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2017年5月27日土曜日

【劇評76】音羽屋坂東の輝かしい春

歌舞伎劇評 平成二十九年五月 歌舞伎座夜の部

仕事が立て込んで、歌舞伎座の夜の部を観るのが千龝楽の前日になってしまった。一部の演目をのぞくと、初日と千龝楽の前日に観たことになる。このあいだ、つらつらと考えていたのは、平成二十七年の二月に亡くなった坂東三津五郎の存在についてであった。十代目三津五郎は、先代三津五郎とともに、菊五郎劇団で育っている。今月の團菊祭は、亡き梅幸と羽左衛門の追善だから、もし、健在であれば、一座に加わっていたろう。
こんなことを繰り言のように話すのは、老人めいていやなのだが、芯をとったとしたらどんな役を出しただろうとか、今月出た演目では、あの役、この役が当り役だったなあとか、もし教えを乞われたなら、この役あたりは三津五郎が教えただろうなと、どうしても思わざるをえない。せんない思いがふつふつと浮かび上がってくるのは、歌舞伎の世代交代が、否応もなく迫っているからなのだと思う。
夜の部は『対面』から、初代楽善の小林朝比奈、九代目彦三郎の曽我五郎、三代目(坂東)亀蔵の近江小藤太、そして彦三郎の長男六代目亀三郎が初舞台で亀丸を勤める舞台である。工藤は菊五郎、十郎は時蔵、大磯の虎に萬次郎、化粧坂少将に梅枝、鬼王新左衛門に権十郎と劇団幹部、そして近い親類で固めた配役となった。初日では、五郎の持つ力感が力余って四方に飛び散っていたが、さすがに千龝楽近くなると、カドカドのキマリが定まり、方向性も定まってきて、よい五郎になった。なにより荒事の一役であるから、「怒」の一字を忘れず、エネルギーを惜しまず、全力で勤めている。歌舞伎で芯を取ることの大切さがよくわかる。自信と充実が新・彦三郎にみなぎっていた。
もとより菊五郎は本来、十郎の役者だが、工藤に回る。座頭として当然の配役だが、威厳とともに、優しさがほの見える工藤になった。時蔵の十郎は、女方だけに優しく柔らかく、弟五郎の荒々しい振るまいを見守っている。初舞台の亀三郎は、しっかりとせりふをいって、舞台終わりの口上でも、姿勢がよく場のタイミングを読んでいて頼もしい。四人の襲名で、音羽屋坂東の輝かしい春となった。
続く『伽羅先代萩』は、「竹の間」を欠き「御殿」から。「飯炊き」が出ない。
菊之助が、政岡を勤めるのは、二度目。新橋演舞場で平成二十年だったから、ほぼ十年前。若さ故の勢いがあり、我が子を嵐のような熱情の末に、結果として犠牲にしてしまった哀しみがあった。今回はよりスケールが大きく、すべてをわかっているにもかかわらず、悲劇に巻き込まれていく。我が子千松に、大事があったときは「な」と言葉にはせずにいい含めるときの切なさ。女性官僚であるゆえに、我が子大事では生きられぬぎりぎりの状況を描線太く描き出した。お主のためお家のために、職務を果たさなければならぬ責任感と、我が子千松と若君鶴千代をともに心の底から大切に思う情感。このバランスをひとつに決めて一貫させるのではなく、微妙に変化させながら、足利家の権威、栄御前に立ち向かっていく。
覚悟と気迫が素晴らしく、この十年後には、さらなる進境が期待されるほどの出来である。
八汐に歌六、沖の井に梅枝、松島に(尾上)右近、栄御前に魁春。「竹の間」が出ていないために、沖の井、松島のしどころが少なく残念であった。魁春はさすがの貫目で、ときに猛禽類のような鋭さを閃かせる。
続く「床下」では、海老蔵の仁木弾正と松緑の男之助が見せる。海老蔵はスッポンの出から、花道の引っ込みまで妖術を使う男の怪しさ、不気味さ、得体の知れなさを発散させる。
さらに「対決」では、梅玉の細川勝元がすぐれている。捌き役といっても、さわやかな弁舌ばかりを強調するのではない。海老蔵らの悪と、山名宗全(友右衛門)の贔屓振りに対して、毒舌でさりげなく追い込み、ついには肩衣を跳ねるまでもっていく手順にすぐれていた。市蔵の外記、右團次の民部。
大詰の「刃傷」は「対決」とは気を変えて、政岡による八汐の殺害と対になる。外記が仁木を指すのは、悪はおのずと滅んでいく、その天命がこの世にはあるのだという思想であろう。ここでも海老蔵が新たな境地を見せる。これまでは暴力性と野性が放縦にあって魅力的だったが、巨悪のありようがより内面化されて深いものに見えてきた。単なる野獣の暴走ではなく、悪が仁木弾正の身体に巣喰っているのだ。そう思わせるだけの深化があった。
切りは松緑と亀蔵による『浅草祭』を通す。『三社祭』だけでも肉体的に過酷な踊りだが、四変化を全力で踊り抜く。「石橋」でも奮闘している。亀蔵の踊りは、規矩正しく、正確に踊ろうとひたすら勤めていて好感が持てる。
三津五郎はこの真面目な踊りを見たとしたら、きっと喜ぶだろうな。そんなこと思いつつ歌舞伎座を後にした。