長谷部浩ホームページ

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2019年4月5日金曜日

【劇評137】仁左衛門の充実。盛綱に続き実盛。

歌舞伎劇評 平成三一年四月 歌舞伎座

四月大歌舞伎夜の部。三月の『盛綱陣屋』に続いて仁左衛門が『実盛物語』と肚にこたえる演目を出す。一世一代とはうたわないまでも、これ限りとの強い思いと気迫が伝わってくる舞台が続く。実盛は熊谷と比べると、太郎吉を馬に乗せる件りなど、どこか明るさがあり仁左衛門ならではの空気感を味到できた。
歌六の瀬尾が、出色の出来。まさしく円熟期に差しかかった役者の自在さがある。出産前の御台所に「腹を割け」というのだから、瀬尾役のなかでもとりわけ憎々しいが、やがて孫に功を立てさせるために死んでいく。この理不尽なモドリを理屈ではなく運んでいくのが歌舞伎役者の芸というものなのだろう。
孝太郎の小万に、あくまで幽界にいる人間の怖さがある。子役のなかでは難役といわれる太郎吉を寺嶋眞秀がさらりと勤めている。
続いて猿之助の『黒塚』。亀治郎から改名した平成二四年七月の新橋演舞場から回を重ねているが、演出を練り上げ、家の芸を当代猿之助ならではの芝居としている。前段の荘重な運びから、月光のもとの軽やかで浮き立つこころのある踊り。そして閨の内が明かされてからの魔性まで。観客をあきさせず、あゝ、楽しかったとお土産を持たせるのは、沢潟屋の家風だろう。太郎吾に猿弥。身体の切れ味を見せ、猿之助と拮抗する気概がある。
祈りがこれほど似合う役者はいない。錦之助の阿闇梨。種之助、鷹之資の山伏も、端正かつ楷書の出来であった。
続いて『二人夕霧』。鴈治郎の伊左衛門、孝太郎の後の夕霧、魁春の先の夕霧。傾城買うの指南を、遊び尽くした若旦那が生業とする趣向。後の夕霧は、傾城とのままの衣裳で飯炊きをするおもしろさ。指南の弟子を、彌十郎を先頭に若い萬太郎、千之助が盛り上げるのもご趣向だろう。
幕切れは、伊左衛門、ふたりの夕霧に東蔵のおさきが加わって、四人の手踊りとなる。東蔵は、鍛え上げた踊りの地芸で、なんということもない振りでも一頭地を抜く。だんまりも同様だが、巧さではなく、味を観るのが歌舞伎の醍醐味ともいえるだろう。いかにも生真面目な三つ物やの團蔵もおかしい。二十六日まで。

【劇評136】平成歌舞伎の残映。菊五郎、吉右衛門の『鈴ヶ森』

歌舞伎劇評 平成三一年四月 歌舞伎座

平成の掉尾と銘打たれた四月大歌舞伎。藤十郎、菊五郎、吉右衛門、仁左衛門ら当代を代表する大立者が揃った。
平成から令和へ。格別の感慨があるわけではないが、三〇年余りを過ごしたピリオドではある。
私自身が、ようやく大人の目で見た時期と重なる。多くの観客にとっても同様だろうから、今月の舞台を観るにつけても、過去の舞台が急にまざまざと甦ってくるに違いない。
朝の序幕は『平成代名残絵巻』(へいせいみよなごりのえまき)と題した狂言。今井豊茂作、藤間勘十郎演出・振付である。驕れる平家の全盛を前提とした舞台だが、安倍晋三首相の長期政権がこの国を蹂躙している現実に対して、歌舞伎ならではの諷刺を試みていると考えれば、なかなか侮れない。復帰を果たした福助の常盤御前を中心に、歌舞伎のおなじみの登場人物を巧みにつないでいる。『熊谷陣屋』の弥陀六の若き日と設定した平宗清を彌十郎が勤める。落ち着きがあり、やがて弥陀六となるべき人物と思うと興味深い。役の格に加えて洒脱なのが、彌十郎の持ち味だろう。
さらに巳之助の平知盛も、「大物浦」へとつながると思えば、これもまた知盛の今を読み込みたくなる。あるいは巳之助がいずれ『船弁慶』の知盛を踊るための布石と考えてもよい。巳之助には、本格をめざす志があると見た。
児太郎の遮那王は若衆ぶりが際立つ。平成歌舞伎を見続けてきた観客への贈与ともなっている。
次は『新版歌祭文』。おなじみの「野崎村」の前に、約四〇年振りに「座摩社」が出た。油屋の丁稚久松(錦之助)が、手合いの小助(又五郎)のこざかしい計略にかかって、その実家、野崎村の久作のもとに返された理由が示される。ただし、理由がわかったからといって、格別の感慨があるわけもない。久松は気の毒ではあるが、観客の同情を買いにくい人物なのだとよくわかった。
結果として「座摩社」は、又五郎の円熟した技芸を愉しむ幕となった。伏線を敷くのではなく、滑稽味を愉しむ一幕で、なくてはならぬものではないから、四〇年振りになるのだろう。
門之助の佐四郎は若旦那のこなしが身についている。同じく敵役の山伏妙斎を松之助が怪演。
続いて時蔵のお光、雀右衛門のお染、錦之助の久松、歌六の久作が、現有の歌舞伎役者のなかでは、よりすぐりの陣容で、時代の移り変わりを思う。直感的には、時蔵と雀右衛門の役は逆でもよいのではと思うが、実際、芝居を見終えると、これでよかったと説得される。時蔵は、初々しい冒頭から、お染が現れると一転して悋気に転じる。久作をはさんでの、お光、お染、久松のちぐはぐなやりとりがおかしく、こうした件りは、相応の年齢と地芸があって、はじめておもしろく観ることができる。
比較するわけではないが、平成一七年二月歌舞伎座、先代芝翫のお光、富十郎の久作、藤十郎(当時・鴈治郎)の久松、先代雀右衛門のお染と揃った舞台は、まさしく昭和歌舞伎の残照というべきであった。この配役のなかで存命なのは、米寿を迎えた藤十郎だけだという事実に胸を突かれた。
雀右衛門は先代写しで結構な出来。なかでも「いやじゃ、いやじゃ」と大家のお嬢さんのわがままさを嫌味なく出すあたりがこの人の芸風だろう。なるほどこの芝居は、丸本物なのだと思い知らされる。
歌六の久作は、昔語りとなって、しみじみとした滋味があって、若い二人はこの切々たる訴えにそむくことはできない。囁き声も巧みで、声を張っても嫌味がない。
愛大夫も渾身の語りでこの場を引き締める。
時蔵のお光は「嬉しかったのはたった半年」からの述懐に生彩がある。
秀太郎のお常はさすがに年功で、戸口からの声をかけるきっかけが絶妙。上方の御寮さんの気位の高さがある。
幕切れも切ない。「おさらば」の言葉が互いに交わされるが、お光は、もう二度と久作には会えないと知っている。二度とは会えぬ。いや、相まみえない人々の別離、人生の残酷がある。
時蔵のお光の右の手から数珠が落ちる。ホウホケキョと鳥が鳴く、久作は数珠を拾ってお光に持たせてやり、手を重ねてしばし話さない。目と目があう。「ととさん」と言いかけて、お光は膝を折る。練り上げられた型の偉大さを思う。
次の幕は舞踊で、藤十郎の米寿を言祝ぐ『寿栄藤末廣』。藤十郎の一家、一門が揃うが、鴈治郎の鶴と対になって、猿之助が亀となる趣向。年齢を思うと藤十郎は達者なもので、昭和歌舞伎を知り尽くした人ならではの独特がある。
昼の部は、菊五郎の白井権八、吉右衛門の幡随院長兵衛による『御存 鈴ヶ森』。菊五郎に瑞々しい若衆ぶり、吉右衛門の貫目。もう、二度とは見られない顔合わせの演目で、時間の都合がつくならば、一幕見でも観ておくことを強くおすすめしたい。こうした規範となるべき技芸は、継承は言葉でいうほど容易ではなく、いずれゆっくりと崩れ去っていくのだろうと思わせる。
「斬っておしまいなさい」と長兵衛、権八の身体がすっと動く。この息と息を覚えておきたい。二十六日まで。