長谷部浩ホームページ

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2020年2月23日日曜日

【お知らせ】長谷部浩の劇評について

遅ればせながら、12月歌舞伎座の劇評をブログにアップいたします。
この時期から、長谷部浩の劇評は、noteに移行しました。
恐縮ですが、有料です。

このnoteからは、上演から二ヶ月以上、経過してから劇評に限って、こちらに転載する予定です。
ただ、時期もしくは、転載については、お約束ではないことをご理解下さい。

私としては、SNSでの活動は、noteに移していきたいと考えています。

こちらのサイトでは、新年より五つ星が満点の★をつける試みを始めています。
もし、御興味があれば、こちらのサイトをご覧になって下さるようにお願いします。

https://note.com/hasebehiroshi

2020年2月22日土曜日

【劇評153】自己撞着を怖れぬ玉三郎の覚悟。

十二月大歌舞伎の夜の部もまた、梅枝の活躍に目を見張った。

『神霊矢口渡』は、女方のためにある狂言である。
一夜の宿を求める義峯(坂東亀蔵)への思慕から、過激な行動へと駆り立てられる娘の話である。ついには父頓兵衛(松緑)にはばまれようとも、義峯を逃がそうとする。一目惚れにはじまり、みずからの死を厭わないところまで、一気に走り抜ける。若さゆえの疾走感、一途なありようを梅枝は、よくつかまえている。

 梅枝は同世代のなかでも、理知的な俳優といえるだろう。すべてに破綻がない。所作も台詞回しも、「あれっ」と違和感を感じさせない。役の性根をよく掴んでいる。
 世話物も新作もよいが、この『神霊矢口渡』では、時代物を大きく捉えている。義太夫の詞章をよく吟味して、舞台でもきちんと台詞を聴いているのがよくわかる。
 隙がないと言ってしまうと、せせこましい演技に思えるが、そうではない。恋の狂いにも緻密な表現力が必要とされる。「父さん、おまえはなあ」と頓兵衛に訴えかけるときの絶望に深さがあった。

 松緑の頓兵衛もなかなかの出来。まず、容易には肚を割らない。謎を秘めた人物として舞台にあって、説明的にならない。
 現代的な父娘関係などは、一切持ち込まず、ただただ、自分の信念に生きる男であり続ける。花道のひっこみにも力感があり、途中、息を整えるあたりも、執念の人として頓兵衛をよく捕まえている。

『神霊矢口渡』が終わると、玉三郎の新作『本朝白雪姫譚話』(竹柴潤一脚本、玉三郎補綴・衣裳考証)が出た。
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 序幕から打ち上げるまで、休憩をのぞいても二時間を費やす。この物語、台詞の密度で、二時間をもたせるのはむずかしい。衣裳考証とあるからは、俳優の美意識をみせるのも狙いの一つであろう。なるほど、素晴らしい衣裳に打たれた。玉三郎が関わるかぎり、この水準の高さは、保証されている。

 けれども、このグリム童話の「白雪姫」は、女性の美しくありたい願望を扱っている。これは、俳優がいつまでも若く、美しくありたい願いと重なる。
 野分の前(児太郎)が、鏡に向かって、一番の美女はだれかと問いかけるが、鏡のなかの鏡の精(梅枝)の答えは、野分の前ではない。白雪姫(玉三郎)と答え続ける。
 
 ここで問われているのは、相対的な美しさなのだろうか。それとも、絶対的な美しさなのだろうか。
 美を表現の手段とする女方が扱うには、自己撞着が起こってしまう。取りようによっては、自分自身の美しさは永遠であり、だれも凌駕できない。そんな信念がこの狂言を貫いているともとられかねない。

『本朝白雪姫譚話』は、かなり危険な領域に踏み込んでいる。批判をはねかえすだけの覚悟があって、作られた作品なのだろうと思う。
 それだけに、短編や掌編を思わせる舞踊劇に仕立てたほうが小気味よかったのではと思った。

【劇評152】梅枝の十二月。

歌舞伎劇評 令和元年十一月 歌舞伎座


歌舞伎にとって、むずかしい局面が続いている。

 歌舞伎座は、基本的に「ミドリ」の興行を続けている。つまり、通常、昼の部と夜の部にそれぞれ三本から四本の狂言を並べている。当然のことながら、すべてが最高水準の舞台であるはずもない。

 こうした現実は、急に起こったわけではない。「ミドリ」の宿命かも知れない。けれども、以前、新聞劇評を担当していたとき、すべての演目について触れなければいけないのは、正直言って苦痛だった。

 このことは、はっきり書いていた方がよいと思う。恐らく、観客の少なくない方が、同意されると思う。

 私の父の世代は、意欲がそそられない幕があると、食堂で麦酒を飲んでいたりした。この頃は、万事がせせこましくなっているのか、こうした自由人が、観客に見当たらなくなっているのも残念である。

十二月の歌舞伎座では、まず、梅枝の奮闘を特筆したい。

 昼の部は、『阿古屋』。梅枝にとって二度目の挑戦になるが、琴、三味線、胡弓、いずれの演奏も安定している。 平成三〇年の十二月の初役とは、別の境地をめざしている。
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 ご承知のように、重忠(彦三郎)は、詮議のために、阿古屋に演奏を求めている。それぞれの楽器のあいだにある阿古屋の語りが重要なのは勿論だが、まず、演奏の充実が必須である。梅枝は、難曲に向かっているのではない。重忠へ答えを差し出している。さらに、景清に対して、思いを通わせている。

 「景清の行方は」と語るときに、遠い場所へイメージが飛んでいる。三重に身を横たえた姿は、まるで瀕死の孔雀のようでもある。厚い懐紙の捌きも重くならず、小道具ではなく、たしなみが通っている。

 景清との別れが、格子先の一瞥、はかない逢瀬だとわかって、胡弓の演奏に入るとき、なお切なさが通う。音程がもとより不安定な楽器である。そのために岩永(九團次)のチャリがあるが、その助けがいらないほどである。技巧を見せるのではない。

 音楽は、だれのためにあるのか。
 もとより詮議のためではない。
 
 他人を慰めるためにあるのか。
 それもあろう。

 梅枝の阿古屋は、今、現在の境遇を、深い井戸としている。分かりつつ、その深いところへ、没入していく心地がした。
 一歩進んだ境地にあるとよくわかった。

なお、梅枝がはじめて阿古屋を勤めた公演についての劇評は以下でお読み頂けます。
https://hasebetheatercritic.blogspot.com/2018/12/blog-post.html