歌舞伎劇評 平成元年十一月 歌舞伎座昼の部
菊五郎の『髪結新三』は、これまでも当代一だと思ってきた。
江戸を舞台とした世話物の上演が、時代の変化とともにむずかしくなっているのはいうまでもない。初鰹の呼び声や庭先の鉢植えや風呂屋から浴衣姿で帰る五月の風情を楽しむ余裕が失われつつある。となれば、江戸風俗の描写を超えて、物語として普遍性を持つ世話物が、頻繁に上演されるようになる。
『髪結新三』は、単なる市井の小悪党の話ではない。売り出しの男、新三が、老いに差しかかった親分をやりこめる。怖い物なしの新三も家主にはかなわない。強欲きわまりない家主も、空き巣にやられてへこんでしまう。いったんは、よい間の振りをした男が、すぐに他人にとっちめられるはめになる。その連続に観客は爽快感を感じる物語となっている。
菊五郎の新三を観てきたが、なんといっても粋でいなせな役者ぶりのよさで、この芝居を引っ張ってきた。もちろん、六代目菊五郎から、二代目松緑が、そして菊五郎が受け継いだ菊五郎劇団のアンサンブルに支えられてのことであった。
今回の上演のすぐれた点は、この二点と深く関わっている。
ひとつは菊五郎の新三が張りつめて他人を圧倒するのではなく、ひたすら自在に舞台上にあるところが、観客の心を遊ばせている。成り上がろうとする剥き出しの野心にあふれた新三ではない。ときには、勝奴(権十郎)にやりこめられ、家主(左團次)にはいいようにあしらわれ、ひとのよさを見せて恥じない。
芯に立つ役者として舞台を圧することにこだわらず、舞台を生きる役者のひとりとなって遊ぶ境地に至った。
第二に、菊五郎劇団は転機にあるが、伝承が確かであるとよくわかった。
たとえば、勝奴も八十助(故・十代目三津五郎)から松緑、菊之助を経て、権十郎に代わった。新三の次を狙うぎらぎらとした野心は強調しない。菊五郎を尊敬してやまない本心があふれでて、実にほどのよい勝奴となった。
忠七の時蔵、家主の左團次は役柄の核心を深く捉えて、なお、自分自身の工夫をごく自然に生かしている。弥太五郎源七の團蔵、善八の秀調、おかくの萬次郎が円熟の極み。鰹売りも菊十郎から橘太郎が見事に受け継いだ。
梅枝もしどころに乏しい役だが、お常の魁春に縁談を知らされて、じれるあたりが芝居になっている。劇団のDNAの空気をすって修業を重ねてきた結果だろう。
さらに未来への伝承を感じるのは、新三を迎えに来る丁稚の丑之助である。舞台を重ねるごとに、しっかりしてきている。舞台に立つことで、無意識のうちに菊五郎劇団の「風」が身体にしみこんでいくのだろう。必見の舞台。二十五日まで。