演劇界12月号のために、近年恒例となった「極私的歌舞伎大賞」の原稿を書く。
400字のコラムだけれど、「極私的」とあるので、自由な選出が出来て楽しい。
何を挙げたかは本誌を見ていただきたいが、奇をてらいたいと思っても、
なかなかそうもいかないのが古典芸能の宿命かもしれない。
「伝承と創造」という切り口から、二本、いや三本の芝居を挙げた。
本来は一本かひとりの俳優で、しぼり切れなければ三本までという依頼だから、
はてさて、潔くない原稿になってしまったと報告しておきます。
長谷部浩ホームページ
2015年11月27日金曜日
2015年11月26日木曜日
【閑話休題26】劇場のロビー
都内にはたくさんの劇場があるけれども、こじんまりとしていて気に入っているのは、三軒茶屋にあるシアタートラムのロビーだ。
バーカウンターがあったはずだが、飲食物の提供はない場合が多いけれど、
芝居が終わった後に、ざわざわとした雰囲気のなかで、偶然会った友人と少し話すのは楽しい。
これも方形ではなく、ちょっと変わった形に設計されているからだろうと思う。
昨日は演出家の藤田俊太郎さんと偶然会って、少し話した。
今は、もう取り壊されてしまったけれど、デヴィッド・ルヴォーとTPTが拠点としていたベニサン・ピットのロビーも忘れがたい。
古い染色工場を改造しただけで、豪華な絨毯とは無縁だったけれど、当時は、ここがもっとも光り輝いていた。
ある時期に不思議なオーラをまとった空間も、いつかは取り壊されて人間の記憶のなかにだけ住まっている。
劇場の雑踏には、そんな不思議な力がある。
バーカウンターがあったはずだが、飲食物の提供はない場合が多いけれど、
芝居が終わった後に、ざわざわとした雰囲気のなかで、偶然会った友人と少し話すのは楽しい。
これも方形ではなく、ちょっと変わった形に設計されているからだろうと思う。
昨日は演出家の藤田俊太郎さんと偶然会って、少し話した。
今は、もう取り壊されてしまったけれど、デヴィッド・ルヴォーとTPTが拠点としていたベニサン・ピットのロビーも忘れがたい。
古い染色工場を改造しただけで、豪華な絨毯とは無縁だったけれど、当時は、ここがもっとも光り輝いていた。
ある時期に不思議なオーラをまとった空間も、いつかは取り壊されて人間の記憶のなかにだけ住まっている。
劇場の雑踏には、そんな不思議な力がある。
2015年11月13日金曜日
【劇評30】海老蔵の急展開
歌舞伎劇評 平成二十七年十一月 歌舞伎座
顔見世の季節となった。この公演の幕が開くと、年の瀬が迫っていると感じる。秋も深まり、朝夕の冷え込みが厳しくなった。
今月は、十一世市川團十郎五十年祭で、ゆかりの演目が昼夜に並ぶ。なかでも父十二世を亡くしてから、市川宗家を背負って立つ海老蔵がその仁にあった演目で個性ある芝居を見せている。収獲の秋となった。
昼の部の『若き日の信長』では、海老蔵が信長を勤める。今回とりわけ優れていたのは、子役たちとのやりとりである。柿をもいで食べる様子と、無断で採ってはいけないと子供に教えられる件り、そして遠くから聞こえてくる読経の声。亡き父を慕いながらも、作り事の法要になじめぬ信長の切ない心情がありありと伝わってきた。
『毛谷村』の六助のように「善人」を演じるとなぜか破綻してきた海老蔵だが、ここでは「うつけ者」を演じて心の襞を覗かせる。
左團次の平手中務は死をもって信長を諫める。ここで信長はもう一人の父を失ってしまった。大佛次郎の巧みな作劇もあって、海老蔵は悲嘆に暮れる人間の絶望、感情の振幅を見せて観客を引き込む。
孝太郎の娘弥生が可憐。市蔵の林佐渡守がいかにも憎々しい。左團次が忠臣の誠実を見せる。人物配置がよく、それぞれが個性を生かし充実の舞台となった。
夜の部の『河内山』がまた、いい。松江邸広間の場からの上演だが、書院に登場してから、いかにも人の悪い河内山宗俊が生き生きと大名家の人々を翻弄する。十五万石の大名が、宗俊の寛永寺の使僧になりすました「演技」に翻弄される。柔らかに真綿で首をしめるように、出雲守を追い込んでいく過程を表情豊かに見せた。
もちろん海老蔵が引き立つのは、まず相手役となる梅玉の出雲守があってのことだ。その癇性、やり込められた悔しさ。いずれも行き届いた性根が伝わってくる。左團次の家老高木の思慮深さ。市蔵の北村大膳が家老とは対照的に役をつくって精彩がある。
昼の部は、染五郎の『実盛物語』と菊五郎の『御所五郎蔵』。五郎蔵は江戸の男の短慮と意気地が描出される名品。
夜の部は、海老蔵長男、堀越勸玄の初お目見得。仁左衛門の『仙石屋敷』。幸四郎、染五郎、松緑の『勧進帳』。歌舞伎にはなじみにくい重厚な台詞劇を成立させるのは仁左衛門の技芸の充実があってのことだ。二十五日まで。
顔見世の季節となった。この公演の幕が開くと、年の瀬が迫っていると感じる。秋も深まり、朝夕の冷え込みが厳しくなった。
今月は、十一世市川團十郎五十年祭で、ゆかりの演目が昼夜に並ぶ。なかでも父十二世を亡くしてから、市川宗家を背負って立つ海老蔵がその仁にあった演目で個性ある芝居を見せている。収獲の秋となった。
昼の部の『若き日の信長』では、海老蔵が信長を勤める。今回とりわけ優れていたのは、子役たちとのやりとりである。柿をもいで食べる様子と、無断で採ってはいけないと子供に教えられる件り、そして遠くから聞こえてくる読経の声。亡き父を慕いながらも、作り事の法要になじめぬ信長の切ない心情がありありと伝わってきた。
『毛谷村』の六助のように「善人」を演じるとなぜか破綻してきた海老蔵だが、ここでは「うつけ者」を演じて心の襞を覗かせる。
左團次の平手中務は死をもって信長を諫める。ここで信長はもう一人の父を失ってしまった。大佛次郎の巧みな作劇もあって、海老蔵は悲嘆に暮れる人間の絶望、感情の振幅を見せて観客を引き込む。
孝太郎の娘弥生が可憐。市蔵の林佐渡守がいかにも憎々しい。左團次が忠臣の誠実を見せる。人物配置がよく、それぞれが個性を生かし充実の舞台となった。
夜の部の『河内山』がまた、いい。松江邸広間の場からの上演だが、書院に登場してから、いかにも人の悪い河内山宗俊が生き生きと大名家の人々を翻弄する。十五万石の大名が、宗俊の寛永寺の使僧になりすました「演技」に翻弄される。柔らかに真綿で首をしめるように、出雲守を追い込んでいく過程を表情豊かに見せた。
もちろん海老蔵が引き立つのは、まず相手役となる梅玉の出雲守があってのことだ。その癇性、やり込められた悔しさ。いずれも行き届いた性根が伝わってくる。左團次の家老高木の思慮深さ。市蔵の北村大膳が家老とは対照的に役をつくって精彩がある。
昼の部は、染五郎の『実盛物語』と菊五郎の『御所五郎蔵』。五郎蔵は江戸の男の短慮と意気地が描出される名品。
夜の部は、海老蔵長男、堀越勸玄の初お目見得。仁左衛門の『仙石屋敷』。幸四郎、染五郎、松緑の『勧進帳』。歌舞伎にはなじみにくい重厚な台詞劇を成立させるのは仁左衛門の技芸の充実があってのことだ。二十五日まで。