今月の歌舞伎座「三月大歌舞伎」には、十世坂東三津五郎三回忌追善と副題のついた「どんつく」が出た。
この踊りには想い出がある。十代目がはじめてこの演目を歌舞伎座で出したのは、平成十五年八月。親方は歌昇(現・又五郎)、白酒売は勘九郎(故・十八代目勘三郎)大工は橋之助(現・芝翫)藝者は福助、田舎者は弥十郎、門礼者は獅童、太鼓打は勘太郎(現・勘九郎)子守は七之助、町娘は孝太郎、若旦那は扇雀という顔ぶれである。「現」とか「故」とか書かなければならないような過去になってしまった。
十代目のどんつくは顔ではなく、全身から愛嬌があふれ出る踊りで申し分がなかった。ただ、雑誌の演劇界に書いた劇評には、奥に座っているときに、踊りの家元として厳しい目を出演者に注いでいるように見えた、とかそのような意味の評を書いた。それほど十代目は坂東の家の踊りに関して、厳しい判断基準を持っていたと思う。こうした大勢で踊るときは、遠慮もあるだろう。何から何まで差配するわけにはいかない。特に角兵衛の巳之助が出演していたとき、険しい目になったのを覚えている。
その巳之助が三度目にして、はじめて、父が踊ったどんつくを勤めた。もちろん、まだまだではあるが、大きな山に取りついた、麓から登りはじめ、四合目、いや五合目までたどりついた。こんなにも努力を重ねている。胸があつくなった。
平成十五年に戻る。劇評が出て、しばらくして、十代目と会う機会があった。
「そんなに厳しい目をしていた?」
たぶん、思い当たる節はあったのだろうと思う。私に少し気を遣いつつ、にこにこしながら訊ねた。どんなふうに弁解というか、説明したのかは、もう忘れてしまった。
ああ、三回忌か。今年の命日は、新しい著書の初校ゲラ戻しと入試の業務が重なって、墓参りにも行けなかった。家で少し静かに、十代目三津五郎を聞き書きした本を取り出して読んだ。ありがたかったな、感謝の気持ちが湧いてきた。今日の舞台も、巳之助の努力と懸命さをどんなによろこんでいるだろう。そんなことを考えた。
先月の歌舞伎座では見知らぬご婦人に「三津五郎さんの言葉を残してくださってありがとうございました」と懇切な挨拶を受けた。今日は、十代目が好きだった赤坂の店の女性とあって少しお話をした。まだ、劇場のあたりをにこにこしながら歩いているような気がしてならなかった。