長谷部浩ホームページ

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2020年4月14日火曜日

【劇評164】菊五郎の左官長兵衛、至芸。

今月の歌舞伎座は、十三世片岡仁左衛門の二十七回忌。故人ゆかりの狂言が、我當、秀太郎、仁左衛門三人の子息によって演じられる。
 私は一度だけ、十三世の素顔に接したことがある。
 といっても、南座の楽屋口。昼の部が終わって、人を待っていると、十三世仁左衛門がひとりぽつねんと立っていた。ベージュのステンカラーコートがよく似合って、まるで京都大学の学者さんのような佇まいだった。 一九九二年の二月。資料を調べてみると、十三世は、賑やかな『江戸絵両国八景(荒川佐吉)』で、相模屋政五郎を勤めている。佐吉は、孝夫(現・仁左衛門)第九の辰五郎は、十八世勘三郎(当時・勘九郎)の配役である。底冷えのする京都が思い出される。
 
 さて、二月大歌舞伎夜の部の追善狂言は日本。
 まずは、我當による『八陣守護城(はちじんしゅごのほんじょう)』が出た。
 この芝居は、十三世仁左衛門から受け継いでいる。加藤清正の忠誠を描いた短い幕だが、大船の上に座して、我當はほとんど動かない。義太夫は泉太夫。新之介、萬太郎、片岡亀蔵、魁春らで運ばれていく。我當は短い台詞を振り絞るように語る。生きていること、舞台にいることがひとつになる。歌舞伎俳優にとっては、舞台上にいること、それが芝居になると思わせる。それがまた、悲運の武将、加藤清正の無念と重なり合う。
 珍奇を追うだけが歌舞伎ではない。命のゆらめきを観た。
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 続いて玉三郎の天女、勘九郎の伯竜による『羽衣』。気品と情調にあふれた舞台だが、勘九郎の神妙な伯竜が舞台を支えている。遠くを見る目で踊りにめりはりを付けるのは、父、勘三郎譲りで、この目線による描写と色気が中村屋の人気の源泉なのだろう。

 夜の部芝居としての実質は、『人情噺文七元結』が十二分に担っている。菊五郎の左官長兵衛は、何度も観てきた。円朝による人情噺で原作も脚色もよくできている。泣かせようとすれば、いくらでも出来る演目だが、菊五郎は自在な境地で、まったく芝居をあてこまない。なのに、心が動く。心が動かされる。世話物の芝居はこうでなくてはいけない。

 序幕の長兵衛内では、雀右衛門のお兼とのやりとりで嫌味なく観客を笑わせる。團蔵の藤助もほどがよい。雀右衛門にはめずらしい裏店の女将さんだが、この人の芝居の巧さが生きている。

 角海老内は、襲名したばかりの長兵衛娘小久を莟玉が勤める。純情にして、ひたむき。儲かる訳だが、この役も菊五郎に合わせてくどくはしていない。この場で芝居を回していくのは、角海老女房に回った時蔵。修羅場をくぐってきた吉原の女将の風格があり、加えて色気があふれる。

 二幕目大川端の場は、菊五郎と五十両の金を見失って茫然自失となった梅枝の文七のやりとりに実がある。梅枝はひたむきな若者を演じて、ぐいぐいと押してくる。
なるほど、この必死さならば、死なせてはならないと大切なお金をやってしまうのも道理と思わせる。
 ここでも、菊五郎がすぐれた境地に遊ぶ。金をやろうか、それともやるまいか。単に江戸っ子の粋ではない。追い詰められたのは、文七だけではなく、この若者にかかわってしまった長兵衛なのだとよくわかった。

 大団円は、片岡亀蔵の家主、左團次の和泉屋清兵衛、梅玉の鳶頭がいい。三者の滋味があって、「めでたしめでたし」と、観客をもてなしている。

 十三世の忠兵衛に梅川をたびたび勤めてきた秀太郎が、踊りの『道行故郷の初雪』で、「封印切」のあとに続く「新口村」を見せる。心中物のなかには、冷え切った冬のさなかにさすらう男女の哀切がある。

 秀太郎の梅川、梅玉の忠兵衛。老いの花というには、若々しさが残り、けれど、若い世代ではかもしだせない諦念もある。松緑が万才の松太夫として間に入る。明るい気分をかきたてるが、かえって未来が立たれたふたりの心持ちが浮かび上がった。
 二十六日まで。