長谷部浩ホームページ

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2015年5月25日月曜日

【追悼】扇田昭彦、現代演劇の良心

 まったく予期しない訃報を聞いて、唖然としている。毎月のように何度か劇場でお目にかかる日々が何十年も続いていたので、これからは扇田昭彦さんの笑顔に会えないのだと思っただけで、こころに空白ができたような気がする。現代演劇評論の第一人者であり、また、生粋のジャーナリスト、そして温厚な紳士が亡くなった。その損失は計り知れない。
私がはじめて扇田さんにお目にかかったのは、劇評を書き始めたころだったからもう、三十五年前のことになる。なにかのご縁で見知って頂き、折に触れて、芝居の後、お話をうかがう機会があった。私は中学生のとき、今はもうない白水社の『新劇』で扇田さんの劇評を読み、演劇評論家になろうと志した。その出自からしても、扇田さんと日常的にお目にかかり、劇場で隣り合わせになれば、ちょっとした雑談をし、ときには宴席でご一緒できる機会を与えられるようになったのは、なによりの喜びだった。
憧れの存在だったし、目標でもあった。私が一九九三年に『4秒の革命』を上梓したとき、出版記念会で扇田さんの祝辞を受けて、お礼の挨拶を申し上げた。
「扇田さんがはじめての著書『開かれた劇場』を出版されたのが三十六歳で、ようやくその年齢に間に合って本を出せたのがうれしいです」
ずいぶん小生意気な物言いだと思うが、扇田さんはその言葉を喜んでくださったように思う。
私が唐組や第七病棟の宴会に出ることも間遠くなり、さまざまな劇場でお目にかかるばかりで、親しくお話しする機会も少なくなっていった。
扇田さんは朝日新聞を定年で退社されてからも、健筆をふるわれていた。こうして着実に、前を向いて書いていくことが、劇評家の仕事なのだと、無言のうちに教えて下さった。

現代演劇のもっとも良心的な部分を発見、世に紹介することに賭けた生涯だったと思う。
思い出深いのは、劇団太陽族が『ここからは遠い国』ではじめて東京公演を行ったとき、公演期間が短く新聞のシステムといえども、上演中に掲載できないにもかかわらず、敢然と劇評を書かれたときのことだ。
有名無名にかかわらずに、よいものはよいと知らせていく。
自らの審美眼に自信を持ち、しかもそれを活字としていく場を持っていなければできる仕事ではない。扇田さんは才能と努力で、その両者を持ち続けた方だった。

最後に公の席でまとまった話をしたのは、扇田さんが長年、非常勤講師を務めた早稲田大学文学部演劇映像コースを退任される記念の鼎談だった。
二〇一〇年だったと記憶する。題目は『新聞劇評をめぐって』である。
歌舞伎がご専門の児玉竜一教授と三人で、劇評についてまとまった話をした。終始、淡々と、控えめに劇評の役割について話して下さった。

その内容は、学会誌の『演劇映像』五十二号に収録されているので、興味のある方は大きな図書館で探されるようにおすすめする。
扇田さんが劇評について考えていらしたことを、考えるきっかけになればと思う。

現代演劇はその最大の擁護者を失ってしまった。残された私たちに課せられた責任を思う。

曇り空が天をおおっていたが、夕方になり青空が見えた。初夏に差しかかっている。
扇田さんは空の向こうにいて、今までと変わらず劇場と舞台を見つめているのだろう。
けれど、もう、客席で扇田さんにお目にかかることはない。
哀しみばかりが胸にあふれてくる。

2015年5月23日土曜日

【訃報】演劇評論家の扇田昭彦さんが亡くなった。

今、現代演劇の批評を二本書き終えて、なにげなくTwitterを観たら、演劇評論家の扇田昭彦さんの訃報を知った。私が二十代前半からの長いお付き合いで、ずっと憧れの存在だった。中学生のときに扇田さんの劇評を白水社の『新劇』で読み、私は劇評家を志した。急なことで言葉が出てこない。

【劇評20】大竹しのぶは、重戦車のように舞台を蹂躙していく

 【現代演劇劇評】二〇一五年五月 Bunkamuraシアターコクーン

大竹しのぶのレイディによる『地獄のオルフェウス』(フィリップ・ブリーン演出 広田敦郎訳)は、きわめて特異な演劇体験を私たちにもたらす。テネシー・ウィリアムズが書き付けたこの戯曲には、まさしく地獄がある。ミシシッピ・デルタの閉塞感のなかで、相互監視と暴力にがんじがらめになった人間たちがうごめいている。
なかでレイディは、今ともに住んでいる夫ジェイブ(山本龍二)によって、父とそのかけがえのない果樹園を焼き尽くされた過去を持つ。蛇皮のジャンパーを着て、ギターを抱えた流れ者の男ヴァル(三浦春馬)が現れてから、その魅力に町の女達は熱狂していく。レイディも例外ではない。長い抑圧された生活のためにねじ曲がった性格を、ヴァルの前ではあけすけに解放していく。
大竹しのぶは、まさしく重戦車のように舞台を蹂躙していく。そのエロキューション、その身体、その存在、すべてが女性の深淵を物語っているかのようだ。感情の振幅激しく、見てはならない地獄の釜を開けてしまった人間の歓喜と恐怖が描き出されている。
フィリップ・ブリーンの演出は、この戯曲をアメリカ南部の暗部を描いているわけではない。妖術師の男(チャック・ジョンソン)や道化を効果的に使って、幻想の街を出現させようとする。また、露出狂の女キャロル(水川あさみ)や看護師ポーター(西尾まり)を個性的な存在として際立たせたがゆえに、世界のどの街にもこんな恐怖が待ち構えていると語っていた。さらに、ビューラ(峯村りえ)、ドリー(猫背椿)、エヴァ(吉田久美)、シスター(深谷美歩)による意味を失った囁き声も効果的だ。だれとも知れない噂話が、狭い街を支配していく実体をあぶりだしている。
大竹しのぶの振幅をさらりと受け止める三浦春馬のクールビューティぶりも見事だ。このふたりは、水と油のように混じり合いはしない。この対照があってこそ、悲惨な結末へと転落していく幕切れを避けようのない事態として観客は受け止める。ヴァルがレイディに「あんたを心から愛しているよ」と跪いて語る場面は、腐敗した世界を一瞬輝かせたのだった。三十一日まで。大阪公演は六月六日から十四日まで。
http://www.bunkamura.co.jp/cocoon/lineup/15_orpheus/index.html

【劇評19】人間存在への希望を語る『海の夫人』

 【現代演劇劇評】二〇一五年五月 新国立劇場小劇場

イプセンの『海の夫人』は、私にとって思い出深い戯曲である。T.P.T(シアター・プロジェクト東京)は、一九九四年五月『ヘッダ・ガブラー』で高い窓から流れ込む風の気配を感じ、七月の『エリーダ〜海の夫人』では、海の暴力的な叫び声を聞いた。十月には同一の装置で『ヘッダ』と『エリーダ』を交互上演するイプセン・プロジェクトが、今はもうないベニサン・ピットで上演された。いずれもデヴィッド・ルヴォー演出の舞台である。これまで新劇のレパートリーとしてさしたる関心を持たなかったイプセンを、私は衝撃として受け止めた。
今回、新国立劇場が上演した『海の夫人』(アンネ・ランデ・ペータース、長島確翻訳、宮田慶子演出)を観て、このときに衝撃が甦った。一九九四年の八月にT.P.Tは麻実れい主演で『双頭の鷲』を上演しているから、当時の状況からして麻実がこの上演を観ていることはまず、間違いないだろう。なぜ、こんな話を始めたかというと、今回の宮田演出は、ルヴォー演出に対しての尊敬に充ち満ちているように思える。エリーダ(麻実)とヴァンゲル(村田雄浩)の関係性、またボレッテ(太田緑ロランス)とヒルデ(山崎薫)の亡き母への思い。彫刻家志望のリングストトラン(橋本淳)の浮遊感、アーンホルム(大石継太)の実直、バレステッド(横堀悦夫)の飄逸、見知らぬ男(眞島秀和)の脅威。いずれも、かつての舞台をまざまざと思い出させた。非難しているのではない。こうしたリスペクトに基づいて、丁寧に再度、テキストを読み込み舞台に立体化する作業は、なにより貴重である。日本の演劇界にとって大きな転機となった舞台と演出の方向性が、今もまだ通用することを示して見せた。
ここにあるのは、単純な夫婦関係の修復の物語でもなければ、家族の再編成の美談でもない。人間の身体になかに埋めこまれている自由への憧れ。そして海という自然がいかに美しく、そして恐怖に満ちているかが読み取れる。この絶望的な時代に、人間存在への希望が語られている。着実でしかも誠実な仕事となった。31日まで。http://www.nntt.jac.go.jp/play/performance/150501_003733.html

2015年5月17日日曜日

【閑話休題13】命の音

岩波現代文庫から6月15日に発行される『坂東三津五郎 歌舞伎の愉しみ』『坂東三津五郎 踊りの愉しみ』の校正などを進めてきました。二月の急逝を受けて、三津五郎さんの言葉のひとつひとつが、単行本刊行時とは、また別の意味をもって胸に迫ってきました。たとえば、父九代目の晩年について、舞台を踏む音を「命の音」と呼んだ件りは、重く、悲しく、読むことになりました。

『坂東三津五郎 踊りの愉しみ』の現代文庫版あとがきの一部を引用します。

亡くなった父九代目の生き方を尊敬されていた。本書の二十一頁に、九代目の晩年を振り返ったくだりがある。
「舞台を踏むといっても、日本舞踊、歌舞伎舞踊の場合は所作台を舞台の上に敷いてありますから、よい音が出るようになっています。何気なく聞いていますけれど、踏む音というのは命の音なんですよね。『その人がそこにいる』というしるしです。
うちの父が晩年にだいぶ体が弱ってきていて、ポンと音を出して踏んだとき、感動しました。
踏む音がするというのは、肉体があるということだと実感しました。普段は何気なく聞いていますけれど、そのときに、
『舞台を踏む音というのは、その人が生きていることの証なんだな』
と、そんな感想を持ったことがあります」
書き起こしたとき、父を語っていい言葉だなと思った。この一節が文庫版では、別の意味を持って胸に迫ってきた。
本書から、名人が残した命の音を聴いていただけれれば幸いである。

【閑話休題12】ベトナムのジャングルから

そういえば先々週、東京都現代美術館で「他人の時間」展を観てきました。
アジア、オセアニアの若手作家を中心とした企画展です。
なかでも、南ベトナム解放戦線ゲリラの覆面写真家として活動していた
ヴォー・アン・カーンの作品に感銘を受けました。限界状況に神々しいまでの美しさが宿っています。
あまり目立つところに展示されていないので、注意してごらん下さい。
今回、モノクロのそれほど大きくない二点「軍属移動診療所」「政治学の課外授業」を見ることができます。

vo an khanh
http://www.anothervietnam.com/Vo%20An%20Khanh%20slide%20show/vak1.html

「他人の時間」展
http://www.mot-art-museum.jp/exhibition/timeofothers.html

2015年5月10日日曜日

【閑話休題11】劇評を書くということ

1月のはじめに劇評のサイトを立ち上げて四ヶ月。次第に読者も定着してきたようで、
劇評をあげるとその日のうちに読んでくださる方が、500人はいるようです。
もちろん日をおけば、その興行の関心度によってさらに読者が増えていきます。
ブログをはじめてよかったと思うのは、そのアーカイヴとしての機能です。
ラベルを辿ると一覧が表示されるので、自分が何を考えていたか備忘録にもなるようです。
年のせいか健忘症がひどくなっていますので、かつて何を書いたか、どうも半年前でも記憶が怪しい。
また、書くという行為は、批評の対象だけではなく、書いた当時の自分とその周辺にある空気を封じ込める力があります。
頻繁な更新はできませんが、ぼちぼち書いていきますので、どうぞご愛読くださいますように。

2015年5月9日土曜日

【劇評18】小品ながら芝居の喜びにあふれる『あんまと泥棒』

歌舞伎劇評 平成二十七年五月明治座 昼の部夜の部

平成二十三年から明治座が歌舞伎公演を再開してからもう七回目となった。「五月花形歌舞伎」は、どんな観客でも手を叩き、共感し、一日の楽しみを得るための狂言立てを一貫して貫いている。この明解な姿勢は評価されていいだろうと思う。
昼の部は歌舞伎十八番の内『矢の根』から。まだだれも踏んでいない清浄な舞台に、稚気溢れる曽我の五郎が祭祀劇を演じる。市川右近は心理的な解釈を差し挟まずに、原石のように舞台にいて輝かしい。十郎の笑也も巧まずして柔らか。
石川耕士補綴・演出の『男の花道』は、長谷川一夫による上演を強く意識した舞台。第一幕第一場に大坂道頓堀の芝居前の情景を加えて、加賀屋歌右衛門(猿之助)の舞台を観て、盲目であると見破った蘭方医土生玄碩(中車)の出会いを描く。第二幕第三場は、江戸中村座の舞台で歌右衛門が観客に、玄碩の急を救いに芝居を中断したいと願う場。大坂から江戸へ。文化年間の歌舞伎風俗をたどる趣向だ。「たっぷり」と声をかけたくなるような執拗にだめを押し続ける演技だが、猿之助も中車もそして敵役の田辺を演じる愛之助もこのあたりのさじ加減は、よくわかってのことだろう。観客を泣かせ、同調させることを明白に意識している。ただし、幕切れに使う洋楽はいかがなものか。長谷川の舞台を意識してのことだろうが、緞帳が落ちるときにセンチメンタルな音楽がかぶさると、安い時代劇を観ているような気分に陥る。
加賀屋東蔵に竹三郎。女将お時に秀太郎。
今月の見物は、小品ながら夜の部の『あんまと泥棒』(村上元三作・演出 石川耕士演出)。まず、冒頭の中車によるあんま秀の市のひとり芝居がすぐれている。リアリズムを基礎としつ、様式性を獲得しているのは、この役者の成長を示すものだ。犬に吠えかけられたり、どぶにはまったり。さんざんな夜を活写している。猿之助の泥棒権太郎も実の達者で、中車の攻めの芝居をすべて受けきってニュアンスに富む。朝なりとうとう隠し金は見つからない。それどころか、市のみじめな様子に同情し、なけなしの金をめぐんでやるべきか、行きつ戻りつつある猿之助の身体のこなしがすぐれている。ためこんだ金をめぐる攻防に勝ちぬいた秀の市の高笑いが、朝の長屋に響き渡って爽快だった。
さらに愛之助による『鯉つかみ』(片岡我當監修 水口一夫脚色・演出)。序幕なぜ鯉が釣家に恨みをもっているのか筋を通した部分が、スペクタクルとしてもすぐれて、通し狂言とした利点があった。花見の場、壱太郎の小桜姫がいい。時分の花が咲き誇り、可憐な赤姫をよく演じている。愛之助の四役は、早替りのおもしろさに終わらず、いずれも役の本質をつかんで無理がない。この役者の守備範囲をよく理解した台本と演出が生きる。欲をいえば釣家下館の場、志賀之助と小桜姫の劇中の所作事により幻想性がそなわるとよかった。振付の問題よりは、照明により工夫があってよい。大詰の本水による立廻りは愛之助大車輪。観客をよく巻き込んで楽しく打ち出した。二十六日まで。

2015年5月7日木曜日

【劇評17】舞台面の大きな『め組の喧嘩』

 歌舞伎劇評 平成二十七年五月 歌舞伎座夜の部

歌舞伎座夜の部は、黙阿弥の『慶安太平記 丸橋忠弥』から、『蘭平物狂』と同様、第二幕第二場の「裏手捕物の場」での壮大な立廻りが眼目の芝居である。
第一幕の丸橋忠弥(松緑)は出から酔態を見せる。妻おせつの父、弓師藤四郎(團蔵)が貸した二百両を蕩尽してしまったことを責める。このとき、松緑はある種の狂気のひらめきを見せるが、あくまで生真面目な團蔵と好一対となる。さらに老中松平伊豆守(菊之助)が忠弥に傘を差し掛ける件りとなるが、謎めいたやりとりが噛み合わないところもおもしろくみた。ただし、伊豆守は菊之助の仁もあって、好人物にみえてしまう難がある。より不可解な存在でありたい。
第二幕は史実では「慶安の乱」といわれる幕府転覆計画を、忠弥は舅に打ち明ける。しかしながら、黙阿弥の台本も現在では冗長で緊張感に乏しい。ドラマがないだけに刈り込んでしかるべきと思う。
先にいった立廻りとなってからは松緑の独壇場だ。こうした身体を駆使した役のとき、ひときわ熱量を帯びるのが松緑のよいところだ。
続いて松岡亮作の『蛇柳』。歌舞伎十八番の復活狂言で、高野山の奥の院の霊木として知られた蛇柳を題材とする。高野山の僧定賢(松緑)と能力の阿仏坊(亀三郎)、学僧覚圓(亀寿)が、きりっとした佇まいを見せる。巳之助、尾上右近、種之助、鷹之資。いずれもいい。
彼らが闇のなかから現れた男助太郎(海老蔵)の妻の死を受け止めていくが、いかにも怪しく夜の闇が濃く感じられた。供養がどうしても必要なのだと切迫感が漂う。
それぞれの役がよく書き分けられ、役者によって立体的に造形されているのが、前半のおもしろさにつながった。
ただし、霊木を題材とするには、舞台上にある装置に神秘性が欠けているのが大きな欠点となる。のちに海老蔵は蛇柳の精魂となるが、九団次を身代わりにして、金剛丸照忠となって押戻しを見せるのは観客には親切だが、無用な間が空いてしまうのも確かだ。
夜の部の眼目は、菊五郎劇団総出演に又五郎らを迎えた『め組の喧嘩』。第一場は、島崎楼。菊之助の藤松の威勢。團蔵の亀右衛門の押し。権十郎の長次郎の僻め。三者を受け止める左團次の四ッ車大八の情理。いずれも役者が揃った上に、菊五郎の辰五郎が納めに現れると舞台面が大きくなる。
第二場の八ッ山下の場は、菊五郎、左團次、萬次郎、梅玉によるだんまりが見物。身体のキレよりは、こなしの確かさが肝要なのだとよくわかる。
芝居前の場では、九竜山(又五郎)の大きさが際立っている。さすがに時代物で鍛えただけに、こうした世話物の一役でも肚が太くおもしろく観た。
芝居としては三幕目の辰五郎内が大切だが、菊五郎の辰五郎と女房お仲(時蔵)の気っぷの良さ、情愛の深さに泣かされる。時蔵は近年、こうした江戸の粋を体現するような女を演じて、爽やかな空気を運んでくるようになった。役を生きている証拠だろう。
大詰、立廻りとなってからは、大勢出ている若手の力量を見定める楽しみがある。まだ若年ながら鷹之資の山門の仙太がさまになっている。芝居好きか、そうでないかが、群衆のひとりとしていてもわかってしまうから怖い。

2015年5月5日火曜日

【閑話休題10】初めての電子書籍『菊之助の礼儀』

昨年の11月に新潮社から出版した『菊之助の礼儀』が、電子書籍として、5月8日からダウンロードできるようになりました。
私の本が電子書籍となるのは、実ははじめてで、正直言って実感がありません。
先週大学のゼミで、「どうなるんだろうか」と学生にもらしたら、
「こうですよ」と学部3年の藤本さんが、スクロールする仕草をして見せてくれたのです。
「ああ」と急に実感が湧いてきたのですが、
「30人くらいはそうやって読むんだろうか」とぼやくと、
ドクター三年の知念さんは、「もう少し多いでしょ」と笑いました。
今年になってからですが、自分の本が紙の形にならずに、
いきなり電子書籍となる可能性について考えたりもします。
私は20代からApple2を触っていましたし、今の職場も「先端芸術表現科」ですから、
コンピュータに抵抗はまったくありません。
ですが、電子書籍で岡本綺堂や林芙美子を読むのは、別に日常的なのですが、
どんな感触が湧き上がってくるのだろうと、一冊購入してみることにしました。
念のためお知らせしますと、紙の本は著者の分として10冊もらえるのが普通ですが、
電子版では特に著者はダウンロードできますという連絡はありませんでした。
「あのう」と言い出すのもなんだか恥ずかしいので、
Kindole版を予約してみたのです。
どんな感触だったかは、またお話できると思います。
http://www.shincho-live.jp/ebook/result_detail.php?code=E021411

【閑話休題9】岩波現代文庫版『坂東三津五郎 歌舞伎の愉しみ』『坂東三津五郎 踊りの愉しみ』

ブログの更新が滞っていて、ご心配をお掛けしました。
先月から今月にかけて、岩波書店から出ていた『坂東三津五郎 歌舞伎の愉しみ』『坂東三津五郎 踊りの愉しみ』を、
岩波現代文庫に収録するにあたっての仕事をすすめていました。
ご承知のようにこの二月、十代目坂東三津五郎さんは、五十九歳の若さで急逝されました。
三津五郎さんから話を伺って作った二冊の本は、私にとっても思い出の深い編著です。
すでに重版を重ねてきた二冊ですが、これを機会に、本文や写真などは単行本そのままに、
文庫として長く残るかたちにしたいと思い立ちました。
三月、南座に出演中の巳之助さんを楽屋に訪ねたところ、快諾を得ましたので、
この仕事をすすめることになりました。
また、詳細については、このブログでもお伝えできると思います。
取り急ぎ、ご報告まで。

【劇評16】玉手御前を当り役とした菊之助

歌舞伎劇評 平成二十七年五月 歌舞伎座昼の部

五月の團菊祭は、昼の部『摂州合邦辻』の玉手御前、『天一坊大岡政談』の法澤のちに天一坊、夜の部『丸橋忠弥』の松平伊豆守、『め組の喧嘩』の藤松と、菊之助が四役を勤めた。一日に玉手御前と藤松のような性格の異なる役をひとりの役者が勤めた例を、近年知らない。若女方から立役へと役の幅を広げつつある菊之助の進境がよく見渡せる舞台となった。
なかでも三度目となる『摂州合邦辻』の玉手御前は、この役に格闘し続けた歩みが見えて、菊之助の当り狂言といっていい。平成二十二年五月の大阪松竹座。合邦に十代目三津五郎、俊徳丸に時蔵、浅香姫に梅枝、奴入平に團蔵、おとくに東蔵を配した「合邦庵室」のみのミドリの舞台だが、「十九、二十(つづや、はたち)」の詞章にふさわしく清新な「お辻」がいた。細い針がふるえるようで、花道の出から祈りとともに死へと至るその過程は、不器用ながら若さゆえの振幅として説得力を持った。このあたりの事情については、『菊之助の礼儀』(新潮社)の第十八章に書いたので、ご参照いただきたい。
続く同年十二月、日生劇場では久方ぶりの通しとして出た。配役は合邦が菊五郎、俊徳丸に梅枝、浅香姫に尾上右近、奴入平に松緑、おとくは変わらず東蔵である。が、同じ年にもかかわらず通し狂言として出した甲斐もあって、俊徳丸を見初めて、毒酒を呑ます件りにすぐれ、若さは勿論だけれども、誘惑者としてのしたたかさもそなわって、この女形のスケールの大きさが感じられた舞台だった。
そして今回、満を持しての歌舞伎座大舞台。しかも團菊祭の冒頭である。それだけの内実をそなえているのは勿論だが、なにより芸容が大きくなって、豊潤たる色気がしみわたるようになった。合邦は歌六。俊徳丸の梅枝、浅香姫の右近、おとくの東蔵は変わらず。奴入平は巳之助が抜擢された。
まず、花道の出がいい。人目を忍ぶ夜の道の心細さがしみ通っている。身体を押し殺して、袖模様だけが闇のなかに浮かび上がる。戸口に立っての「かかさん」の呼びかけ、父合邦と母おとくのやりとりを聞きながらのこなしも精密で、心の揺れが見事に身体化されている。
家内に招き入れられたのち「かかさんのお言葉なれど」からのクドキも、ここばかりは恋に身をやつした女の清新さをたもつが、いったん暖簾口へ母に手を引かれて引っ込んでのち、さらに現れて上手屋台にいるはずの俊徳丸の姿を追い求める必死さもすぐれている。
さらに現実の俊徳丸と対面してから、浅香姫への嫉妬。俊徳丸へのしなだれかかり。「恋路の闇に迷うたこの身」から、入平を戸口へ追い出すときの迫真力。ともに竹本をよく聞き、義太夫の詞章を詳細に検討した結果を踏まえての狂乱である。ただ頭の上で狂いをなぞっているのではなく、俊徳丸へのエロティシズムが横溢したために説得力を持った。梅枝、右近も役の理解がすすんで、このような重い時代物をよく運んでいる。
さらに計略を明かし、俊徳丸を本復させるとき「聞いたときのこのうれしさ」で女の身の法悦と歓喜が見えてきた。この色気があるからこそ、幕切れ世界と合一したかのような澄み渡った心境が生きてくる。もう、目が見えない。合掌する手もあわない。「恋路の闇」から「真の闇」へと去って行った女の祈りが浮かび上がる。
菊之助が玉手御前を自らの当り役とした舞台である。
続く『天一坊』だが、前半、序幕第一場「お三住居の場」で、法澤として婆さんを殺し、御落胤と証明する二品と、毒薬石見銀山を手に入れる残酷。
第二場「加太の浦の場」では岩見銀山の毒を用いて、法澤は既に、世話になった師匠を殺してしまっている。久助(亀三郎)に師匠殺しの罪をなすりつけるために、偶然通りかかった伊勢参りの男を殺害する残酷。この二場は悪の魅力にあふれており、もはや菊之助が白塗りの二枚目、貴公子ばかりが似合う役者ではないと明らかになる。
これまで用いられてきた台本では、お三ばあさんと法澤に関係があったとする奈河本があるが、この件りについては今回は採らない。
また、第二場、お伊勢参りの男を殺す件りを採用したために、久助との確執も明らかになって後の場に生きた。
二幕目、常楽院本堂の場では、かなりテキストレジを行って、天忠(團蔵)、赤川大膳(秀調)、藤井左京(右之助)との関わりが速度感をもってまとまっている。
海老蔵はこの伊賀亮を『伽羅先代萩』の仁木弾正を意識して作っているのか、終始、国崩しとしての重みを狙っているようにみえる。法澤から天一坊に変わって白塗りとなってからの菊之助は終始、御落胤を意識して格をたもつ。その格が高いだけにときに世話に砕けての黙阿弥らしい悪党振りが生きてくる。役の向こう側に『河内山』が見えている。いずれはこの役も射程に入れているのだろう。
さて、三幕目「広書院」では、我慢を重ねる菊五郎の大岡越前守と海老蔵の伊賀亮の対決が見どころとなる。
網代問答では、駕籠(乗り物)の格をめぐってのやりとりが眼目だが、海老蔵が台詞を作りすぎており、しかも語尾が流れる難点が目立ち、問答としての緊迫感が崩れてしまっている。
四幕目、大岡越前守が嫡子忠右衛門(萬太郎)妻小沢(時蔵)と死装束をまとって、詮議のために紀州に送った池田大助(松緑)の帰りを待つ。趣向としての面白みはあるが、芝居の実質がないので、より短く刈り込む手もあるのではないか。
大詰は、越前の叡智による上下逆転の場。菊五郎の口跡のよさと位取りのほどがすぐれて胸がすく結末となった。
重みのある時代ものと肩の張らない通し狂言。陽春にふさわしい舞台である。二十六日まで。