じてしまう演出など、説明的に過ぎるのではないかとも思う。つまりは、ブランチの内面にあるイメージを具体化してしまう結果になり、観客の想像力を信じない演出に思えてくる。『欲望という名の電車』を、もっともだれもが知っている古典ではなく、新たに発見された物語として蘇らせるには、こうしたわかりやすさも必要なのだろう。
大竹の速射砲のように放たれる台詞は、陰影に富む。ちょっとした目線の動きが、瞬時に変化した心の動きを語る。そのたぐいまれな技藝を見逃すのは、私たちの人生にとって大きな損失となるだろう。

2017年12月8日金曜日

【劇評94】玉三郎が高い藝境を示す『瞼の母』

 歌舞伎劇評 平成二十九年十二月 歌舞伎座第三部

第三部は玉三郎が座頭。俳優としての魅力はもちろんだが、芯に立つ役者としての統率力、透徹した美意識に対する信頼が、玉三郎の舞台を支えているのだろう。客席を熱い観客が埋めていた。
第三部はなんといっても長谷川伸の名作『瞼の母』を玉三郎のおはま、中車の忠太郎が人間の心の振幅を全力で、しかも精緻に描き出し高い水準の舞台となった。
いまさらながら長谷川伸の戯曲が巧みである。序幕、萬次郎の半次郎母おむら。大詰第一場では、玉朗の老婆。第二場では歌女之丞の夜鷹おとらと、母の幻を辿る旅が重なる。中車の忠太郎は、生き別れた母を恋い慕いつつ、みずからのルーツを見定めなければいられない人間の宿命を導き出す。あえていえば、零落した老婆たちをいたわるだけではない。一方で冷ややかに突き放すそぶりも垣間見えて深い。失われた母を探す旅は、きれいごとではない。なぜ捨てたのだと、うらみ、悲しむ心がひしひしと伝わってくる。
そして第三場、眼目となるおはまの居間。一言でいい。母よ、子よと名乗りあいたい半次郎の心情。そしてやがて諦め、怒りがこみあげてくる過程が克明に描写されている。また、玉三郎のおはまは、重厚かつ圧倒的。すばらしい藝境に至っているとわかる。梅枝のお登世の未来への憂い、やくざものと関わることの怖れ、過去の自分への自責の念。母よ、子よと抱き合いたいのにそれもかなわない。かなわない心の内にこそ、劇が宿っている。人間が生きている。平成の世が閉じようとする今、人間の苦渋を、単なる台詞劇でもなく、歌い上げる人情劇にも終わらなかった。人間の生を全身で演じきる劇として『瞼の母』は成立していた。石川耕士演出。
続いて玉三郎が折に触れて取り上げてきた『楊貴妃』。能楽の形式を取り入れつつも、京劇の身体技法、歌舞伎の演出を取り入れて独自の優美な世界を屹立させている。中車の方士も神妙に、落ち着いて勤めている。二十六日まで。

【劇評93】知性と愛嬌。中車の『らくだ』

 歌舞伎劇評 平成二十九年十二月 歌舞伎座第二部

 慌ただしい師走の一日を費やして、歌舞伎を観る幸福。三部制には賛否あるのは承知しているが、なにかと気ぜわしい十二月には、ふさわしい興業のかたちかと思う。
 第二部は、中車の久六による『らくだ』。もやは手に入った(片岡)亀蔵の宇之助の快演もあって、観客席を沸かせる。第一部の『実盛物語』とは打ってかわって、上方の怖い小悪党を演じる愛之助の熊五郎も、笑いを狙いすぎず、かといって突っ込むところは手加減せず上出来。橘太郎、松之助の家主夫婦は、極端にデフォルメして観客を浚っていく役柄。中車の久六は、目に知性が宿っているために怜悧な屑屋になってしまっている。この人に巧まざる愛嬌が備わってくれば無敵なのだが。
 続いて『蘭平物狂』。二代目松緑ゆかりの演目を当代が全力で演じている。前半後半を通して、蘭平が子繁蔵(尾上左近)を思う気持ちがあふれてこその立廻りである。親子で蘭平、繁蔵を演じるよさはそのあたりにあるのだろう。新悟は女房おりく実は音人妻明石で女方としての成長が著しい。与茂作実は大江音人の(坂東)亀蔵も襲名以来、ひとつひとつの舞台を大切にしている、匂い立つ行平奥方の水無瀬は児太郎。行平は愛之助。愛之助は第一部から大活躍で、人柄のよさが伝わってくる。二十六日まで。

【劇評92】心の水脈。愛之助の『実盛物語』

歌舞伎劇評 平成二十九年十二月 歌舞伎座第一部

年の瀬の歌舞伎座。例年、京都では顔見世が開いていることもあって、東京は少数精鋭の一座だが、無人だからといってあなどってはいけない。実質のある演目が並んでいる。
第一部は愛之助の『実盛物語』から幕を開ける。霧が流れる琵琶湖湖畔の芝居だが、愛之助のおおらかな芸質が生きて、単なる怪異譚には終わらない。白塗りが映えて、情感のある佳品となった。
この舞台を支えるのは瀬尾の(片岡)亀蔵。実盛と瀬尾の対比。そして瀬尾の自己犠牲によるモドリがあってこそ、ドラマとしての実質が確保される。
愛之助には、おおらかさばかりではなく、のちに太郎吉から手塚太郎となる武人に打たれる未来の予感がある。戦場の無残を先取りして、心のなかに冷ややかな水流が流れているかの趣きであった。
松之助、吉弥が九郎助夫婦を勤めて庶民の篤実な生活を描き出し。御台の葵御前は、笑三郎。屋台の柱によりかかっての風情がいい、郎党は、宗之助、竹松、廣太郎、廣松が勤めた。
続いてこちらはまさしく怪異の世界を中世の闇から取り出す『土蜘』。彦三郎の源頼光、梅枝の胡蝶、番卒の権十郎、平井保昌の團蔵と世代交替は進みつつあるが、菊五郎劇団の伝統と底力がある。間狂言を確かに演じるのは、これからますます困難になっていくのだろう。僧智籌と土蜘の精を勤める松緑は、気配を消して揚げ幕から出「いかに頼光」の一言であたりを払う。家の藝を大切にする姿勢が際立っていた。二十六日まで。

【閑話休題72】圧巻!ナショナル・シアター・ライブ

昨日までと気がついたのは、一昨日。高い水準の舞台を東京で観ることできる「ナショナル・シアター・ライブ」にようやく間に合った。演目は『ヘッダ・ガーブレル』(イヴォ・ヴァン・ホーヴェ演出)。先日、芸劇で上演された『オセロー』の興奮が覚めやらぬ時期に、またしても挑発的かつ本質的な舞台でした。八分の入り。こうした重厚かつ洗練された演目を見たい観客が一定数いて、それを小劇場とはいえ上演するシネコンがあるのは救いです。ロイヤルバレエやボリショイのライブ上映もあって、一部の人気を集めているようです。
それにしても、舞台の映像化の技術があがってきたので、「本当のライブではない」と思わなくなっている。ただ、映像を観て劇評を書くかというと微妙な問題です。映像演出の技法についての評価がないと成立しないような気がしています。
上演期間が短いので「ナショナル・シアター・ライブ」には、いつも気を配っていなければ。新しいシーズンの演目発表は来年二月の予定と聞きました。
最終日に行くときっとだれか来ているだろうなと周囲が気になります。昨日も某公共劇場のプロデューサーと会って立ち話。海外との共同製作は盛んになった分、来日公演が手薄になっている現状について話した。
http://www.ntlive.jp/heddagabler.html

2017年12月1日金曜日

【閑話休題71】ブログに舞台写真は必要ですか?

 舞台写真をこの十一月から掲載することにした。
もちろんすべてではない。たまたま手に入ったときに限る。

きっかけは東京芸術劇場で野田さんの『One Green Bottle』である。
芸劇、製作課長の内藤実奈子さんから舞台写真が収められたCDをもらった。内藤さんは私がブログで劇評を書いていることをよく知っている。以前、ある舞台の批評をツイートしてよいかと訊ねられた。そのときには別に舞台写真の話はしなかった。

十年前はいざしらず、批評家が舞台写真を終演後もらうことは少ない。新聞や雑誌の担当者と宣伝部がやりとりする。担当から相談を受けることはあるが、筆者が自分で掲載写真を決めて、宣伝部とやりとりする機会は少ない。
また、以前は、大劇場では、すべての関係者にキャビネ判の舞台写真を配っていた。油断するとくっついてしまいそうな出来たてほやほやの紙焼きだったが、今は現役の記者の手にしか渡らないと思う。このごろは聞くところ、紙焼きではなく、データの受け渡しになっているという。舞台写真の一覧をのせたサムネールのような印刷物をもらって、使いたい写真を宣伝部に発注する仕組みに移りつつあるらしい。
もっとも、私がこのブログで書いている劇評には担当編集者はいないから、もし、舞台写真を載せたいと思えば、宣伝部と私が交渉しなければならない。そのやりとりを考えるとなにかと煩雑なこともある。また、現在はネット上にいくらでも舞台写真は公開されているので、それでよいではないかとの思いもあった。けれど、劇場でCDのかたちで渡されれば、それほどの手間でもないし、この劇評サイトにアップしてもよいかなと思うようになりました。
私自身にはそれほどの実感はないが、たぶん演劇宣伝の現場も変わりつつあるのだろう。インターネット上でいかに話題になり、関心をひくかが以前より重みを持っているのは確かである。
もとより私の書く短文の劇評に観客動員を左右する力があるとは思っていない。けれども、紙のメディアよりは速報性のあるインターネットが劇を愉しみ、劇を読む参考になればとは思う。
早川書房の『悲劇喜劇』誌上で、「シーンチェンジズ 長谷部浩の演劇夜話」と題した長文の劇評を書くようになった。もう、三回目の原稿を渡した。今は、備忘録のようにこの「シアターゴーアー・ディレクトリ」に短文の劇評を書き、そこで考えたことを「シーンチェンジズ」に仕立て直す様にしている。また、「シーンチェンジズ」には舞台だけではなく、関連の書籍や映画、演劇人の思い出も織り込みたい。
テニスから帰ってきて心地よく疲労している。舞台写真のことを書くつもりが、脱線してしまった。
深呼吸して、身体をリラックスさせて、しばらくは劇評を書いていこう。

【劇評91】溝端淳平、忍成修吾、温水洋一。三人が言葉で格闘する『管理人』

 
世田谷パブリックシアター『管理人』。撮影:細野晋司

現代演劇劇評 平成二十九年十一月 シアタートラム
ハロルド・ピンターの『管理人』(徐賀世子翻訳)は、時代を超えてこれほどまでに現在を照らし出すのかと思った。丁寧で緻密な森新太郎の演出があってのことだろう。
登場人物は男性三人。舞台奥の窓に収斂するパースの部屋に、ガラクタが山のように積み上げられている。アストン(忍成修吾)は、ホームレスのような身なりのデーヴィス(温水洋一)を街から拾ってくる。意外にもアストンはこの部屋にデーヴィスを受け入れる。やがて現れたアストンの弟ミック(溝端淳平)は、怪しい気配のデーヴィスを脅す。やがてこの建物の管理人にならないかと、デーウィスは兄と弟それぞれから誘いを受ける。ところが管理人になるためにはデーヴィスがシッドカップに預けたという身分証明書が必要だ。けれど、デーヴィスはこの部屋から動こうとしない。ぼろぼろの靴や悪い天気のせいで行けないのだという。
不条理演劇の範疇にある戯曲だが、なぜデーヴィスをアストンが受け入れたのか、それがまず大きな謎として横たわっている。やがて、アストンのこれまでの来し方が明らかになり、アストンとミックのあいだにも、この家をどうするか意見の食い違いがあると明らかになる。
今回の演出を面白く思った。それは、それぞれの登場人物を何かのメタファーとはしないところだ。もちろん演出するからには、刻々と移り変わっていく関係の変化を描かないわけにはいかない。それにもかかわらず、三人を職業や性格によって図式のなかに収めようとしないのである。
ここにあるのは、今、その瞬間をやりすごすために長期的な展望を持たず、ただ、感情のおもむくままに言動を繰り出していく哀れな人間たちのせめぎ合いだ。物置小屋を作る、家をリフォームする、身分証明書を取り返す。いずれも夢ではあるが、決して手の届かない夢想に過ぎない。部屋にあるがらくたが刻々と崩れ、腐っていくように、この部屋に監禁されている三人もまた、逃れがたい崩壊へと歩んでいる。
デーヴィスの老いは深く、アストンは病をかかえ、ミックはきまぐれで粗暴である。三人の闇は深くなるばかりで、出口は見えない。
ミックの溝端淳平は、今この瞬間を決して信じられない人間の苛立ちをよくあらわしている。アストンの忍成修吾は、ちょこちょこした歩き方で、いつもプラグの修理をしているが、何を考えているのかわからない不気味さをたたえている。三人三様の演技がぶつかりあい素晴らしい火花が散るが、その鍵となるのは、登場から終幕まで、生き抜くことの困難に押しつぶされた人間の浅ましさを全身で表現した温水洋一だろう。もとより温水は舞台俳優だが、そのキャリアのなかでも代表作というべき演技だった。
それにしても、一九六○年に上演された『管理人』がこれほどの現在性を持つのはなぜか。行く先が見えず、貧困と汚辱に充ち、没落していく英国のかつての姿が、今の日本と重なるからだろうか。森演出はこうした現在性もあえて強調せず、ただ、寒さに震えて明日の展望を描けない人間の辛さ、あさましさを描いて見せた。「これが私たちの今だ」と、私たち自身が発見するのを待っているかのように。十二月十七日まで。