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2018年5月26日土曜日

【劇評108】直接的な死 寓意ではなく。前川知大の『図書館的人生Vol.4 襲ってくるもの』

 現代現劇劇評 平成三十年五月 東京芸術劇場シアターイースト

近年のイキウメは、破竹の勢いで、水準以上の舞台を発表しつづけている。劇団には旬というべき時期がある。また、長く見れば、春夏秋冬もある。さしずめ前川知大とイキウメは夏の盛りを生き、これから秋の収穫期へ向けて準備をしているのだろう。
もう、おなじみになったオムニバスの『図書館的人生Vol.4 襲ってくるもの』(作・演出 前川知大)は、三本の作品で構成されている。
#1は『箱詰め男』(二○三六年)と題されている。海外に赴任していた科学者の息子(森隆二)が久しぶりに実家に帰る。母(千葉雅子)の話を聞くうちに父(安井順平)は、認知症になったのではなく、意識や精神活動をコンピュータに移したのだとわかる。
AIを搭載した音声応答スピーカーのパロディともなっている。劇が前川らしい奇想へと滑り込んでいくのは、このコンピュータにある感覚器官が与えられたときだ。客演の千葉雅子が着実な演技で、困惑と不安をかもしだす。実際にマインドアップロードの作業を行った老科学者の森下創はいつもながらの怪演を見せる。
#2は『ミッション』(二○○六年)。配達の仕事の途中、老人を引いてしまう事故を起こした青年山田輝男を進境著しい大窪人衛が演じている。彼は、いけないとわかっていてもある種の衝動に駆られると止められない。交通刑務所から出所してきた輝男を気遣う友人佐久間一郎(田村健太郎)とのやり取りが軸となる。そのうちまともに見えた佐久間のストーカー行動が明らかになる。ここで疑われているのは、市民の常識である。「まともにみえる」ことと「まともでいる」ことには差がある。「まともでいる」ことと「まともでないことを起こす」の間にも差はあるが、この差異の境界が次第に曖昧になっており、法も倫理もこの越境を抑えられないのだと語っている。
#3は『あやつり人形』(二○○一年)である。大学三年生の由香里(清水葉月)は、母(千葉雅子)が難病にかかったことをきっかけに、おきまりのリクルートスーツで就職活動に身をゆだねる自分に疑問を持ち始める。はじめ、自由に生きることに理解を示す兄清武(浜田信也)も大学中退を示唆したとたんに態度を変える。また、すでに社会人の恋人佐久間一郎(田村健太郎)も、由香里の変化を受け入れられない。人間の好意や優しさは、本当に相手のためにあるのか。その行為自体が相手を苦しめる結果となっていないかと問いかける。
佐久間一郎が#2、#3に登場するために、#2に先だって、#3の事件が起こったかのように見える。また、全体に直接的な死が執拗に描かれているのが本作の特徴だ。
二○一八年の上演時点で、未来にせっていされているのは#1だけ。#1も#3も過去の物語だ。その意味で今回の三作品をSFと分類するのは正しくない。代表作『太陽』のように、SFの設定のなかで寓意として描かれていた種族の死ではない。ある個人の死がいったいどのような意味を持つのか。直裁に斬り込んで胸を打つ。