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2015年6月19日金曜日

【劇評22】藝が至るべき境地

 二○○五年の初演から十年。伝説の『敦 ー山月記・名人伝ー』が帰って来た。キャストの大きな変更がある。初演と翌年の再演では「名人伝」の甘縄・老紀昌を勤めた万之介が亡くなったために、万作がこの役に替わった。また、「山月記」の李徴は、万作から萬斎となった。相手役は石田幸雄で変わらない。狂言師としての萬斎が充実期を迎えたために、全体に輝かしい身体が炸裂する。能・狂言の枠組みにとらわれずに、フィジカル・シアターとして自立した舞台となった。
「山月記」は、原作者中島敦の自意識がもうひとりの主人公でもある。冒頭、萬斎が演じる敦が、三人の分身を生み出す。舞台中央奥にいる萬斎の背後から、深田博治、高野和憲、月崎晴夫が次々と同じ衣装、扮装で立ち現れる。そこには名だたる詩家をめざして、狂い、虎となった李徴の狂おしいばかりの自意識が視覚化されている。自意識は自己愛と同義ではない。己の狂いを冷酷に突き放して観る自嘲までもが含まれている。そして、虎となった萬斎の跳躍が素晴らしい。この身体のように、詞章もまた華麗な言の葉を綴りたかった。その切ない願いと煩悶が込められていた。
「名人伝」は、藝が至るべき境地についての話である。日本の藝能者はついには、なにもしないところへゆっくりと歩みを進めていく。気力体力が充実し、技術も身につき、心境も安定したとき「名手」と呼ばれる。そののち「名人」となりおおせるためには、動きすぎる身体、溌剌たる精神を封じ込めなければならぬ。若き日の紀昌を勤める萬斎は、文字が創り出すイメージと格闘する。そこには耐えることのない修行がある。その先にある藝とは何か。
今回の名人伝は、すでに「名人」たる万作が老紀昌を勤めたために、藝能がいかなる境地をめざすべきかが示された。身体は一見、静かで淀みがないかに見える。けれどもその存在はひたすら大きい。身体のフォルムの美しさや動きのシャープさを超えて、内心の描き出すイメージが観客と共有される。その摩訶不思議なありようが手に取るように差し出されたのである。