長谷部浩ホームページ

長谷部浩ホームページ

2018年9月8日土曜日

【劇評117】アーティストとアルチザン。野田秀樹『贋作・桜の森の満開の下』をめぐって

現代演劇劇評 平成三〇年九月 東京芸術劇場プレイハウス

『贋作・桜の森の満開の下』は、私にとっても思い出深い演目である。
夢の遊眠社の公演として行われた一九八九年の日本青年館と南座、九二年の日本青年感と中座。いずれの舞台も観ている。東京での公演はもとより、なぜ関西まで観に行ったのか、今は記憶に定かではないが、伝統演劇の劇場でこの作品がいかに変容するかを観たかったのだろう。
また、十七年前、新国立劇場の中劇場で行われた公演と、つい昨年、歌舞伎座で行われた歌舞伎役者による公演もまた、記憶に刻まれている。そしてまた、時を置かずに今回の再演である。さまざまな偶然が働いているのだろうけれど、野田秀樹自身にとって『贋作・桜の森の満開の下』が重要な作品、いや愛すべき作品に位置づけられているのは間違いない。
二○〇一年の公演について、私は以下のように書いた。
「『贋作・桜の森の満開の下』は、アーティスト耳男が、芸術の源泉となるちからを探索し、発見する物語でもある」
この断言は、今回の東京芸術劇場の公演では、見事に裏切られた。夢の遊眠社の初演、再演では、野田秀樹が耳男を務めた。無邪気で幼い面を残した耳男で、野田の役柄のなかでも出色だといえる。けれども、野田は夢の遊眠社の舞台で、作・演出を兼ねており、知識人としての顔が舞台にほのみえるのはいたしかなたない。
耳男の役は、二○○一年では、堤真一、一七年では中村勘九郎、さらに今回は妻夫木聡が勤めている。アーティスト耳男といってしまえば、十九世紀以降の芸術家が思い出される。しかし、妻夫木はこの耳男役を純粋に飛騨の匠として捉えている。すなわち、アーティスト、芸術家ではなく、匠、アルチザンとしての耳男が鮮明になった。深津絵里は〇一年、十八年と共通して夜長姫を勤めている。天性の素質から、地獄の釜の蓋をあけることにためらいのない高貴な娘を自在に演じている。この演技の進化を受けて、妻夫木はミューズたる女性に翻弄されたあげく、匠としての意地と野望に燃える男を造型した。
さらに今回の公演ではオオアマに天海祐希を配している。大和朝廷の確立者としてのちの天智天皇となるこのクニツクリの設計者を、天海は雄大なスケールで描き出した。特に冒頭の演技は、明らかに宝塚の男役の演技スタイルを意識している。高貴で汚れがなく、しかも品位があり智勇にすぐれた人間を描くのには、様式的な演技スタイルが向いている。天海は一九九五年に宝塚を退団して時間は経過しているが、その身体に埋めこまれた自立する力は今も輝きを失っていない。
今回の公演は、日本の演劇界を代表する俳優が揃って出演している。古田新太のマナコには、人生の裏街道を歩く人間の屈折が色濃い。ハンニャの秋山菜津子、青名人の大倉孝二、赤名人の藤井隆は、人間たちから疎外された鬼たちを個性豊かに演じている。今回の公演では、社会が常に鬼のような存在を作りだして、周縁へと追放していく構造がよく見えた。
さらにエナコの村岡希美、エンマの池田成志、アナマロの銀粉蝶は、ベテランならではの安定感がある。しかもその実力に安閑とせずに、過激なアイデアを追求していく意欲にあふれていた。
早寝姫に門脇麦。夜長姫と対になる何役だが、ついには死に追い込まれていく影の存在の哀しさが伝わってきた。
ヒダの王は野田秀樹。野田は、消え去っていく王、廃王にことさら心を寄せているのだろうか。王としての威厳ばかりではなく、権力者がその座を追われたときの弱さが感じられた。
九月の終わりには、パリのシャイヨー宮国立劇場での公演が待っているという。この作品がいかにフランスの観客に迎えられるのか、愉しみに思えてきた。アーティストとアルチザンの違いは、おそらく日本よりフランスの方が鮮明だろうと思う。職人が仕事を徹底して追求するとき、ついには芸術的な領域へと踊り込んでいく不思議が、フランスでは理解されるような気がしてならない。九月十二日まで。パリは九月二十八日から十月三日まで。帰国して後、大阪、北九州、東京公演と続く。大千穐楽は、十一月二十五日、東京芸術劇場プレイハウス。