長谷部浩ホームページ

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2015年9月6日日曜日

【劇評26】意欲あふれる秀山祭。

 歌舞伎劇評 平成二十七年九月 歌舞伎座
初代吉右衛門の俳号が由来の秀山祭が十年目を迎えた。
昼の部の注目は、歌舞伎座では半世紀ぶりとなる『競伊勢物語』(戸部和久補綴)。映像などはなく、演芸画報の連続写真や音源をたよりに復活したと聞く。こうした復活狂言は、補綴からはじまり、すべてを新たな創作で埋めていく作業になる。私が観た九月三日は初日の翌日。まだまだ、芝居が固まっていないが、滑稽な笑劇が一転して理不尽な悲劇へ転じていく。米吉、児太郎、京妙の三人娘の絹売りが、同輩の娘信夫(菊之助)とその許婚豆四郎(染五郎)の仲を冷やかす件り。舞台面が明るいのは、新しい世代が育ってきているからだ。信夫と豆四郎のあいだは、滑稽なくらい親密で、三人が冷やかしたくなるくらいのベタベタぶりでよい。又五郎の銅鑼の鐃八(にょうはち)がいかにも一癖ありそうな小悪党ぶりで絹売たちと対照的だ。
続く「玉水渕の場」鏡を争って鐃八と信夫がだんまりを見せるが、気力の充実ぶりがわかる。技芸のよしあしはこんなところであらわになる。
さて眼目の春日野だが、東蔵の小由(こよし)と吉右衛門の紀有常(きのありつね)が、現在の身分の違いを振り捨て、仲よくはったい茶をのむ件り、さすがに芝居になっている。この平穏な時間も長続きはしない。菊之助の信夫が琴を聞かせるが、音色に悲しみがあり、続いて有常が、信夫、豆四郎の首を落とす。残酷な結末への導入となり、惨劇を予感させた。琴の上手い下手よりも、信夫の気持ちを大切に作っている。
朝幕に梅玉の『新清水浮無瀬』がめずらしく、趣向の芝居。染五郎の更科姫、金太郎の山神の『紅葉狩』が出た。
夜の部は玉三郎の政岡による『伽羅先代萩』の通し。序幕花水橋の場、梅玉の頼兼はひたすら柔らか。ここでも又五郎は絹川谷蔵で時代物の空気を感じさせる。
「竹の間」は、松島をださずに菊之助の沖の井ひとりで、玉三郎の政岡、歌六の八汐と渡り合う台本。そのため沖の井の役割が重く、政岡の情、八汐の怨に対して冷静な女性官僚とでも呼びたくなるような造形となった。のちの「御殿」で政岡、八汐の女性性が強調されるだけに、竹の間では曲がったことが大嫌いな沖の井を貫いて、かえって芝居をさらっていく。
「御殿」は、久しぶりに飯炊きが出た。飯炊きが現在の目からするとまだるいからか、そのあとの芝居がせわしなく急ぐ。千松の死をなげく眼目の芝居は、よりたっぷりと観たい。続く「床下」は、吉右衛門の仁木弾正が花道を行くとき妖気が漂い出色の出来。男之助は松緑だが、口跡はさらに爽やかでありたい。「対決」は、染五郎の勝元に捌き役としての貫禄、そして明晰さが足りないために、仁木を押さえ込む説得力を持ち得なかった。「対決」「刃傷」の渡辺外記は歌六で、歌昇、種之助を従え、篤実な人柄を見せて上出来だった。