まったく予期しない訃報を聞いて、唖然としている。毎月のように何度か劇場でお目にかかる日々が何十年も続いていたので、これからは扇田昭彦さんの笑顔に会えないのだと思っただけで、こころに空白ができたような気がする。現代演劇評論の第一人者であり、また、生粋のジャーナリスト、そして温厚な紳士が亡くなった。その損失は計り知れない。
私がはじめて扇田さんにお目にかかったのは、劇評を書き始めたころだったからもう、三十五年前のことになる。なにかのご縁で見知って頂き、折に触れて、芝居の後、お話をうかがう機会があった。私は中学生のとき、今はもうない白水社の『新劇』で扇田さんの劇評を読み、演劇評論家になろうと志した。その出自からしても、扇田さんと日常的にお目にかかり、劇場で隣り合わせになれば、ちょっとした雑談をし、ときには宴席でご一緒できる機会を与えられるようになったのは、なによりの喜びだった。
憧れの存在だったし、目標でもあった。私が一九九三年に『4秒の革命』を上梓したとき、出版記念会で扇田さんの祝辞を受けて、お礼の挨拶を申し上げた。
「扇田さんがはじめての著書『開かれた劇場』を出版されたのが三十六歳で、ようやくその年齢に間に合って本を出せたのがうれしいです」
ずいぶん小生意気な物言いだと思うが、扇田さんはその言葉を喜んでくださったように思う。
私が唐組や第七病棟の宴会に出ることも間遠くなり、さまざまな劇場でお目にかかるばかりで、親しくお話しする機会も少なくなっていった。
扇田さんは朝日新聞を定年で退社されてからも、健筆をふるわれていた。こうして着実に、前を向いて書いていくことが、劇評家の仕事なのだと、無言のうちに教えて下さった。
現代演劇のもっとも良心的な部分を発見、世に紹介することに賭けた生涯だったと思う。
思い出深いのは、劇団太陽族が『ここからは遠い国』ではじめて東京公演を行ったとき、公演期間が短く新聞のシステムといえども、上演中に掲載できないにもかかわらず、敢然と劇評を書かれたときのことだ。
有名無名にかかわらずに、よいものはよいと知らせていく。
自らの審美眼に自信を持ち、しかもそれを活字としていく場を持っていなければできる仕事ではない。扇田さんは才能と努力で、その両者を持ち続けた方だった。
最後に公の席でまとまった話をしたのは、扇田さんが長年、非常勤講師を務めた早稲田大学文学部演劇映像コースを退任される記念の鼎談だった。
二〇一〇年だったと記憶する。題目は『新聞劇評をめぐって』である。
歌舞伎がご専門の児玉竜一教授と三人で、劇評についてまとまった話をした。終始、淡々と、控えめに劇評の役割について話して下さった。
その内容は、学会誌の『演劇映像』五十二号に収録されているので、興味のある方は大きな図書館で探されるようにおすすめする。
扇田さんが劇評について考えていらしたことを、考えるきっかけになればと思う。
現代演劇はその最大の擁護者を失ってしまった。残された私たちに課せられた責任を思う。
曇り空が天をおおっていたが、夕方になり青空が見えた。初夏に差しかかっている。
扇田さんは空の向こうにいて、今までと変わらず劇場と舞台を見つめているのだろう。
けれど、もう、客席で扇田さんにお目にかかることはない。
哀しみばかりが胸にあふれてくる。