【歌舞伎劇評】平成二十七年二月 歌舞伎座 昼の部
二月、八月の興行は観客動員がむずかしいと、昔からいいならわされている。それだけに今月の歌舞伎座は、興味深い演目と顔合わせの番組で、智恵を絞ったと思われる。その結果、実質のある舞台となった。
昼の部は『吉例寿曽我』から。「鶴ヶ岡石段の場」で幕を開ける。又五郎の近江小藤太成家と錦之助の八幡三郎行氏が藤原定家卿の一巻を奪い合う。こうした場面にこそ、歌舞伎の骨法とは何かが問われる。当たり前のことを、当たり前に演じることの大切さを思う。重厚な又五郎とすっきりとした錦之助が好一対となった。
屋根がぐるっと回転する「がんどう返し」は、役者の踏ん張りどころだ。装置のスペクタクルに負けない肉体の緊張が求められるが、ふたりはその重圧によく応えている。
続いて「大磯曲輪外の場」。曽我狂言おなじみの役柄が揃う。歌六の工藤祐経、歌昇の曽我五郎、萬太郎の曽我十郎、巳之助の朝比奈、国生の秦野四郎国郷、橘三郎の茶道珍齊、児太郎の喜瀬川、梅枝の化粧坂少将、芝雀の大磯の虎。歌六と芝雀が図抜けているのは勿論だが、朝幕とはいえ、若年揃いのこの配役では舞台面が持たない。五郎には荒事の大きさが必要だし、十郎には和事の柔らかさが求められるが、まだまだ歌舞伎座に期待される水準には達していない。梅枝、児太郎が健闘しているが、若女方のアドバンテージというべきだろう。こうした配役で曽我物を開け、若手の奮起を期待しなければいけないところに、現在の歌舞伎界の苦渋が集約されている。
続く『毛谷村』は、菊五郎初役の六助がすぐれている。母への孝行のために剣術師範になりたい。そのために勝ちをゆずってくれという微塵弾正(團蔵)の頼みを引き受ける。そのうえ、山賊に殺された老人から託された幼子の弥三松を、太鼓であやす。まさしく絵に描いたような善人である。菊五郎の手にかかると、六助の純朴さがなんの衒いもなく舞台上にある。芝居をうまくやろうとする野心が出たとたんに、六助役は見るに堪えないものになる例をこれまで観てきたが、菊五郎はいかにも自然体でこの役になりきっている。そればかりではない。弾正に騙されたと気づいたときの胆力、その充実が観客によく伝わってきた。まさしく剣豪の気迫であった。
加えて六助の許婚のお園を演じる時蔵がいい。さらっとした芸風が生きている。男の虚無僧の姿で「女武道」として登場してから、許婚と知ってからの身体の変わり目が巧い。
六助とお園が、亡父の敵討ちをめぐって哀しむところに、東蔵のお幸が上手の一間から現れる。踏みしめるような台詞回しで、竹本の糸に乗る。確かな地芸が舞台を支える。
左團次の杣の斧右衛門は、仲間うちたちと死体を運び込む役柄で、さしたるしどころがない役である。弾正の企みをあばくきっかけとなる件りだが、老女が殺された陰惨さがみじんもない。それは左團次に俳味といいたくなるような独特のフラがあるからだ。この役者の力の抜け具合が鮮やかな一筆書きのように見える。化粧もあえて老けに描きこまない。それにもかかわらず観客をなごませる。
菊五郎劇団のアンサンブルのよさが丸本物でも発揮され、群を抜くおもしろさであった。
さて、昼の部の切りは、幸四郎の関守関兵衛実は大伴黒主、菊之助の小町姫、傾城墨染実は小町桜の精、錦之助の宗貞とこれまでにない顔合わせで、常磐津の大曲『積恋雪関扉』が出たことを喜ぶ。
幸四郎がさすがの大きさで〽一杯機嫌で関守は」の件りでみせる酔いにおおらかさを見せる。また、大盃に星影を見てからの異変を巧く運んでいる。衣装をぶっかえて黒主になってから一気に古怪な味を出して舞台を制圧する。
それに対して菊之助は、踊りの巧さが光っている。所作の正確さ、下半身の安定、きまったときの型の美しさ。いずれも現在の女形舞踊を牽引するだけの実力が備わっている。もとより小町では冴え渡る美貌を見せ、墨染となってからも、全盛の傾城はかくあろうと思わせる。ただし、小町桜の精となってからは、異界の存在が出現したことの怖ろしさを顕してもらいたい。幸四郎の黒主に古怪をもって拮抗する課題があり、この一月の成長が楽しみだ。幸四郎、菊之助がこの大曲で同じ舞台に乗ることの意味、その大切な時間を見届けたい。二十六日まで。