【歌舞伎劇評】 平成二十七年一月 歌舞伎座夜の部
吉右衛門の青山播磨による『番町皿屋敷』は、昨年の公文協中央コースで出た芝居である。
前半のみどころは芝雀のお菊が、恋仲にある播磨に縁談が起こったことを嫉妬して、あえて皿を割る件にある。芝雀は焦れたり、怒ったり、拗ねたりするこの役の揺れ動く心情を明解に描写していく。いったん皿を箱にしまってから紐を掛け、立ち上がってから気持ちを変えてふたたび皿を取り出し「えゝ、もういっそのこと」と柱に打ちつけて割ってしまう。
段取りに終わらず、衝動にまかせて割ったものの取り返しのつかないことをしでかしてしまった動揺までもがありありと映し出された。
吉右衛門の播磨は颯爽たる若武者である。
愛するお菊の気持ちの上での裏切りを許せない。まずは粗相であれば許すとする懐の深さを軽みのある芝居でみせる。橘三郎の十太夫に報告を受けて、お菊が播磨の本心を試すために皿を割ったとわかってからの炸裂する怒りの切っ先の鋭さ。いずれも若い世代ならではの純粋さがこもっていて説得力がある。「疑われた播磨の無念は晴れぬ」と言い切ってお菊を手に掛けるのも情にからまず、きっぱりとしている。町奴との諍いに鎗を取って駆けだしていく姿に匂い立つような色気があった。
一座総出演の『女暫』。玉三郎の巴御前、歌六の蒲冠者範頼、又五郎の鯰がいいのはもちろんだが、注目すべきは七之助の女鯰でなんともほどがよく、しかも舞台をきっちりと詰めている。こうした役はしどころを勤めるだけではなく、舞台上のありかたに要諦があるが、七之助が「演じる」のではなく「舞台にいる」ことの大切さをよく理解しているのがわかった。曽我物の大磯の虎を大一座で観てみたいと思う。
夜の部の切り狂言は、猿之助による『黒塚』。歌舞伎座開場以来はじめての出勤だが、そのこと自体をあげつらうのは意味がない。襲名以来、座頭としての風格を備えてきた猿之助の舞踊を楽しみたい。
結論から言えば、技巧を駆使し、きっちりと踊っているのはいいが、いかにも小さくまとまり過ぎている。この老女岩手実は安達原の鬼女は、あくまで超自然的な存在として舞台上にありたい。強力はもとより山伏、阿闇梨らも所詮は人間界に属する。俗な人間にすぎない。彼らがもつ常識をあざわらうかのように、人間をくらいつくす怪異を観たい。猿之助の鬼女は、巧くおどるがゆえに、等身大の役者が見え隠れしてしまっている。舞台上で怪異であることのむずかしさについて考えさせられた。二十六日まで。