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2016年8月20日土曜日

【劇評59】森田剛、宮沢りえ『ビニールの城』と人間の皮膜

 現代演劇劇評 平成二十八年八月 シアターコクーン
一九八五年の初演から三十年あまりが過ぎた。石橋蓮司らの第七病棟は、浅草の六区で廃館となっていた常盤座を自らの手で改修し唐十郎の書き下ろし『ビニールの城』を上演した。その鮮烈な舞台は緑魔子、石橋の演技とともに、今も深く記憶に刻まれている。
蜷川幸雄が演出する予定だったこの舞台を引き受けたのは、新宿梁山泊の金守珍である。立ち上がる舞台を観ながら、私はタイムスリップしているような錯覚に陥っていた。少なくとも装置や衣裳など視覚的な表現については、初演の舞台を踏襲しているように思えたのである。沖積舎から八五年に刊行された同名の書籍には、多数、モノクロの写真が収録されている。終演後、確かめてみると今回の舞台が再現に近いことがよくわかった。勿論、時代が違うし、現実の作り手も変わっているから、全体に汚れがなく、きれいにしあがっているのはやむをえぬことなのだろう。また、演技体についても同じ事がいえる。特に宮沢りえの演じるモモは、猫背で前屈みな姿勢、高音を強調した発声も緑魔子をそのまま再現しているかのようだ。
台詞と音楽の関係は、当時の記憶は曖昧になっている。むしろ唐十郎の状況劇場、唐組で耳慣れた音楽の入れ方であるように思える。
こうした再現が今回なされたのは、第七病棟の記念碑的な仕事、そして唐十郎に対する金の尊敬からはじまっているのだろう。また
劇中、蜷川幸雄そっくりの俳優が登場するが、これもまた、この企画を立ち上げつつ亡くなった蜷川に対する尊敬というべきだろう。
当然のことながら、再現のはずが、俳優によって新たな血が次第に注ぎ込まれていく。やがてビニールの城とはなにかが、観客のなかに結実していく。それは水の皮膜であり、人と人を隔てる心の距離でもあった。たたえた水を揺さぶりながら、人は自分の肉体を持てあましつつ生きている。持てあました思いはまた、その皮膜を破ってあふれ出て、愛する人間へと襲いかかる。
森田剛は壊れかけた内面をよく身体化していた。宮沢りえはどうにも何らかの仕掛をはさまなければ人と関われない女の哀切があった。幕切れ近い「私はあなたが嫌いです」に象徴される「嫌い」のリフレインは、鋭さよりは絶望の深さが読み取れた。荒川良々は実直でありつつも裂かれるような心情をほとばしらせた。いずれも唐十郎の劇世界を現在に通じるかたちで甦らせたのである。六平直政と鳥山昌克が唐の演技術の体現者であるのはいうまでもない。俳優たちの演技の微細な肌理を味わうことができた。
演出の外形は初演に習うが、劇が進むうちに俳優は自分の世界を構築していく。関係の微妙な揺れが刻々変化する。そのおもしろさ、ゆかいさに打たれた。演劇とは初日が開けたとたんに俳優のものとなるジャンルなのであった。