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2015年1月12日月曜日

【劇評3】 八犬伝の季節 平成二十七年一月 国立劇場

【歌舞伎劇評】平成二十七年一月 国立劇場

恒例の菊五郎劇団による正月興行である。
菊五郞のお正月は肩の凝らない狂言をという方針があって、国立劇場では古典の通しではなく、復活狂言に名をかりた創作を試みてきた。近年では『二蓋柳生実記』(平成十五年十二月)、『噂音菊柳澤騒動』(平成十六年十一月)、『曽我梅菊念力弦』(平成十八年一月)、『梅初春五十三驛』(平成十九年一月)『小町村芝居正月』(平成二十年一月)、『遠山桜天保日記』(平成二十一年十二月)、『旭輝黄金鯱』(平成二十二年一月)、『開幕鷺奇復讐譚』(平成二十三年十月)『夢市男達競』(平成二十五年一月)、『三千両初春駒曳』(平成二十六年一月)と続く。

当然のことながら、長らく上演されなかった演目には、なんらかの傷がある。複雑すぎる筋立て、今となっては趣向倒れとしか思えぬひねり。国立劇場の文芸課が中心になって、菊五郞の監修のもとに案を練ってきたが、『旭輝黄金鯱』あたりからいかにも苦しく、この路線が限界に来ているのは明らかだった。

こうした菊五郎劇団と国立劇場の歩みを受けて、今年の正月は『南総里見八犬伝』が通しで出た。この作品は、平成二十三年御園座、平成二十四年浅草公会堂、平成二十五年松竹座の上演例があり、それほどめずらしいものではない。滝沢馬琴作、渥美清太郎脚色とクレジットにあるように、昭和二十二年九月帝国劇場で上演されたときの渥美本が底本となっている。
今回の上演では、それぞれの場面に季節感を濃厚に盛り込んだのが特色となる。正月だからといって冬の情景にこだわるのではなく、各場面の変わり目を強調するために、春夏秋冬を通し狂言でたどる。

「蟇六内」を正月、「円塚山」を雪のなかで描き、「成氏館」「芳流閣」を春に、新たな創作といえる「古奈屋」を夏として、「対牛楼」は秋の紅葉、「白井城下」は春の桜という趣向である。
濃厚なドラマは不在である。八犬士の誕生と離散、そして再会。御家再興のための奮闘を描くシンプルきわまりないスペクタクルだが、季節を盛り込んだことで単調な立廻りの連続から逃れた。

菊之助の信乃を芯として、松緑の現八と小文吾の亀三郎。三者三様の個性が際立つ。
菊之助は国立劇場昨年十二月の『伊賀道中双六』の志津馬に続いて、水もしたたるような二枚目ぶりである。
立廻りでも踊りで鍛え抜いた身体が生きて、揺るぎない。
馬琴の読本が原作の芝居、スペクタクルを成り立たせる役者の身体にキレがあればよいではないかといわれれば、返す言葉もない。

ただし、スペクタクルといっても、役者の工夫によって、その場その場の芝居を作り込んでいく意志は大切である。

たとえば「蟇六内」のなかばで、蟇六(團蔵)夫婦に養われた信乃(菊之助)は、御家再興の志を胸に出立する場面がある。信乃を慕う浜路(梅枝)と志をひとつにする犬川荘助(亀寿)に見送られて蟇六の家を去る。ここにはらりと雪が降りかかる。「円塚山」の雪を予感させるほのかな雪の別れだが、突然の雪を受けての芝居が考えられていない。この別れの場面にこなしと思い入れが不十分なために、ひとときとはいえ悲しい別れが芝居になっていない。気、右之助、亀寿ばかりではない。梅枝の進境が著しいのは衆目の一致するところだが、まだまだ、工夫の余地がある。私が観たのは初日からまもない六日だったので、すでにこの場面は練り上げられていると思うが、定まった型のないこうした『南総里見八犬伝』のような芝居では、それぞれの役者が気を入れて場面を創り上げる意志がなければ、単なる段取りに流れてしまう。こうした細部に芝居の命が宿っているのを忘れてはならない。

また、今回創作された「古奈屋裏手の場」だた、菊之助の信乃は、場の頭から武張った様子が強すぎる。「芳流閣」の大胆な立廻りから川に落ち、行徳の片田舎で病をいやしている世話場なのだから、この場の前半は、よりやつれを強調して、流浪の身を浮かび上がらせたい。後半、現八(松緑)が登場して「芳流閣」で争ったふたりが協力を誓い合ってから、武士の様子を強く打ち出したい。

今回の上演では、菊五郞、左團次、時蔵が上置きのような位置づけで、世代交代を行った。松緑、菊之助とともに、亀三郎、亀寿、梅枝、(尾上)右近、萬太郎らが活躍している。特に小文吾の亀三郎は、「対牛楼」で磔りつけになるなど見せ場も多い。先行する亀三郎、亀寿世代の集中と精進があってこそ、複数の主人公が舞台上を駆け回る通し狂言が盛り上がる。より奮起を期待したいと思う。二十七日まで。