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2020年4月14日火曜日

【劇評163】欲望と依存。森田剛の『フォーチュン』

だれにでも好みはある。
 傾きのある翻訳劇に惹かれてしまうのは、かねてから気がついていた。  傾きというと、曖昧な表現だけれど、主流派ではないと思ってもらってもかまわない。
 過激で、悪ふざけをしながらも、真実に突き刺さっている舞台に惹かれてしまう。

 劇作家サイモン・スティーブンスの新作『Fortune(フォーチュン)』(広田敦郎翻訳 ショーン・ホームズ演出 ポール・ウィルス美術・衣裳)は、ファウストの物語を下敷きにしている。
 つまりは、自らの欲望のために悪魔に魂を売り渡してしまった男の悲劇である。

 劇作家はこの物語を、映画監督という芸術家に設定している。
 だれもが知っているように、実績のある映画監督は、少なくとも自分の作品制作のなかで、絶対的な権力者である。
 権力があれば、当然、孤独が生まれる。日常を支えてくれるスタッフも全面的には信頼出来ない。

 森田剛が演じる映画監督フォーチュン・ジョージは、若いプロデューサーのマギー(吉岡里帆)を事務所に迎える。
 極めて優秀だが、麻薬の使用歴があると本人も認める。フォーチュンは彼女に一目惚れするが、相思相愛の夫がいる。新しい映画の企画をすすめるうちに、フォーチュンはロンドンの新しいタワーにあるシャンパンバーで、ネットで知り合ったルーシー(田畑智子)と会う。彼はやがて、悪魔の化身のルーシーと奇妙な契約を結んでしまう。

 極めて表面的にいえば、フォーチュンがルーシーという麻薬の売人に出合い、コカインなどに手を出た。それ以降は麻薬がもたらした幻覚で、犯罪を犯し、ついには収監されて破滅した物語とも読める。
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 ただ、こうした皮相的な読みを超えるだけのエネルギーがこの作品にはある。それは時空を超えた人間の宿命へと手を伸ばしているからだろう。

 欲望と依存、良心と倫理。
 古典的な主題を扱い、巧みに現代の消費社会の物語に置き換えた戯曲は、常に不安をかかえこんだ人間を描いている。

 演出のジョーン・ホームズは、この世界をまやかしではあるが、蠱惑的な魅力のある場所として現実化する。
言葉と言葉のやりとりが、人間の関係を微妙に変えていく。この基本にあくまで忠実だ。

しかも、スタイリッシュで眩い意匠を散りばめて、観客を惹きつける。この作業の中心になるのは、美術・衣裳のポール・ウィルスである。
 舞台前面の半分をスライドドアとし、左右の袖には暗幕を置かずに照明機材をさらしてしまう。ここには広大ではあるけれど、中心を欠いて、人間の不安をかき立てる空虚感が棲みついている。

 小野寺修二のステージング、かみむら周平の音楽、佐藤啓の照明、佐藤裕子のヘアメイクが偽物のロンドンを幻のように舞台上に出現させている。

 森田剛は、ふるえるような魂をかかえこんでいるアーティストをてらいなく演じている。この純粋な魂は、悪魔がぜひともほしがるだろうと思われた。

  吉岡里帆は、ストレートな役柄として登場するが、やがて彼女は大きな分裂を抱え込んでいるとわかる。ハリウッドで映画の出資者を応接するあたりから、がぜんおもしろくなる。

  田畑智子は絶対的な悪にはなりきれない悪魔という複雑な役柄を演じていてすぐれている。
 私たちの現実社会にも、その人のためには決してならないと思いつつも、不動産や車を長期ローンで売りつける営業があふれていると思わせる。

 さらにフォーチュンの母、キャサリンを演じた根岸季衣が出色である。自分一人の手で息子を育てた強さと暖かさがあるから、人間はだれの愛を信じるべきかという問いが投げかけられた。

 この作品は世界初演である。
 英国のすぐれた劇作家の初演が、日本で行われた。サイモン・マクバーニーの『春琴』がその達成として思い浮かぶが、『春琴』はあくまで谷崎潤一郎の原作があってのプロダクションだった。
 キリスト教社会とその価値観が浸透していない日本で、この戯曲が制作されたことの意味は重い。松本、大阪、北九州を巡演。3月1日まで。