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2018年8月8日水曜日

【劇評116】清新な歌昇、種之助の挑戦

歌舞伎劇評 平成三〇年八月 国立劇場小劇場 

歌昇、種之助の兄弟による「双蝶会」も、第四回を数える。尾上右近の「研の会」とともに、八月の風物詩になりつつある。近年では「亀治郎の会」を辛抱強く現・猿之助が続けて結果を出した。また猿之助は、そのすぐれた企画力とリサーチ能力を対外的に示したのが大きい。この先例にならってか、「双蝶会」は意欲的な演目を並べている。
今年は種之助の忠信、歌昇の義経による『四の切』。三十分の休憩を挟んで、歌昇の関兵衛実は黒主、種之助の宗貞の『関扉』と大きな狂言が出た。『関扉』では、児太郎も小町と墨染を勉強している。さすがにこれはと思うほどの大役こそ、勉強会にふさわしいのだろう。
まず、『四の切』だが、派手な沢潟屋の型をあえて選んでいない。とはいえ、仕掛とケレンのある演目だが、以外に難物であるのはいうまでもない。まず、本物の忠信に威厳が、そして狐忠信に哀感がなければならぬ。とはいえ、親を亡くした子狐とはいえ、幼すぎてもいけない。静御前(京妙)の旅に付き添い、なにくれと心を配ってきた設定だからである。
前半の忠信は、現在の年齢からいっても、神妙に勤めるほかはない。落ち着いた芝居で力を低く落として好感が持てる。ただし、意外な展開に戸惑う気配が伝わらず、まだまだ武士の威厳に乏しい。後半は種之助生来の愛嬌が活きる。親を失い、鼓の皮となった親を慕う気持ちがよく伝わってきた。身体がよく切れるが、これほどの狂言の動きは、なんといっても回数を重ねて身につくものだろう。この困難をものともせず、稽古を重ねて今回の舞台にのぞんでいるのがよくわかった。
『関扉』もまた大曲中の大曲。舞踊劇としても重い。前半、種之助の宗貞が「出」からしばらくは、若々しさが出すぎて頼りなく見たが、芝居が進うちに、鷹揚さが漂うようになったのは、このところの勉強の成果だろう。派手なしどころが少ないだけに、役者のよさで見せていかなければならない。
歌昇は関兵衛のうちは、自在に藝に遊ぶ進境とは遠く、滑稽味が足りない。ところが、意外といっては失礼だが、「はて心得ぬ」からの見顕し、黒主になるといきなり大きな役者に見える。荒事の筋がいいのは、すでに定評がある。隈取りが似合うのも研究の成果だろう。古怪というのは褒めすぎだと思うが、黒主の心の闇がほのみえるのは藝質がすぐれているからだろう。
児太郎は小町を若さと美しさで乗り切る。さらに墨染になってからは、傾城の手管を見せるときに、ひらめきが感じられる。父福助譲りのあだっぽさも加わってきた。まだまだ、墨染は荷が重いが、将来の充実が期待できる舞台となった。
清新な勉強会を観て、気持ちが晴れやかになった。なによりの公演である。