長谷部浩ホームページ

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2020年3月5日木曜日

【劇評154】『風の谷のナウシカ』 昼の部(上) 菊之助の無念。

 突然の事故が菊之助を襲った。

 新橋演舞場の『風の谷のナウシカ』は六日に初日を開けた。

 すでに報道されているように、八日の昼の部の第三幕、幕切れに事故がおきた。ナウシカを演じる菊之助が、不慮の事故にあって左肘を骨折、夜の部は中止となった。
 翌、九日昼の部からは、左腕を固定したまま、演出を一部変えて舞台に復帰した。

 私自身は、十二日の昼の部、夜の部を通して観た。

 六日の初日も通して見た若い友人と劇場で会った。彼女によると、昼の部に限っても、演出は現行とは、かなり異なっていたようだ。

 振り落としや振りかぶせのような歌舞伎演出が整理されたこと。
 菊之助による立廻りや宙乗りが削られたこと。

 役者にとって、こうした見せ場を身体の故障によって小気味よく演じられないのは、さぞ辛いことだろうと思う。 

 しかし、こうした歌舞伎的なスペクタクルを欠いたために、逆に得たものも大きかったのではないか。
 失ったものもあれば、引き換えに得るものもある。人生も舞台もうまくできている。
 昼の部は、宮崎駿による原作七巻本をあたると、ほぼ第三巻までに相当する。

 原作の漫画だけで一千六百万冊が売れたナウシカである。
 ナウシカの人物論は、読者それぞれによって違うのはいうまでもない。

 私の理解するところでは、大規模な戦闘に巻き込まれるまでのナウシカは、粘菌類を含めた植物や民草への慈しみにあふれている。決して、戦闘や殺戮、血を流すことを好んではいない。だとすると、歌舞伎のスペクタクル、特に立廻りは、ナウシカ本来の性格と矛盾するきらいがあった。

 また、メーヴェに乗ってのフライングは、漫画だから重力の制約とは無縁だ。しかも、その細部を描ききる必要はない。けれど、舞台化したとたんに、重力の制約は重くのしかかり、道具としての精度やリアリティも問われることになる。ナウシカの熱烈な愛好者を納得させるのは、むずかしい。

 今回、昼の部の立廻りとフライングを欠いたことによって、かえってナウシカの不戦の心情があきらかになった。
 菊之助が左腕をぎこちなく使うときに、優しく慎重なナウシカの性格が強く出る。
 そのために、歌舞伎の役柄でいえば「女武道」に相当する七之助のクシュナとの対比が鮮明になったのである。
 序幕から書いていく。
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 まずは、第一場のプロローグ。尾上右近による口上。このナウシカの世界を年代記風に描いたタペストリーを背景に、腐海、王蟲、トリメキア、土鬼など、この作品独特の用語を、要領よく説明していく。

 第二場の注目点は、ナウシカ(菊之助)の「出」。
 ナウシカは、歌舞伎で言えば娘方だろうけれど、和服の着付や鬘に守られていないために、女形の発声がナウシカのキャラクターと重ならず、登場の「出」から少女ナウシカと思わせるのは正直言って厳しい。
 けれども、こうした新作では、往々にして起こることでもある。なにしろ男性が少女役を演じるのだから、不自然さがまったくないはずもない。

 はじめは違和感を感じた観客が、劇が進むにつれて、菊之助はナウシカなのだと信じていく。芸の力、歌舞伎の技藝で、観客から徐々に受け入れられていく。昼の部をみただけで、この困難な試みは、充分成功していた。

 第二場、ナウシカは、トルメキアに滅ぼされた工房都市ベジテのラステル(鶴松)と出合う。瀕死のラステルに秘石を託される。

 そこで、この芝居の基調が明らかになる。だれもが世界を支配するための鍵、秘石を狙っている。偶然、この石はナウシカに託された。探して、見つける。シーク&ファインドの物語である。

 第三場は、剣士のユバ(松也)、ナウシカの父、族長のジル(権十郎)、城ババ(萬次郎)、城おじのミト(橘太郎)ら主要な人物が紹介される。
 こうした周囲の人物がナウシカを族長の後継として認め、さらにその優しい心根が人を惹きつけるところに物語の格がある。

 しかも、「風の谷」人物たちは、菊五郎劇団の中核にいる役者たちが演じている。菊之助は将来、菊五郎の名跡を継承するのは当然とだれもが考えている。

 歌舞伎は役と役者が二重写しになるだけではない。役の関係性と役者のおかれた状況もまた二重写しになる。このあたりを考えての配役だろう。同じ劇団に育ち、菊之助にアクシデントがあり、それを乗り越えて舞台を成立させなければならぬ。
 役者同士がお互いを思う気持ちが自然に通って、説得力を持った。

(昼の部 下 に続く)