長谷部浩ホームページ

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2016年6月4日土曜日

【劇評49】言葉と音の意味は攪拌されて。『こぼれる現相』の斬新。

現代演劇劇評 平成二十八年六月 シアター・バビロンの流れのほとりにて

言葉と音、現実と虚妄について考えさせられる舞台を観た。
片岡真優脚本・出演・演出の『こぼれる現相』は、自らの虚妄をいかに持ち続けることができるのか、それを可能にするのは何か、問いかけに満ち満ちている。女(片岡)は出産したけれども、子供はどこかに消えてしまったと主張している。フリーランスのライター(高木優希)は、神話上のプーカを世界の湖で探していたが、ついに東北の十和田湖の海底で発見し、写真撮影、映像撮影に成功したと編集部に売り込んでいる。女が子供の消失は確かにあったのだとライターに訴えるうちに、ふたりの持つ虚妄が重なり合い、グロテスクな「現相」が暗闇に立ち現れる。
「現相」とは片岡の造語で、公演後に手渡されたパンフレットでは、現実のかわりに「影絵のようにハリボテで影を作って、影の持ち主の存在を信じてもらおうとする」その現れであるとする。ここには、まぎれもなく現実のリアリティを喪失してしまった私たちの現在がある。そして、その現在から目をそらさずに、演劇でもなく、音響インスタレーションでもないまっすぐな表現の場を作り出そうとする意志が強くあった。
会場には天井から白いイァフォンが垂れ下がっている。ふたりのキャストがイァフォンをつけているために、観客たちは、何の指示もないにも関わらず、ごく自然にイァフォンを装着していた。
携帯からスマホへの移行によって、いつなんどきでもイァフォンを耳にしている光景はありふれたものとなった。
舞台上のアクターとともに、このイァフォンを耳にした観客もまた、同一の場でアクトする結果となった。音楽・演出の増田義基は、もとより演劇の音響の役割から離れている。言葉の意味を補強するよりは、舞台上の人間の耳にいつも届いているはずのノイズをあたりに拡散しているように思えた。
考えてみれば、劇場のように外部のノイズを遮断した状態の場は、きわめて稀である。言葉は生活の多くの場面で音楽を含むノイズとともに耳に届き、言葉と音の意味は攪拌された状態で脳に達するのだった。その意味でも、本来の性格から実体を持たず、場所を占有しない音の存在が、この劇に深くまとわりついていた。
もとより、舞台は荒削りである。完璧という表現からは遠い。けれどここには、「現代演劇」や「現代音楽」から、軽々と逃れて、自身の表現を探る真摯な姿勢がある。のちに「実はこの舞台から見ていたといわれるようでありたい」。そんな表現を続けてもらいたいと願いながら、王子神谷の劇場を後にした。六月五日まで。

https://www.quartet-online.net/ticket/koborerugenso