歌舞伎劇評 平成三〇年七月 歌舞伎座昼の部
七月歌舞伎座昼の部は、『三國無雙瓢箪久 出世太閤記』。黙阿弥の『大徳寺焼香の場』の復活かと思いきや、今回は昭和五六年の『裏表太閤記』を参照しつつ、新たな台本に仕上げている。織田絋二、石川耕士、川崎哲男、藤間勘十郎の四者による補綴・演出である。
歌舞伎のイロハはもとより、通し狂言の仕組みを知り抜いた補綴で、復活狂言にありがちな生な感触がまったくない。輝かしい美男の海老蔵が、猿と呼ばれる秀吉となる。その意表をついたおもしろさが全編を貫いている。
眼目は、なにより二幕目第三場、松下嘉兵衛住家の場。鶴屋南北の作を活かした部分で、光秀の遺児重次郎(福之助)が実は、秀吉(海老蔵)と女房八重(児太郎)の子であったという奇想を、皐月(雀右衛門)、嘉兵衛(右團次)の手厚い芝居で見せる。
続く大徳寺は、松江、亀鶴、市蔵、権十郎、斎入、家橘、友右衛門、獅童と顔が揃って、坦々とした台詞劇を見せる。宙乗りを喜ぶ現在の観客には、なかなか辛抱がいる件となっている。
今回の舞台は、序幕の夢の場はともかくも、本能寺の場、備中高松場外の場で、獅童と海老蔵に大きく寄りかかっているところにある。もとより歌舞伎は役者のありようを見せる演劇だが、こうした場こそ脇を手厚くしないと芝居に旨味がなくなる。
座組は、幕外の人間には伺い知れない難しさがあるのだろう。古典が安定した出来が保証されているのは、この芝居には、この役者がいると明瞭に了解があることだろうと思う。こうした復活狂言になると、役柄と出演者の関係が曖昧になるきらいがあり、ジグソーパズルの最後の一枚、ピースがぴたりとはまったような喜びを得るのはむずかしい。
ともあれ、座組によって、また、台本の改訂によってさらに面白くなる可能性を秘めた舞台であることは間違いない。
長谷部浩ホームページ
2018年7月16日月曜日
【劇評114】海老蔵が試みた「事件」
歌舞伎劇評 平成三〇年七月 歌舞伎座夜の部
歌舞伎が単なる舞台を超えて事件となることがある。
平成の記憶をたどれば、平成十三年にシアターコクーンで上演された『三人吉三』、同じく平成一三年、歌舞伎座の『野田版 研辰の討たれ』、平成一六年、ニューヨークの『夏祭浪花鑑』が思い浮かぶ。串田和美、野田秀樹という現代演劇の演出家、劇作家が加わることで、歌舞伎を取り巻くさまざまな常識が大きく変わって、変換をとげた。その舞台はスリリングな魅力に充ちていた。
さて、七月大歌舞伎の夜の部は、今井豊茂作 藤間勘十郎演出・振付の『通し狂言 源氏物語』が出た。作品の出来不出来は、とりあえずおいておこう。なにより、歌舞伎俳優とオペラのカウンターテナー、能のシテ方、狂言方、囃子方がひとつの舞台に乗った。
舞台の構成は、歌舞伎俳優だけで演じる部分は、物語の進行を主に受け持つ。その間に、声楽のリサイタルが挟まり、また、六条御息所の件を能楽師たちが演じるのかと、発端、序幕が終わったときは思った。これは、それぞれの職分が、その特徴を活かして、並列する舞台なのかと思ったのだが、私の予想は見事に裏切られた。
本舞台には、能の地謡と囃子方がならんで、「葵の上」を歌舞伎舞台であえて上演しているかのようなしつらえである。そこに花道に面をつけた能役者が、七三のスッポンから迫り上がる。本舞台に向かうと、雀右衛門の六条御息所に触れる。六条が複数いるとのがいけないとか理屈をいうつもりはない。異なった修業を行ってきた身体が、さしたる手立てを欠いたまま、身体が触れあってしまう。そこには、戦慄と驚愕があるだけで、感動はなかった。ありえないことが起こっている衝撃に打ちのめされた。
さらに第二幕以降は、混乱の極みである。
カウンター・テナーのアンソニー・ロス・コンスタンツォとテノールのザッカリー・ワイルダーは、独立した歌唱として成立している。たた、それぞれの楽曲に対して、筋書きに一曲「In Darkness Let Me Dwell」の訳が掲載されているばかりで、源氏物語との関連が読み取れない。ただ、音としてオペラ歌手の歌唱を愉しむばかりで、肝心の舞台にからむ情報が欠けている。これだけで、光と闇のテーゼを読み取れといわれても、私は唖然とするほかない。作り手にオペラ歌手を起用し、この楽曲を選択した必然性を伝えよとまではいわない。けれど、現状の台本・演出では、なぜ、ここで、オペラの楽曲が必要なのかが説得力を持たない。
さらに、海老蔵の宙乗りがある。宙乗りを喜ぶ観客の目には入らないのだろう。この海老蔵を見るための場に、ふたりの能役者が花道を前後する。歌舞伎の常識では、名題下が勤める役割であり、これを能役者が演じるのには違和感がある。いったい何が行われているのか、途方に暮れる心地であった。
今回の上演台本は、『源氏物語』を光り輝く源氏と、その行動に翻弄される女性たちの物語ではない。新たな解釈をほどこしている。それは源氏(海老蔵)と父の桐壺帝との相克であり、また、源氏と実の我が子、春宮のちの冷泉帝、(堀越勸玄)とのいずれは訪れる相克でもある。こうした新しい視点の打ち出しと、海老蔵と勸玄の親子関係をだぶらせるあたりは、歌舞伎ならではの趣向でもあるだろう。
澤邊芳明の映像は、歌舞伎座の大舞台を活かしてダイナミックに見せる。いけばなは華道家元池坊、この二者が舞台を下支えしている。
右大臣に右團次、後の朱雀帝に坂東亀蔵、葵の上に児太郎、大命婦に東蔵、弘徽殿に魁春。今、光源氏を演じてだれもが納得する輝きを海老蔵はそなえている。それぞれの芝居は誠実で良質なだけに、新たな試みが実質をそなえた事件となる日を待ち望む。
事件は、どのような理由であれ、目撃しておく価値があると私は思う。
歌舞伎が単なる舞台を超えて事件となることがある。
平成の記憶をたどれば、平成十三年にシアターコクーンで上演された『三人吉三』、同じく平成一三年、歌舞伎座の『野田版 研辰の討たれ』、平成一六年、ニューヨークの『夏祭浪花鑑』が思い浮かぶ。串田和美、野田秀樹という現代演劇の演出家、劇作家が加わることで、歌舞伎を取り巻くさまざまな常識が大きく変わって、変換をとげた。その舞台はスリリングな魅力に充ちていた。
さて、七月大歌舞伎の夜の部は、今井豊茂作 藤間勘十郎演出・振付の『通し狂言 源氏物語』が出た。作品の出来不出来は、とりあえずおいておこう。なにより、歌舞伎俳優とオペラのカウンターテナー、能のシテ方、狂言方、囃子方がひとつの舞台に乗った。
舞台の構成は、歌舞伎俳優だけで演じる部分は、物語の進行を主に受け持つ。その間に、声楽のリサイタルが挟まり、また、六条御息所の件を能楽師たちが演じるのかと、発端、序幕が終わったときは思った。これは、それぞれの職分が、その特徴を活かして、並列する舞台なのかと思ったのだが、私の予想は見事に裏切られた。
本舞台には、能の地謡と囃子方がならんで、「葵の上」を歌舞伎舞台であえて上演しているかのようなしつらえである。そこに花道に面をつけた能役者が、七三のスッポンから迫り上がる。本舞台に向かうと、雀右衛門の六条御息所に触れる。六条が複数いるとのがいけないとか理屈をいうつもりはない。異なった修業を行ってきた身体が、さしたる手立てを欠いたまま、身体が触れあってしまう。そこには、戦慄と驚愕があるだけで、感動はなかった。ありえないことが起こっている衝撃に打ちのめされた。
さらに第二幕以降は、混乱の極みである。
カウンター・テナーのアンソニー・ロス・コンスタンツォとテノールのザッカリー・ワイルダーは、独立した歌唱として成立している。たた、それぞれの楽曲に対して、筋書きに一曲「In Darkness Let Me Dwell」の訳が掲載されているばかりで、源氏物語との関連が読み取れない。ただ、音としてオペラ歌手の歌唱を愉しむばかりで、肝心の舞台にからむ情報が欠けている。これだけで、光と闇のテーゼを読み取れといわれても、私は唖然とするほかない。作り手にオペラ歌手を起用し、この楽曲を選択した必然性を伝えよとまではいわない。けれど、現状の台本・演出では、なぜ、ここで、オペラの楽曲が必要なのかが説得力を持たない。
さらに、海老蔵の宙乗りがある。宙乗りを喜ぶ観客の目には入らないのだろう。この海老蔵を見るための場に、ふたりの能役者が花道を前後する。歌舞伎の常識では、名題下が勤める役割であり、これを能役者が演じるのには違和感がある。いったい何が行われているのか、途方に暮れる心地であった。
今回の上演台本は、『源氏物語』を光り輝く源氏と、その行動に翻弄される女性たちの物語ではない。新たな解釈をほどこしている。それは源氏(海老蔵)と父の桐壺帝との相克であり、また、源氏と実の我が子、春宮のちの冷泉帝、(堀越勸玄)とのいずれは訪れる相克でもある。こうした新しい視点の打ち出しと、海老蔵と勸玄の親子関係をだぶらせるあたりは、歌舞伎ならではの趣向でもあるだろう。
澤邊芳明の映像は、歌舞伎座の大舞台を活かしてダイナミックに見せる。いけばなは華道家元池坊、この二者が舞台を下支えしている。
右大臣に右團次、後の朱雀帝に坂東亀蔵、葵の上に児太郎、大命婦に東蔵、弘徽殿に魁春。今、光源氏を演じてだれもが納得する輝きを海老蔵はそなえている。それぞれの芝居は誠実で良質なだけに、新たな試みが実質をそなえた事件となる日を待ち望む。
事件は、どのような理由であれ、目撃しておく価値があると私は思う。
2018年7月3日火曜日
【劇評113】写実を極める。菊之助の『御所五郎蔵』
歌舞伎劇評 平成三〇年六月 江戸川総合文化センター
音羽屋菊五郎家の嫡子は、江戸世話物を継承すべき立場にある。
美貌と声のよさに恵まれた女方として出発した菊之助は、父七代目菊五郎の相手役を勤めることで、継承の準備を着実に進めてきた。『直侍』の三千歳、『魚屋宗五郎』のおなぎ、『御所五郎蔵』の逢州はその良い例だと思う。『髪結新三』の勝奴も同様。父と同じ舞台を勤め、将来に備える。これは御曹司として生まれた歌舞伎役者の特権であり、厳正な義務でもある。
修業を重ねた末に、三〇代後半に差しかかった菊之助は『直侍』の直侍、『御所五郎蔵』の五郎蔵、『魚屋宗五郎』の宗五郎、『髪結新三』の新三と、世話物の立役の継承に向けて着実に駒を進めてきた。
五郎蔵は平成二七年の四国こんぴら歌舞伎で初役で勤めている。今回の公文協東コースでの五郎蔵は二度目になる。私はこんぴら歌舞伎を観ていないので、今回がはじめて。こんぴらとの比較はできないが、菊之助の五郎蔵は画期的な出来映えであった。世話物の未来を語る上で必見の舞台といえるだろう。
星影土右衛門(彦三郎)の計略によって、女房皐月(梅枝)に縁切りをされる。お主のための二〇〇両のためとはいえ、皐月の心の内を察することが出来ない。手切れときいたら二〇〇両は受け取れない。決裂の末に、皐月の身代わりとなって土右衛門と同道する逢州(米吉)を皐月と過って殺してしまう。
単純に物語をたどると、なかなか難しい芝居だ。五郎蔵は、皐月や逢州の思いを受け止められず、物事を深く考えない早計な男と思えてしまう。このあたりが五郎蔵を演じる難しさであった。
父、菊五郎は、あくまで世話物の様式のなかで、男伊達の美学として観客を説得していく。気が短かろうが、思慮が足りなかろうが、男伊達の粋として見せてしまう。
菊之助は、菊五郎から初役のときに父から教わったのは間違いない。ただ、今回、江戸川総合文化センターで観た五郎蔵は、菊五郎のやり方とは違っている。
皐月の「お前に一生連れ添えば、楽の出来ぬ私の身体、星影さんんいこの身を任せ、生涯楽に暮らすが得」を真に受けて、自らの言葉に酔って、自らを追い詰めていく男の心情を、様式に頼り切らず、写実を追求していく。その緻密な組み立てによって、物語の浅薄さをとりあえず置いて、観客はもっとも大切な妻を失ってしまった後悔。いかに困ったとはいえ、妻を売り物買い物の傾城にしてしまった無念が、ひしひしと伝わってくる。
もちろん、こうした芝居を支えるのは、女方として成長著しい梅枝である。立女形の重いにもかかわらず、きっちりと安定した台詞回しを見せ、肚も深い。
彦三郎の土右衛門も単なる敵役ではなく、得体の知れない妖術遣いでもあると思わせる。
米吉の逢州、美しさは無類だが、この役を切迫した調子で演じすぎてはいないか。主家の思いものでもあり、この場で最も余裕がある逢州でありたい。その優しさ、思いやりに観客が同調できるのが理想である。
梅枝が慌てず騒がず、優雅に晒をつかう『近江のお兼』が着実で公演の冒頭にふさわしい。
『五郎蔵』を存分に愉しんだ後は、狂言からとった菊之助が次郎冠者の『高坏』。
團蔵の大名、高足売りの萬太郎、太郎冠者の橘太郎と。もちろん、回数を重ねれば、タップを引用した難しい脚さばきもこなれてくるのは間違いない。特筆したいのは、『喜撰』といい『文屋』といい、この『高坏』といい巧まざる愛嬌が菊之助にそなわってきたところだ。時分の花はいつか衰える。けれど、そなわってきた愛嬌は、決して失われることはない。六月三十日夜の部所見。
音羽屋菊五郎家の嫡子は、江戸世話物を継承すべき立場にある。
美貌と声のよさに恵まれた女方として出発した菊之助は、父七代目菊五郎の相手役を勤めることで、継承の準備を着実に進めてきた。『直侍』の三千歳、『魚屋宗五郎』のおなぎ、『御所五郎蔵』の逢州はその良い例だと思う。『髪結新三』の勝奴も同様。父と同じ舞台を勤め、将来に備える。これは御曹司として生まれた歌舞伎役者の特権であり、厳正な義務でもある。
修業を重ねた末に、三〇代後半に差しかかった菊之助は『直侍』の直侍、『御所五郎蔵』の五郎蔵、『魚屋宗五郎』の宗五郎、『髪結新三』の新三と、世話物の立役の継承に向けて着実に駒を進めてきた。
五郎蔵は平成二七年の四国こんぴら歌舞伎で初役で勤めている。今回の公文協東コースでの五郎蔵は二度目になる。私はこんぴら歌舞伎を観ていないので、今回がはじめて。こんぴらとの比較はできないが、菊之助の五郎蔵は画期的な出来映えであった。世話物の未来を語る上で必見の舞台といえるだろう。
星影土右衛門(彦三郎)の計略によって、女房皐月(梅枝)に縁切りをされる。お主のための二〇〇両のためとはいえ、皐月の心の内を察することが出来ない。手切れときいたら二〇〇両は受け取れない。決裂の末に、皐月の身代わりとなって土右衛門と同道する逢州(米吉)を皐月と過って殺してしまう。
単純に物語をたどると、なかなか難しい芝居だ。五郎蔵は、皐月や逢州の思いを受け止められず、物事を深く考えない早計な男と思えてしまう。このあたりが五郎蔵を演じる難しさであった。
父、菊五郎は、あくまで世話物の様式のなかで、男伊達の美学として観客を説得していく。気が短かろうが、思慮が足りなかろうが、男伊達の粋として見せてしまう。
菊之助は、菊五郎から初役のときに父から教わったのは間違いない。ただ、今回、江戸川総合文化センターで観た五郎蔵は、菊五郎のやり方とは違っている。
皐月の「お前に一生連れ添えば、楽の出来ぬ私の身体、星影さんんいこの身を任せ、生涯楽に暮らすが得」を真に受けて、自らの言葉に酔って、自らを追い詰めていく男の心情を、様式に頼り切らず、写実を追求していく。その緻密な組み立てによって、物語の浅薄さをとりあえず置いて、観客はもっとも大切な妻を失ってしまった後悔。いかに困ったとはいえ、妻を売り物買い物の傾城にしてしまった無念が、ひしひしと伝わってくる。
もちろん、こうした芝居を支えるのは、女方として成長著しい梅枝である。立女形の重いにもかかわらず、きっちりと安定した台詞回しを見せ、肚も深い。
彦三郎の土右衛門も単なる敵役ではなく、得体の知れない妖術遣いでもあると思わせる。
米吉の逢州、美しさは無類だが、この役を切迫した調子で演じすぎてはいないか。主家の思いものでもあり、この場で最も余裕がある逢州でありたい。その優しさ、思いやりに観客が同調できるのが理想である。
梅枝が慌てず騒がず、優雅に晒をつかう『近江のお兼』が着実で公演の冒頭にふさわしい。
『五郎蔵』を存分に愉しんだ後は、狂言からとった菊之助が次郎冠者の『高坏』。
團蔵の大名、高足売りの萬太郎、太郎冠者の橘太郎と。もちろん、回数を重ねれば、タップを引用した難しい脚さばきもこなれてくるのは間違いない。特筆したいのは、『喜撰』といい『文屋』といい、この『高坏』といい巧まざる愛嬌が菊之助にそなわってきたところだ。時分の花はいつか衰える。けれど、そなわってきた愛嬌は、決して失われることはない。六月三十日夜の部所見。