歌舞伎劇評 平成三十年十二月 国立劇場
大立者がずらりと揃う大顔合わせには醍醐味がある。また、若手花形による清新な座組が歌舞伎界を変えていくこともある。前者には、歌舞伎座のさよなら公演があり、後者には勘三郎(当時・勘九郞)と三津五郎による八月納涼歌舞伎の出発が近年の例となる。
もとより、大立者から若手まで、すべての世代が揃った一座がもっとも安定した芝居を作ることが出来るのはいうまでもない。まして、手慣れた古典ではなく、復活狂言や新作では、充実した座組が望ましい。
今月の国立劇場は、『通し狂言 増補双級巴 ー石川五右衛門ー』(三世瀬川如皐作 国立劇場文芸研究室補綴)。「壬生村」と「木屋町二階」の復活が焦点にある。
詳細は追ってみていくとして、「山門」を趣向で町屋に移した「木屋町二階」の幕切れ、吉右衛門の五右衛門、菊之助の久吉の絵面。そして、大詰「明神捕物の場」の幕切れ、吉右衛門、菊之助に、歌昇の早野弥藤次を加えた三者の幕切れがすぐれていた、それぞれの芸容の対比、型の揺るぎなさ、分をわきまえた居所があいまって、歌舞伎の美を伝えていたのだった。特に大詰は、その前に「隠家の場」で、吉右衛門と、五右衛門女房おたきの濃厚な芝居がある。おたきの継子いじめは、五右衛門の息子五郎市を盗賊としたくなかったがためとのモドリがある。このしっかりとした芝居があってこそ、立廻りと引っ張りの見得が生きる。これも、芸力のある充実した座組あっての大詰だった。
発端に戻る。今回の「芥川の場」は、五右衛門が大悪党となった因果を示すために書き加えられたのだが、いまひとつ説得力に乏しい。京妙の奥女中しがらみから、金を奪ったのはわかるのだが、子を孕んでいるのが言葉で示されるだけでは、因果の深さ、怖ろしさを観客に伝えるのはむずかしい。
続く、「壬生村」は、米吉の小冬、身売りを軸に描く一幕。いがみの権太ではないが、吉右衛門の五右衛門は、家族に対する親愛がまずある。けれど、大きな野望に取り憑かれた人間の狂気もある。この相反するかに見える肚は、現実世界では実はありがちなことではなかったか。悪徳経営者が実は家族思いなどというのは、通例であろう。吉右衛門は、この分列を単なるお芝居ではなく、人間の業として描くだけの力量がそなわっている。歌六は、五右衛門と小冬の父次左右衛門。先の場で女中しがらみの腹から取り出した子が、実は五右衛門だったとわかる。歌六は篤実な芝居に徹している。
二幕目第一場「松原の場」、桂三の中納言氏定が、追いはぎにあって、しかも威儀を正して花道を行列していくのは、すでに桂三の手に入った芝居。続く「行列の場」では、籠にのった菊之助の久吉が初めて登場する。単なる白塗りの二枚目ではなく、天下を望む野心家としての肚を見せる。ここで、五右衛門と久吉は同根であり、恵まれぬ生まれから天下人に成り上がろうと懸命にあがいている二人の相克がこの芝居の核心にあると分かる。
三幕目「奥御殿の場」は、雀右衛門の傾城芙蓉、錦之助の足利義輝、又五郎の三好長慶、御台綾の台と実力者が揃った。そのために、荒唐無稽な趣向の場が、おもしろい遊びとして成立している。後半、五右衛門と久吉の言葉の達引きが充実している。時代と世話を自在に操る技藝が、吉右衛門の導きによって、舞台の上で伝授されているのがよくわかる。十代、二十代を音羽屋の二枚目、若女方として成長した菊之助が、今後、時代物の立役を勤めていくにあたって新境地を開こうとしている。
宙乗りによる葛籠抜けもあり、こうした芝居の充実があるから、十二月の公演としては、かつてない水準を示している。歌舞伎本来のおもしろさを噛みしめることの出来る舞台となった。二十六日まで。