長谷部浩ホームページ
2020年12月14日月曜日
【劇評173】アメリカの六〇年代と現在を結ぶ。深い考えに沈ませるミュージカル『violet』。
この四月、コロナウィルスの脅威のために、ミュージカル『violet』(ジニーン・テソーリ音楽 ブライアン・クロウリー脚本・歌詞 芝田未希翻訳・訳詞 藤田俊太郎演出)の日本版公演が中止になった。
悲運なと思ったが、まさか半年を待たない九月に、三日間とはいえ公演が実現するとは思ってもみなかった。
制作にあたる梅田芸術劇場の並々ならぬ思いがあってのことだろう。
私はロンドン公演を観ていない。
今回、はじめてみる『violet』は、人間存在の本質に深く踏み込んでいる。
まずは一九六四年の中西部アメリカ。ベトナム戦争前夜の庶民の世界を描いている。
十三歳のときに父親が操る斧で顔に傷をおった少女ヴァイオレットは、その死の三年後、タルサに向かって、グレイハウンドバスで旅立つ。
この地を拠点とするテレビ宣教師に、その傷を治し癒やしてもらいたいと真剣に願っているからだ。
ヴァイオレット(唯月ふうか、優河 ダブルキャスト)が、その旅のなかで、偶然乗り合わせた黒人の兵士フリック(吉原光夫)と白人兵士モンティ(成河)と、愛憎にあふれた三角関係に陥る。
この旅のなかで、少女時代のヴァイオレット(稲田ほのか モリス・ソフィア ダブルキャスト)と父親(spi)の思い出が交錯する。
保守的な老婦人(島田歌穂)とも交錯する。ついにめぐりあった宣教師(畠中洋)は、疲れ切ったショーマンに過ぎなかった。
アメリカの六〇年代がかかえていた深刻な問題が描かれると同時に、政治的、社会的な文脈ばかりではなく、個人の精神が病み、疲れ、蹂躙されていたことを描いている。
当然のことながら、これは当時のアメリカを描いた風俗劇であると同時に、人類がかかえこんだ普遍的な問題を扱っている。
ヴァイオレットが顔に負った傷とは、私たちにとっての「何」にあたるのかが、劇中で常に問われている。
そのメタファーは、観客個人によって違う。
そして、自分の内面に見つけた問いに対して、解答を見いだすのは、観客の仕事である。
その意味で、『violet』は、愉快なミュージカルではない。むしろ考えよと突きつけてくるミュージカルである。
藤田俊太郎の演出は、このバスの旅、そしてヴァオレットの移りゆく心象風景を描くのに、回り舞台を使う。
背景には、モノクロの映像をときに使って、現在と過去を際立たせる。万事、行き届いて、現在と過去、六〇年代と現代を行き来する回路に、人々の思いがスムーズに流れている。
ただし、問題もある。
盆を使ったために、あたかも群像劇であるかのような印象が強い。
この作品の中心はあくまで、ヴァイオレット、フリック、モンティそして父親であり、この四者を中心に見せるには、盆の働きがいささか邪魔になる。
また、原作の問題でもあるが、ヴァオレットとモンティの諍いを徹底して演出していないために、幕切れのヴァイオレットの改心が唐突に見える。
また、幕切れの上からの光を使った演出も、ヴァオレットとモンティの将来が明快に示されていない。
問題点はあるものの一級品のミュージカルであることはいうまでもない。
こうした内容的には辛い作品にもかかわらず、観客を怯えさえたりはしない。そのかわりに深く考えに沈ませるのは、作品に関わるキャスト・スタッフの心象風景が、確実に反映しているからであるように思えた。