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2016年8月7日日曜日

【劇評57】尾上右近「研の會」知盛の雄渾。

歌舞伎劇評 平成二十八年八月 国立劇場小劇場

尾上右近が盛夏に開く「研の會」も二回目。前回は「吉野山」と「鏡獅子」。今回は『仮名手本忠臣蔵』の五段目と六段目、「船弁慶」である。いずれも六代目菊五郎ゆかりの演目で、右近がいかに音羽屋の系統の芝居、舞踊を大切に思っているかが伝わってくる。
全体に右近がすぐれているのは、本格の継承をなによりも大切に思っているところだろう。彼にとっては客受けするケレンやあざとい当て込みは無縁である。六代目と指導にあたった七代目の名を汚さぬように懸命に勤める。その姿勢がはっきりと打ち出されている。
まずは五段目。鉄砲渡しでの鉄砲と縄の扱いに丁寧さがある。段取りだとあなどるのではない。三代目から洗い上げられてきた勘平の型を神妙に受け継ぐところからはじめている。種之助の千崎弥五郎も神妙で、ふたりが判官の仇討ちをめぐって、それとははっきり言葉にしないけれども、肚を探り合い、それとなく計画を知らせるあたりに若々しい侍の自負心が読み取れる。闇から財布にぐっと手が伸びて、蝶十郎の百姓与市兵衛は突然、斧定九郎によって殺害される。染五郎が斧定九郎と六段目の不破数右衛門を付き合っているために、がぜん勉強会だったはずの舞台が大きくなる。長年、芯を取ってきた役者の風格が周囲の芝居を引き立てる。今回の舞台の成功は、染五郎の力によるところも大きいだろう。
「二つ玉」。あたりは深い闇である。勘平がみずから仕留めた「見知らぬ」死骸から金を奪う件りの怖れ、おののきに、まっすぐな気持がこもって、型と気持がともにひとつになった。
さて、六段目だが、さすがに緻密な段取りを追うだけでは手に負えない部分が出てくる。米吉のお軽とのやりとりも、勘平に気持の負い目が感じられず、抑えた情愛に乏しい。勘平は確かに若くはあるが、おのれの現実に我を忘れてはならない。お才(吉弥)、源六(橘太郎)お軽、義母おかや(菊三呂)、二人侍(染五郎、種之助)、そして自分自身との距離が、鮮明に描き分けていなければならない。さらにいえば、右近の勘平はまだ自分自身の困難が強く出て、周囲の人間への気遣い、配慮、そして真実の発覚へと順をおって追い詰められていく過程を追うには至らなかった。勉強会最初の回にこのようなことをいうのは酷かもしれない。回数を重ねて身につけていくべき事どもだろう。けれど右近にはそれだけの力量とセンス、そしてたゆまぬ努力ができる役者だと信じている。菊三呂はせっかくの大役だけに内にこもりすぎず、よりつっこんで勘平を責め苛んでほしい。このつっこみがあってこそ、勘平の苦渋はより深まるのだから。
休憩を挟んで『船弁慶』。ここでも染五郎の武蔵坊弁慶が、群を抜いてよいのはもちろんである。鷹之資の義経に品格と明晰さがあり、この一行が静御前を都に帰して、逃避行へと向かう辛さ、苦しさが冒頭からよく伝わってくる。右近の静御前は、その身体のありように落ち着きがあり、踊りによって鍛えられた成果があらわれている。口跡にやや難があるが、後段の知盛の霊との描き分けを考えるとよい出来であると思う。
知盛の霊となって花道から出る。この一瞬で悪霊であるとわかるかどうかが勝負だが、私の観た回は異様な高まりと凄みが感じられた。薙刀の先が折れるアクシデントも後見の機転で難なく切り抜け、右近自身の芝居も乱れを見せなかった。勇壮なだけではなく、敗軍の将の恨みが色濃く出て、今回の勘平、静、知盛のなかではもっともすぐれている。幕切れ近く、染五郎、右近、鷹之資と三対、絵面に決まる件りも大歌舞伎の大きさがでている。本舞台に定式幕が引かれ、知盛の引っ込みとなってからも、荒ぶる魂を鎮める気持が伝わってきた。雄渾きわまりない花道の引っ込みであった。
筋書きによるとすでに来年の第三回が決まっているという。次は音羽屋の系統にはない芝居もだしてはどうか。右近は幅の広い役柄を勤めるだけの力があるだけに、単に六代目の継承を試みるだけではなく、自分自身に合った当り役を当り狂言を探る意味で「研の會」を発展させていただきたい。そう願って蝉時雨の国立劇場を出た。