五十九歳の若さで三津五郎さんがこの世を去った。
昨年の秋に転移が見つかり、今年に入ってからは厳しい状況にあると聞いてはいたが、まさかこんな日がくるとは思わなかった。
勘三郎さん、三津五郎さん、私とは同世代の歌舞伎役者が相次いでなくなり、淋しくてならない。
歌舞伎界、日本舞踊界はかけがえのない人を失ってしまった。
はじめて三津五郎さんと会ったのは、いつだったか。記憶に確かなのは、平成十年一月の浅草公会堂に出演したときだったろうか。
公会堂二階のロビーで五重塔を眺めながら、三津五郎さんを私は待っていた。
演目は『河内山』。話の内容は忘れてしまった。
まもなく、十一月歌舞伎座昼の部、七代目中村芝翫が『紅葉狩』を勤めたとき、三津五郎さんは山神を踊った。
「『紅葉狩』は実は山神のためにあるんじゃないかと思っているんです」
と、おっしゃったのが印象的だった。すでに確かな舞踊の技術は認められていたが、名人の域には遠かった。
その後、断続的にお付き合いがはじまり、平成十七年の七月『NINAGAWA 十二夜』が歌舞伎座で初演されたとき、監事室でばったり会った。
満員御礼が出て、二階の隅にも席がなかったのがかえって幸いして、私は三津五郎さんの解説で歌舞伎を観る幸運を得た。
ガラス張りの監事室は、いくら話をしても外にもれる気遣いはない。
部屋にはふたりだけだったから、女形の袖のつかいかたや歌舞伎演出の詳細まで、あれこれ訊ねつつ『NINAGAWA 十二夜』を観た。贅沢な時間だった。
この体験を岩波書店の編集者に話したところ、すぐに、歌舞伎をみはじめて二年くらいたった観客を対象に。本を編むことになった。三
津五郎さんが快諾して下さったので、一年間の取材を経て、平成二十年には『坂東三津五郎 歌舞伎の愉しみ』を上梓した。さらに二十二年には、続編と言うべき『坂東三津五郎 踊りの愉しみ』が出ている。
この平成十九年から二十一年までは、ほぼ毎月、取材のために三津五郎さんと会っていた。
三津五郎さんの話はいつも明晰で曖昧なところがみじんもなかった。
具体的かつ分析的で、文字に起こしても破綻がない。聞書きを担当する身としては、本当に楽しかった。
当時、私の歌舞伎に対する理解は正直言って浅かったと思う。そんな非力なインタビューアーを励ますように、懇切丁寧に答えて下さった。今でも感謝にたえない。
三津五郎さんも私もまだ五十代に入ってそこそこだったので、取材が終わると、時間の許す限り飲みにいった。
銀座のワインバーswitchや、クラブのブルームがお気に入りだった。
たいていはふたりだったが、彌十郎さんと三人でグレにいったこともあった。
「ひとつの店に長くいるのは野暮なので、一時間とはいられない」
と、言って笑った。屈託のない笑顔だった。
平成二十四年八月二十二日、NHKが主催した「芸の真髄シリーズ」で『楠公』『流星』『喜撰』の三番を踊り抜いた舞台が忘れられない。
名人としての舞台だった。今後どれほどの芸境に進むのか。ロビーで勤務先の大学にある日舞専攻の学生たちと興奮して話したのを覚えている。
その輝かしくも、規矩正しい踊りは、目も眩むばかりだった。
二年ほど前、私が本郷から大塚へ転居したとき報告すると、
「ごめん、僕は両親とも大塚の癌研でなくしているので、あまりいい思い出がないんだ」と、少し湿った調子で言ったのを思い出す。それから間もなく三津五郎さん自身が膵臓癌の病を得るとは、本人も私も思ってもみなかった。
三谷幸喜監督に認められて、巳之助君が『清洲会議』に配役されたときは、本当にうれしそうだった。
「本人が自分の力で取ってきた仕事です」
と、喜びを隠さなかった。
病に倒れてからは、巳之助君の舞台を観るたびに、私なりの考えをメールしていた。長男の成長を何より楽しみにしていたし、ひとかどの役者になるまでそばで見守ってやりたかっただろう。その気持ちを思うだけで、胸が張り裂けそうになる。
芸のことについては、来月の『演劇界』三津五郎追悼号に書く。今は、浮かんでくる思い出をとりとめもなく書き綴った。
冬の終わりを告げるように、今日は暖かい。青い空を掃くように白い雲が流れている。
青空と白い雲と。
三津五郎さんの人柄は、そんな彩りだったと思い返す。