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2019年1月12日土曜日

【劇評129】白鸚の代表作となった大蔵卿

歌舞伎劇評 平成三十一年一月 歌舞伎座昼の部

正月にふさわしい演目がある。
まず、第一は曽我物だろうし、また、三番叟もまた、祝祭感にあふれる。めでたい大団円で終わる吉田屋もまた、初春にふさわしい。 壽新春大歌舞伎、歌舞伎座昼の部は、まずは『舌出三番叟』。おおらかな芝翫の三番叟と、規矩正しい魁春の千歳。まことにめでたく、また今年の歌舞伎がはじまるのだと実感する。ただ、「舌出し」とあるが、赤い舌を出したようには思えなかった。愛嬌をもそなえた芝翫だけに、この狂言名と型が矛盾指定し待っている。
次は『吉例寿曽我』。今井豊茂補綴とあるが、黙阿弥の「雪の対面」を今月のために書き改めた作。完全復帰のために努力している福助の工藤の動きを最低限とするための工夫であろう。曾我一万は七之助。箱王は芝翫。この一対だが、七之助は柔らかなこなしで落ち着きがある。児太郎の舞鶴は、凜とした立ち姿を見せる。芝翫は稚気というよりは貫目が先立つ。そして、御簾内より福助の声が聞こえ、場内は応援の掛け声でいっぱいになる。一万、箱王の敵討ちは、今日はかなわぬ次第になるが、兄弟の無念を、福助の工藤が哀切に満ちた芝居で受け止める。支えがないとすっくと立つまでにはいかないが、回復振りがわかってほっとした。
さて、幸四郎の伊左衛門、七之助の夕霧。上方の風情には乏しいが、幸四郎の仁と柄は、つっころばしにもっともふさわしい。声もはりすぎず、夕霧を待つくだりも、さらっとやって愛嬌がこぼれる。威勢のよさ、若旦那の見栄のいじらしさがもっと観たい。七之助も位の高い太夫を演じてもう破綻がない。大役を近年勤めてきた自信がそうさせるのだろう。喜左衛門は東蔵。小声で出て、なにかあったのかと思いきや、インフルエンザで夜の部からの休演をのちに知った。かけがえのない役者であり、いつまでも舞台を観ていたい。早い回復をお祈りする。喜左衛門の女房おきさは秀太郎。さすがに廓の稼業の粋も甘いも知り抜いた人の風情があった。
昼の部の切りは、『一條大蔵譚』。檜垣と奥殿だが、白鸚に生彩がある。昭和四十七年十二月以来だと言うが、作り阿呆と内心の落差で笑いを取るやり方ではない。むしろ、忍従の日々を送っている人の辛さ、哀しさで一貫しており、観客の胸を打つ。また、側にいる常盤御前(魁春)や鳴瀬(高麗蔵)から敬意を持たれているとよくわかる。また、お京(雀右衛門)や鬼次郎(梅玉)が、大蔵卿の人となりにやがて感服していく過程が説得力を持った。平家追討が内心にあるからだけではない。憂き世の辛さを一身に受け止めている大蔵卿の人柄に、皆が共感していく。くぐもった口跡も、苦悩の表現として受け止めた。あえて受けを狙わず、ドラマの実質本位の役作りで、白鸚の代表作として残るだけの出来映えであった。二十六日まで。