長谷部浩ホームページ
2020年12月14日月曜日
【劇評170】 純粋な言葉が細い鋼のように。野田秀樹作・演出『赤鬼』Dチームを観て。
まっすぐに言葉を伝える。
簡単に思えるが、実はそうではない。
人 間は、正直に、じぶんの思いを言葉にのせるとは限らない。内心を隠すために、言葉が費やされることもある。
Dチームによって上演された『赤鬼』(野田秀樹作・演出 東京芸術劇場シアターイースト)を観て、そんなことを考えた。それほど、今回の上演は、戯曲の言葉を交じりけなしに伝える。愚直なまでに演劇の根本を大切にしていたからである。
私自身、これまでも、さまざまな論点からこの劇について語ってきた。野田秀樹の特質は、フィジカルシアターとみせながら、詩的な言葉がぎっしりと詰まった文学でもある。
フィジカルな面からいえば、村人たちがシャンプーをしたり、肩もみをしたり、どんな危険があっても、日常を保たなければならない現実をおもしろく観た。
こうしたさりげない場面に、まさしく新型コロナウィルスとの共生を強いられた私たちの現実が読み取れる。しかし、果てしなく繰り広げられる身体言語の氾濫、その遊びを統べるかのように、純粋な言葉が細い鋼のように張り詰めていたのだった。
思い出深い場面がある。
あの女と赤鬼とトンビが、ひとつひとつ言葉をおぼえていく。
まずは、お互いの名前を発見し、ついには「海の向こう」という理想郷を伝えようと願いはじめる。どのヴァージョンであろうとも、再演のたびに、この発見の件りに私は心を動かしてきた。
今回は、言葉が意味をまとうときの困難とパントマイムによる身体性が、実に巧みにからみあっていた。
人間はどんな絶望の淵にあっても、言葉と身体をくりだして、かすかな希望を見つけ出そうとする。次第に私たちの思いは、力を取り戻して、蘇っていく。青ざめていた顔に、血がかよっていく。そんな不思議を観たように思った。
こうした芝居を支えたのは、キャスト全体のちからだろう。
あの女の北浦愛は、決して他者に媚びることのない女のまっすぐな気性をよく伝えた。トンビの松本誠は、はじめ、しっかりとした体躯とそり上げた頭に違和感をもったが、次第に、妹思いの兄という根本的な性格を伝えた。ミズカネの吉田朋弘は、欲望と理性の間に揺れまどう人間の本性を描き出していた。赤鬼の森田真和は、初日に観たときよりも数段、怖さが増している。そして怖さのなかに、限りない優しさが感じられた。
そして、個性がくっきりとした村人たち。石川朝日、石川詩織、上村聡、近藤彩香、白倉裕二、谷村実紀、手代木花野、能島瑞穂、水口早香、茂手木桜子、八木光太郎、吉田知生、吉田朋弘、竜史が舞台の縁に座っているときも、その表情を追わずにはいられなかった。
いずれ、コロナウィルスの脅威は去り、辛い記憶も薄れ、日常のリズムが戻るのだろう。でも、忘れられないこともある。「勇気と闘志にあふれ、しかも純粋でまっすぐな舞台があったよ」。今回の『赤鬼』上演の試みは、懐かしい思い出として、そう語り継がれるだろう。