現代演劇劇評 平成三十年五月 紀伊國屋サザンシアター
喬太郎のしか芝居を観たことがある。
十二人抜きで真打に昇進したころだから、二○○○年前後だろうか。中野の小さな劇場でさん喬一門が揃っての芝居だった。喬太郎が女装して(女方とはあえていわない)観客を笑わせた。もちろん座興のたぐいだから、あれこれいうのも野暮というものだが、喬太郎は役者向きではないなと思ったのを覚えている。
あれから十八年が過ぎて、喬太郎は押しも押されもせぬ大立物となった。新作のみならず、古典でも進境を示し、今、もっともすぐれた落語家のひとりになりおおせた。その喬太郎がこまつ座に出演すると聞いて驚いた。しかも演目は井上ひさしの『たいこどんどん』である。初演では東京ボードヴィルショーの佐藤B作が演じた。ほぼ全編出ずっぱりで長時間、舞台上を動き回る。台詞も多い。並大抵の俳優でもねをあげるだろう。
江戸の末期、吉原の幇間(喬太郎)が、薬種問屋の放蕩息子(江端英久)とひょんなことから九年の流浪の旅を続ける。単なるおもしろ、おかしい道中記ではない。人間の残酷と悲惨が次第に深まっていく悲喜劇である。
ラサール石井の演出は、軽演劇の手法を取り入れ、また、井上戯曲のエロティックな側面をみつめて手際よい。
なにより、すばらしかったのは、喬太郎の身体だった。落語はせんじつめれば、ひとり芝居である。何役も演じ分け、しかも顔とほぼ上半身の表情だけですべてを表現する。台詞回しと細やかな顔の表情が悪かろう筈もない。しかし、それに加えて喬太郎は身体のこなしが素晴らしかった。群舞のときばかりではない。身体全身がかもしだす雰囲気、その均衡にすぐれていて、まさしく江戸の幇間なのであった。
これほどの地藝があって、はじめて『たいこどんどん』は上演できる。井上ひさしの実に恐ろしい企みを、喬太郎は受けて立ったのである。