長谷部浩ホームページ

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2019年6月15日土曜日

【劇評142】博多座へ菊之助の『土蜘』を観に行く

歌舞伎劇評 平成元年六月 博多座

菊之助は歌舞伎舞踊の名手としての地位を確立しつつある。特に今年の前半は『関の扉』(国立劇場小劇場)、『京鹿子娘道成寺』(歌舞伎座)と舞踊の大曲に敢然と挑んでいる。
六月の博多座では、五代目菊五郎が初演し、六代目によって熟した家の藝『土蜘』を勤めると聞いて取るものもとりあえず出かけた。
初日には芝居の途中で、平井保昌役の左團次が舞台に出られなくなって、いったん幕を下ろして続きをはじめるアクシデントがあったという。私の見た八日は、左團次に替わった彦三郎、彦三郎が勤めていた番卒次郎の橘太郎も安定した出来で、舞台は落ち着いていた。
病の床についている源頼光(梅枝)に薬を届けに来た侍女胡蝶(尾上右近)の舞は、華やかに終わるが、どこか不吉な低音が響いているかのようだ。学僧を名乗る智壽(菊之助)は、第一声から不気味な気配を放つ。これまでの修業を聞いて、頼光に祈祷を頼まれた智壽の全身から妖気がほどばしる。
菊之助は自らの来歴を語るが、長唄を挟んで「春の花、秋の月 人はたたえて、めずれども」と華やかであるはずの景色を語るが、怪異にこだわって、叙景の力に欠ける弱みがある。
欠点と云えばそれくらいで、後シテの土蜘の精となってからは古墳から現れた妖怪変化に変じて破綻がない。蜘蛛の糸もスペクタクルに終わせまいとの姿勢が感じられ、地霊として地下にすまう蜘蛛の不気味が、所作の端々に込められている。
眼目の畜生口もカッと決まって揺るぎがない。大曲を踊り込んできた体力、気力の充実がある。加えて、立役を勉強してきた甲斐もあり、声量や力みに頼るのではなく、内に秘めたエネルギーが舞台を圧していた。
石神をめぐる間狂言は、権十郎と橘太郎、坂東亀蔵と萬次郎がうまくからんで楽しい。代役ながら腕のある橘太郎が舞台を引き締める。
菊之助の進境を考えると、この秋には歌舞伎座で、ぜひ『春興鏡獅子』を久しぶりに観たくなった。二十六日まで。

2019年6月13日木曜日

【劇評141】三谷幸喜の新作歌舞伎はいかに。

歌舞伎劇評 歌舞伎座夜の部 

夜の部は、みなもと太郎原作、三谷幸喜作・演出の『三谷かぶき 月光露針路日本(つきあかり めざす ふるさと』。三谷には、『決闘! 高田馬場』(PARCO劇場)の名作がある。ところが意外なことに、歌舞伎座では初の作・演出。幸四郎と猿之助の技藝を見せる通し狂言となった。
ロシアの大地を彷徨い、帰郷の一念を通す大黒屋光太夫(幸四郎)と個性豊かの水主たちの群像劇となった。猿之助、愛之助、男女蔵、宗之助、廣太郎、種之助、染五郎、松之助、弘太郎、鶴松、幸蔵、千次郎。それぞれのおもしろみを書き分けるのは、三谷ならではの手腕だろう。なかでも、男女蔵を茫洋とした性格で生かしたのは出色。
ただし、実話からとった原作に忠実なあまり、日本からレニングラードへ過酷な旅が続くが展開に乏しい。幸四郎、猿之助による連作『弥次喜多』の三谷版となった。高麗蔵の怪演、八嶋智人の達者。彌十郎の実直。
教授風の松也を幕開きと結尾に出すが、この芝居をメタシアターにする意味がわからない。船親司三五郎とポチョムキンの二役を白鸚が勤める。歌舞伎だけではなく、ストレートプレイやミュージカルでも鍛えてきた柄の大きさ、貫禄が舞台を圧した。二十五日まで。

【劇評140】古典を令和に生かす。吉右衛門と仁左衛門の技藝

歌舞伎劇評  歌舞伎座昼の部 令和元年六月

歌舞伎座の六月は、伝統的な演目を揃えた昼の部と、三谷幸喜の新作で通した夜の部が並ぶ。平成のように、円熟期にある大立者が昼と夜に一本ずつ出し物をする、芯を取るような狂言立てが、むずかしくなっているのを痛感する。
昼の部は、幸四郎、松也による『寿式三番叟』。松也も踊りで芯を取るような存在となった。千歳は松江。翁の東蔵は、さすがに貫禄を見せる。さまざまな世代がひとつの舞台に乗って、新しい世の豊饒を願う。
続いて荒事。魁春の千代、雀右衛門の春に、まだ若い児太郎の八重。魁春に六代目歌右衛門を、雀右衛門に先代の面影を重ねる。このふたりの鍛えた地藝を児太郎に伝える場ともなっている。
吉右衛門の出し物は、『梶原平三』。大庭に又五郎、六郎太夫に歌六を配して、安定した舞台となった。ここでも俣野に歌昇を、梢に米吉を抜擢して、新鮮味が加わる。奴萬平は錦之助。吉右衛門の平三は、大庭、俣野の言葉を受け止めつつ、耐え、そして柳に風とかわしていく大きさがある。私の見た日だけだろうか。疲れが見えた。これほどの名優だけ体をいたわってほしいと切実に思う。大庭に深い肚を感じ、六郎太夫にひたすら娘を思う心情があふれた。
『封印切』は、仁左衛門の忠兵衛、孝太郎の梅川。八右衛門は愛之助が勤める。
仁左衛門は「おえんさん」と戸口から呼びかけるところから、色事師の風情がある。謹厳実直な商人ではなく、花街でも、もててもてて仕方ない愛嬌の持ち主をよく描き出している。
本来の向き不向きはあろうが、男の意気地を賭けた対決を、仁左衛門、愛之助が調子よくたたみかける。善と悪ではなく、現実主義者と見栄っ張りがぎりぎりで行う言葉の達引。
彌十郎の治右衛門は、ものわかりやのみこみが早いだけではなく、ふたりの行く末を心底案じている。対になる秀太郎のおえんとともに、廓の住人にも、一分の魂があると思わせる。幕切れ、梅川、忠兵衛が花道を行くとき、ふたりの手が闇に浮かび上がる。その深い思いが伝わってきた。二十五日まで。