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2018年7月3日火曜日

【劇評113】写実を極める。菊之助の『御所五郎蔵』

歌舞伎劇評 平成三〇年六月 江戸川総合文化センター 

音羽屋菊五郎家の嫡子は、江戸世話物を継承すべき立場にある。
美貌と声のよさに恵まれた女方として出発した菊之助は、父七代目菊五郎の相手役を勤めることで、継承の準備を着実に進めてきた。『直侍』の三千歳、『魚屋宗五郎』のおなぎ、『御所五郎蔵』の逢州はその良い例だと思う。『髪結新三』の勝奴も同様。父と同じ舞台を勤め、将来に備える。これは御曹司として生まれた歌舞伎役者の特権であり、厳正な義務でもある。

修業を重ねた末に、三〇代後半に差しかかった菊之助は『直侍』の直侍、『御所五郎蔵』の五郎蔵、『魚屋宗五郎』の宗五郎、『髪結新三』の新三と、世話物の立役の継承に向けて着実に駒を進めてきた。
五郎蔵は平成二七年の四国こんぴら歌舞伎で初役で勤めている。今回の公文協東コースでの五郎蔵は二度目になる。私はこんぴら歌舞伎を観ていないので、今回がはじめて。こんぴらとの比較はできないが、菊之助の五郎蔵は画期的な出来映えであった。世話物の未来を語る上で必見の舞台といえるだろう。

星影土右衛門(彦三郎)の計略によって、女房皐月(梅枝)に縁切りをされる。お主のための二〇〇両のためとはいえ、皐月の心の内を察することが出来ない。手切れときいたら二〇〇両は受け取れない。決裂の末に、皐月の身代わりとなって土右衛門と同道する逢州(米吉)を皐月と過って殺してしまう。

単純に物語をたどると、なかなか難しい芝居だ。五郎蔵は、皐月や逢州の思いを受け止められず、物事を深く考えない早計な男と思えてしまう。このあたりが五郎蔵を演じる難しさであった。

父、菊五郎は、あくまで世話物の様式のなかで、男伊達の美学として観客を説得していく。気が短かろうが、思慮が足りなかろうが、男伊達の粋として見せてしまう。

菊之助は、菊五郎から初役のときに父から教わったのは間違いない。ただ、今回、江戸川総合文化センターで観た五郎蔵は、菊五郎のやり方とは違っている。

皐月の「お前に一生連れ添えば、楽の出来ぬ私の身体、星影さんんいこの身を任せ、生涯楽に暮らすが得」を真に受けて、自らの言葉に酔って、自らを追い詰めていく男の心情を、様式に頼り切らず、写実を追求していく。その緻密な組み立てによって、物語の浅薄さをとりあえず置いて、観客はもっとも大切な妻を失ってしまった後悔。いかに困ったとはいえ、妻を売り物買い物の傾城にしてしまった無念が、ひしひしと伝わってくる。

もちろん、こうした芝居を支えるのは、女方として成長著しい梅枝である。立女形の重いにもかかわらず、きっちりと安定した台詞回しを見せ、肚も深い。
彦三郎の土右衛門も単なる敵役ではなく、得体の知れない妖術遣いでもあると思わせる。
米吉の逢州、美しさは無類だが、この役を切迫した調子で演じすぎてはいないか。主家の思いものでもあり、この場で最も余裕がある逢州でありたい。その優しさ、思いやりに観客が同調できるのが理想である。

梅枝が慌てず騒がず、優雅に晒をつかう『近江のお兼』が着実で公演の冒頭にふさわしい。

『五郎蔵』を存分に愉しんだ後は、狂言からとった菊之助が次郎冠者の『高坏』。
團蔵の大名、高足売りの萬太郎、太郎冠者の橘太郎と。もちろん、回数を重ねれば、タップを引用した難しい脚さばきもこなれてくるのは間違いない。特筆したいのは、『喜撰』といい『文屋』といい、この『高坏』といい巧まざる愛嬌が菊之助にそなわってきたところだ。時分の花はいつか衰える。けれど、そなわってきた愛嬌は、決して失われることはない。六月三十日夜の部所見。