現代演劇劇評 野鴨 文学座アトリエ
怒濤の新学期が落ち着き、ようやくゴールデンウィークに入った。予定を決めなければとホワイトボードに書き出したら、2日は休日ではなかった。暦通りなどどいったら、きっと学生は哀しそうな顔をするだろうなと思ったので、休講にしました。
慌ただしいなか、『たとえば野に咲く花のように』(新国立劇場)、『アルカディア』(シアターコクーン)、『野鴨』(文学座アトリエ)『二人だけの芝居』(東京芸術劇場)などを観たのだが、それぞれにおもしろく、やはり演劇の根本には戯曲があることを再確認した。その上で身体の芸術だから、俳優の魅力、技術があるのだろう。
この中では、もっとも地味な上演ではあるけれど、『野鴨』の坂口芳貞と小林勝也が、人間の滋味を感じさせる芝居で時間と空間を引き締めていた。人間と書いたけれど、このクラスの俳優になると、俳優として生きてきた年輪そのものが舞台上にあるように思う。
戯曲を読み、稽古場に立ち、本番を迎え、千龝楽がくる。その連続の中で、愉しみ、苦しみ、喜び、悲しんできた人生そのものを、味あわせてもらっている。そんな気がした。
もっとも、こうした演技を成立させるのは、ヘンリック・イプセンの言葉なのであった。家族というシステムが、人々を狂気に陥れていく。原千代海の訳、稲葉賀恵の演出とあいまって、実に深みのある人間が狭い牢獄のような家にひしめいている様子が伝わってきた。
この芝居には直接、野鴨が登場することはない。けれど屋根裏部屋にひとりいる野鴨が、人間存在の写し絵のようにも思えてきた。野性から切り離され、人間達の玩具として、ようやく生き延びている野鴨。舞台に登場しない動物がまざまざと呼びさまされたところに、稲葉演出のよさがあるのだと思う。文学座のイプセン上演は半世紀ぶりだというが、腕こきの名優が健在のうちに再度の上演を待ちたいと思い、暗い休日の信濃町を歩いた。