一昨日の土曜日から日曜日にかけて、坂東三津五郎さんの追悼文を書いた。
雑誌演劇界の求めによるもので枚数は2800字。編集部からの依頼にできるだけ紙幅がほしいと願った。
亡くなった当日、読売新聞の求めでコメントを出した。
追って翌日、時事通信に短い追悼文を書いた。いくつかの新聞社から依頼があったが、速報性のある追悼文は、一社限りとしたいと思った。
当日は特に、かなり取り乱していたから、とても原稿を書くような状態ではなかった。
個人的な思い出は、少し落ち着いてから、このブログに書いた。
役者と評論家の関係にとどまらずに、よく呑みにいったから思い出はつきない。
書いていると、にっこり笑った三津五郎さんの顔が思い出されてならなかった。
演劇界の原稿で、追悼文はもう終わり。
気が重いことの多い仕事だけれど、私は書くことで、自分を慰撫しているのではないかと思うことがある。
もとより書いただけではない。
三津五郎さんを知る友人たちと、とりとめなく思い出話をした。
こうやって人はだんだんに、事実を受け入れていくのだろう。
五年ほど前の秋、私の同僚だった渡辺好明教授が亡くなったとき、勘三郎さんと三津五郎さん、両方と約束があった。
両者に「心が折れていて、打ち合わせを延期したい」とメールした。
勘三郎さんは、「よくわかるよ、延期しましょう」といってくれた。
三津五郎さんは、「いや延期は困る、明治座の楽屋に来て下さい」と返信が来た。
家に閉じこもっていたので、息も絶え絶え、這うようにして楽屋に行った。
聞書きの仕事をして終わったら、
三津五郎さんは、ご両親を立て続けになくした話をしてくれた。
「人はね、忘れなければ生きていけないんですよ」
と、いった。
私を家から連れだし、慰めるために、あえて呼んでくれたのだとわかった。
勘三郎の優しさ、三津五郎の優しさ。どちらも当時の私にとって救いになった。
追悼文は終わりと思ったのに、また書いている。
思い出は尽きない。