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2016年1月11日月曜日

【劇評35】歌舞伎見物の主流とは。海老蔵の現在

 歌舞伎劇評 平成二十八年一月 歌舞伎座夜の部

無人(ぶじん)の一座という言い方がある。今月の新橋演舞場は、芯となるべき役者は、海老蔵、(市川)右近、獅童の三人に過ぎない。その証拠にこの新春花形歌舞伎のチラシで別格の扱いになっているのはこの三人だ。 それでも興行として成立するのだから、現在、海老蔵が持つ興行材としての力には敬服する他はない。歌舞伎は俳優を観に行く演劇だとする立場に立てば、こうした月もあっていいし、玉三郎の特別舞踊公演以外にこうした興行を打てる役者はいないのだから、その栄華を言祝ぐのも新春にふさわしい。
ただし、芝居の実質となるとまた別の考え方がある。ここでは『弁天娘女男白浪』について書く。まずは、「浜松屋」だが、海老蔵の弁天小僧、獅童の南郷力丸は、息があっており江戸の小悪党らしい空気感をまとって花道に登場する。本来立役の海老蔵にとって、「見顕し」までがやはり厳しい。いくら芝居の約束事であったとしても、こうした男性の匂いを強烈に放っていれば、浜松屋の手代、丁稚たちが騙されるわけもなく、まず前提として虚構を成立させるのはむずかしい。
「見顕し」で男とであると正体を明かしてからは、海老蔵の独壇場になる。問題は、野性はもちろんその身にそなわっているのだが、以前は一触即発の暴力装置としてあった弁天小僧が、意外に物わかりのいいお兄いさんになってしまっているところだ。これは海老蔵が自らの表現の幅を広げ、役者としての着地点を探している現在をあらわしていると私は思う。『毛谷村』の六助や『実盛物語』の斎藤別当実盛を当り役とするためには、こうした試行錯誤のプロセスがどうしても必要だと考える。
右近の日本駄右衛門は、大きさを出そうとしてかえって大盗賊の格がが見えにくくなっている。鷹之資の宗之助は神妙。
「浜松屋」はだれもが知っているとはいっても、「見顕し」という仕掛けと一応のドラマがあるからいいが、「稲瀬川勢揃い」となると、無人の一座の弱点があらわとなる。三人に加えて、市蔵の忠信利平、笑三郎の赤星十三郎。このなかでは笑三郎がもっとも「つらね」の様式性、古典としての黙阿弥に忠実であろうとして細心であり、結果として実質をあげている。
作品全体の批評としてはあからさまな欠陥があるが、海老蔵が弁天小僧を演じる、その特権性と輝きを重く見るならば、これはこれでよいのだろうと思う。芝居はもとよりひとりではできないが、ただ、ひとりを見詰めるために劇場に出かける観客は、いつの時代も少なからずいた。いや、それこそが歌舞伎見物の主流だといっても差し支えない。
二十四日まで。