長谷部浩ホームページ
2020年12月14日月曜日
【劇評167】空白を超えて、衝撃的で、極めて思索的な野田秀樹作・演出『赤鬼』の初日を観た。
厳戒態勢のなか『赤鬼』を観た。
舞台を取り巻く状況
東京芸術劇場には、四ヶ月ぶりに訪れたが、私は自分自身の車を運転して行った。地下三階の駐車場に止めて、エレベーターで地下一階に上がる。
開演三十分前に到着したが、シアターイーストを取り囲むようにロビーには観客が集まっている。
客席は自由席で、当日渡されたチケットの整理番号が呼ばれ、順番に入る。案内の方ばかりではなく、スタッフ全員がマスクの上にフェイスシールドをかぶっている。切符の半券は、観客が自分自身で切るように指示があり、さらにアルコール消毒のボトルが待っていた。
劇場に入ると、方形の舞台の四方を観客席が囲んでいる。舞台と客席のあいだには、透明で巨大な幕が垂れ下がっている。言葉が適切かどうかはわからないが、まるで水族館に入り、水槽を観ているような心地さえした。
客席も市松模様に配置されており、隣席とは距離があり、直接前の席はない。ロビーの椅子も離れて置かれていて、隣接した通路への扉も全開になっている。
考えられるあらゆる手段が講じられているのがよくわかった。東京芸術劇場のスタッフの皆さんの努力に感謝する。
野田秀樹作・演出の『赤鬼』には、さまざまなヴァージョンがある。
一九九六年にパルコ・スペースパート3で初演されたこの作品は、九八年にはバンコク、二○○三年にはロンドン、○五年にはソウルで上演された。○四年には、シアターコクーンで、ロンドン版、タイ版、日本版の連続上演も行われた。
それぞれに特徴があり、『異質であることの意味』(『野田秀樹の演劇』河出書房新社 二○一四年所収)に詳しく書いた。
タイ版に近い冒頭の演出
今回の上演は、あの女、トンビ、ミズカネ、赤鬼の四人とともに、十四人の村人によって演じられる。冒頭、鍋やバケツホースやザル、竹竿などの日常の品を使って、祝祭的な光景からはじまる。
一見するとタイ版の演出に近いのではないかと思われた。
ところが、劇が進むうちに、私がこれまで観てきた『赤鬼』とは、まったく違う作品になっていると気がついた。
私がこれまで、この作品を肌の色や国境や文化の違いによって、人間社会には、差別が否応もなく起こる。その真実を摘出した劇だと思ってきた。
さらにいえば、同一の人種、同じ村のなかにも差別がある。あの女とトンビは、赤鬼が登場する前から、村人から隔離されて生きてきたのだ。
勿論、周到に書かれた戯曲は、単に「差別が悪い」とのマニュフェストに終わるわけではない。
危機的な状況における人肉食の問題を内蔵させ、人と鬼の境界そのものを告発する。多数派と少数派の永遠に続く対立と抗争を露わにしてきた。
ところが、新型コロナウイルスの脅威が、私たちの日常を大きく狂わせた状況下では、この上演そのものがはらんでいる問題にまで射程が届いた。
ソシアルディスタンスは、演劇と鋭く対立する。
政治家やマスメディアが頻繁に口にするソシアルディスタンスという概念は、舞台芸術と鋭く対立する。
観客と俳優、俳優と俳優の距離の問題をあからさまにする。観客と俳優をいかに隔てる対策が行われても、俳優と俳優の問題は残る。「ソシアルディスタンス」を徹底すれば、俳優がひとりだけ登場する『審判』のような作品しか上演できないことになる。
この『赤鬼』の主題は、コミュニケーションの不可能性にある。
どれほど、あるいは他の言語を理解しても、人間と人間はわかりあえない。 そのために、人間は激するまでに言葉を尽くし、お互いの距離を縮め、肌を接触する。
それは、人間がミュニケーションの不可能性を知りつつも、孤独に耐えられない生き物だからだ。
今回の上演では、この距離の問題が強く浮かび上がった。
ステイホームと政治家はいう。けれども、家族との接触を遮断することは、できない。発症して、症状が重くなり、ホテルへの隔離、入院の措置がとられて、はじめて本人と家族は切り離される。
『赤鬼』のあの女、トンビ、ミズカネ、赤鬼の四人は、ひとつ小舟に乗って大海原に出ることで、疑似家族となった。新たな共同体が生まれた。
海の向こうでは、どんなに残酷な村人も、彼らを引き離すことはできない。
演劇を作る共同体について
また、これは舞台表現を志した演劇人全体にもいえることではないか。
舞台公演を行う。そう決意して船に乗ったからには、他のだれも、演出家と俳優を、キャストとスタッフを、彼らが作った共同体を引き離すことはできない。
野田秀樹が今回の『赤鬼』で行ったのは、演劇というジャンルの特異性であり、独自性の主張である。
いかなる理由があろうとも、私たちは、稽古場と舞台での共同作業にすべてを捧げて、貫いていく。強い覚悟が感じられた。
日比野克彦の美術は、きわめてシンプルである。もし、舞台と客席を隔てる透明な皮膜を大道具として考えるならば、その試みは、距離が明快となる効果をもたらした。
また、舞台が白熱化するとともに、こうした皮膜は見えなくなり、舞台と客席が一体となることも明らかにした。
照明の服部基は、今、私たちがいる世界が、薄暗い洞窟であると明らかにしている。その壁には、私たちの幻想が投影され、幻影は現れては消える。
音楽の原摩利彦と音響の藤本純子は、重低音を充分にきかせて、根源的な不安を拭い去ることのできない現在を強く感じさせた。
舞台に熱を与えるキャスト
私が観た初日は、Aチームによって演じられた。
あの女を演じた夏子は、まっすぐな眼差しによって際立っている。あの女の精神は、いかなる邪念にも染まることなく、永遠に向かって手を差し伸べていると語っていた。
ミズカネの河内大和は、これまでひねくれたインテリとして描かれてきた役を一新した。自分の都合を追求する人間の浅ましい本質を描いて、逃げようとしていない。
トンビの木山廉彬は、狂言回しに徹して、強い自己主張を控えている。劇中では重要な役割を果たしながら、傍観者でもあって過不足ない。
赤鬼の森田真和もこれまでの赤鬼とは違っている。日比野の美術は、ウイルスを思わせる触手を与えているが、そのフラットな演技もあって、赤鬼=外国人ではなく、赤鬼は異物なのだと語っていた。
そして、この舞台に限りない熱を与えていた村人たち、池田遼、織田圭祐、金子岳憲、佐々木富貴子、末冨真由、扇田拓也、八条院蔵人、花島令、広澤草、深井順子、藤井咲有里、間瀬奈都美、三嶋健太に敬意を感じた。
演劇界は長い空白にいた。その空白を超えて、こうした衝撃的で、なお極めて思索的な秀作が生まれたことを喜んでいる。