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2015年9月13日日曜日

【劇評27】銃と自由 野上絹代演出『カノン』の疾走感

 現代現劇劇評 『カノン』平成二十七年九月 東京芸術劇場 シアターイースト
演劇系大学共同制作Vol.3『カノン』(野田秀樹作 野上絹代演出)は、野上の戯曲の言葉に対する徹底したこだわりによって、水準を超えた舞台となった。
私はこれまで野田以外の演出家による野田作品も出来るだけ見るようにしてきた。それぞれに長所短所があったが、野田の劇作家としての能力が傑出しているために、それを超える読解を示した例は記憶にない。
今回の野上演出は、戯曲にある「走れ。何故走らない、走れ、共に盗りに行くぞ、この限りない夜の闇に潜んでいるあの『自由』を」に注目し、若い世代の俳優たちを縦横無尽に走り回らせる。この徹底した「走る」ことへのこだわりは初期の夢の遊眠社を思い出させる。舞台はつねに限られたスペースしかなく、映画とは違って演劇は「走る」表現が苦手なメディアである。だからこそ野田作品は、その「不自由さ」を逆手にとって「走る」ことによって束の間の「自由」を獲得しようとする。六大学からピックアップされてきた俳優たちは、なによりまず「走る」ことによって『カノン』の登場人物となりえたのであった。
もちろん難点がないわけではない。言葉のダブルミーニングにこだわりすぎるために、台詞が説明的に聞こえてしまう。意味の伝達よりは、間を詰めていくことを重要視しなければいけない場面もあったろう。これもまた作品に疾走感を与えるために必要な作業ではなかったか。
太郎の今川諒祐にまっすぐな精神が宿る。沙金の秋草瑠衣子には、誘惑者が持つかりそめの自信があふれている。次郎の大橋悠太には、知性と欲望のただなかで裂かれる魂があある。天麩羅判官は、野田自身が演じた困難な役だ。小島彰浩は、自分自身を突き放して嘲笑する部分がより意識されるといい。小林風の猫は、観察者としての突き放した目と、生きることの哀しさが同居している。刀野兵六の瘧師光一郎、猪熊の爺の大石貴也、猪熊の婆の青木夏実、海老の助の八木光太郎ら、実年齢と役年齢が隔たりのある役もあるが、劇の一部であり、全体であることをよく意識して健闘している。
全体を通じて、俳優の身体を駆使したシーンメーキングが、劇にスペクタクルな見る喜びを与えている。幕切れ、「銃」と「自由」を掛け合わせた戯曲の言葉を愚直に信じ、その意味を舞台上に具体化した演出の手腕は賞賛されていい。九月十五日まで。東京芸術劇場 シアターイースト。