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2019年1月16日水曜日

【劇評131】奮闘する海老蔵。團十郎襲名を控えて

歌舞伎劇評 平成三十一年一月 新橋演舞場

東京・浅草、歌舞伎座、演舞場、国立劇場に加えて、大阪・松竹座でも歌舞伎公演が空いている平成三十一年の一月。五座ともなれば、すべてに役者が行き渡るはずもなく、若手中心の一座や人気役者の奮闘公演の一座もある。新橋演舞場は、市川海老蔵による奮闘で、昼の部は二本、夜の部は口上を入れると三本に出演している。休演日を設けているとはいえ、獅子奮迅の働きで、この役者の自らを頼む覚悟が伝わってきた。
事情があり、昼の部は未見なので、夜の部について書く。
右團次の鳴神上人、児太郎の雲の絶間姫による『鳴神』から始まる。清新なキャストだが、水準を超える出来。右團次は明治座での初役があるから二度目だが、前半の威厳、姫が登場してからの動揺、破戒してからの俗人振り、そして、絶間姫の計略と分かってからの怒り。いずれもめりはりよく演じていて、この役がありがたい上人の転落の物語にとどまらず、超自然的な祈りで雨を封じ込める法力が、いかに大きな犠牲をともなうものかに通じているのがよくわかる。威厳に満ちた上人が、色気に溺れる落差を面白く見せればよいのではない。右團次の鳴神は、無理に大きな振れ幅を作らず、ひとりの人間としての鳴神に一貫性を与えていた。
児太郎の絶間姫は、ういういしく、天皇の勅定に従いなんとか雨を降らせ、民草を救おうとする懸命さが全体にあふれている。その分、亡き夫との思い出を語り、振りをつけて、色気をふりまくくだりに、これからが期待される。若くて美しいのはかけがえのない素質だが、その分だけ、冷ややかでふくよかな色気に乏しくなるのはいたしかたない。初役だけに、そのひたむきさがあれば舞台は保てる。白雲坊は、新蔵、黒雲坊は、新十郎。
続く『俊寛』は、なぜ、今この演目なのかと、発表になった途端、いぶかしく思った舞台。芝居に自信のある役者が俊寛役を勤めたくなるのは、もちろんよくわかる。しかし、荒事にもっとも資質を見せる海老蔵までもかと、役者の欲に圧倒された。全体に海老蔵流が貫いており、型を借りながらも、細かい段取りや肚の作り方は自在。特に海老蔵の俊寛は、目をぎょろつかせて、やつれ果てた化粧で登場し、身体と精神の衰えが、このような捨て鉢な結果を生んだ。そんなリアルな解釈に基づいているように見えた。成否はともかく、こうした大作で、新しいやり方を試す自信と気力が海老蔵に備わっていることを頼もしく思う。『俊寛』のみならず、吉右衛門という名優がいるだけに播磨屋の当り狂言を外の役者が挑むのは、大いなる勇気が求められる。伝統は大事で、伝承はもとより重要だが、破壊なくしては再創造が成し遂げられないのも確かである。
千鳥の児太郎は、昭和の『俊寛』を思わせる古風さがあって出色。ひたむきさは、ときに人を狂わせる。心理によらない千鳥であった。
右團次の基康は、事態が変わっても心境をぶらさない肚の強さがある。市蔵の瀬尾は憎々しさのなかに、杓子定規に物事をすすめなければ気が済まない性格がほのみえた。
九團次の成経、男女蔵の康頼。
そして、海老蔵の『春興鏡獅子』。シャイヨー宮の海老蔵襲名を含め、この人の鏡獅子を見てきたが、今回がもっともすぐれていた。特に、前シテ、弥生がいい。これまで、どうしても立役主体のたくましさが出ていたが、折れそうになる気持ちを鞭打ちながら、江戸城での踊りを続ける弥生の心情が全体から浮かび上がる。川崎音頭、袱紗、二枚扇、いずれも破綻ない。
後シテの獅子の精はすでに定評がある。無理に受けをとりに行かず、余裕をもっているかに見せるだけの技倆がそなわってきたように思う。孤蝶の精は、市川福太郎、市川福之助。飛鳥井は斎入。用人に新十郎、家老はッ橘。
なお、夜の部は『牡丹花十一代』が出た。実質的には清元の『お祭り』の変型。孝太郎を含め、一座総出で成田屋の繁栄を祝う。堀越勸玄と麗禾が客席を湧かせる。
のちに、海老蔵の團十郎襲名と、勸玄の新之助襲名が発表になった。慶賀の至りである。
別原稿で書くべき事柄かもしれないが、三ヶ月の襲名興行では、つねではなかなか見られない大顔合わせの舞台を期待している。二十七日。