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2019年9月20日金曜日

【劇評147】吉右衛門、雀右衛門、歌六が拮抗する『沼津』

歌舞伎劇評 令和元年九月 歌舞伎座昼の部

一年のうちで、もっも本格の歌舞伎が味わえる興行として、九月の秀山祭はすっかり定着した。もとより歌舞伎は変幻自在な相貌を持つから、コミックやアニメが原作の狂言があってもいい。もちろん、よいとは思うのだが、一方で、歌舞伎を代表する座頭が君臨する伝統的な歌舞伎も着実に続いていかなければと思う。

今月の『秀山祭九月大歌舞伎』は、吉右衛門を座頭に、仁左衛門、梅玉、魁春、東蔵と厚みのある座組で、興味深い演目が続く。

昼の部はまず『極付 幡随長兵衛』から。『公平法問諍』を観るのは、メタシアターを観るような心地がする。役者が素を演じると、その地力がよくわかる。頼義に児太郎、上人に橘三郎、坂田公平に種之助。いずれも次代をになう人材で、おもしろく勤める。世代交代を実感する。

さて、村山座舞台も中盤になってから、舞台番の新吉(吉之丞)が粋で、わざと野暮につくった坂田金左衛門(錦吾)との対照が舞台を盛り上げる。この一対を引き継ぐように、幸四郎の長兵衛、松緑の水野が登場する。そのため、幸四郎は屈託なく長兵衛を造形し、反対に松緑は、悪の凄みを漂わせる。

今回の上演の骨子には、水野と近藤登之助(坂東亀蔵)を容赦なく悪と捉えるところにある。すっきりとした、よい役者がやるから二枚目なのではない。台本に忠実に考えると、水野と近藤は、あからさまな奸計で、長兵衛を惨殺する権力者である。この大筋をはずさない構成で、白柄組と侠客の対立を、粋な江戸の風俗ではなく、人間の本質にかかわるドラマとしたのである。

この観点を貫こうとすると、二幕目、長兵衛内がむずかしい。雀右衛門のお時は情にあふれてすばらしい。歌昇の出尻も飄々とした味を出している。錦之助の唐犬もさっぱりと作っている。子役がつとめる息子が、長兵衛を引き止める件りももちろん泣かせる。しかし、全体に大きなドラマをしつらえると、この幕が人情味あふるる場として、次の水野邸へと結ぶ段取りのように見えてくる。このあたりが、芝居の不思議であろう。

三幕目に入ってからは、幸四郎の見せ場である。死を覚悟し、早桶を用意した男の意気地があふれる。ここには令和の御代には失われた「恥」の概念があり、長兵衛と水野を隔てているのは、この「恥」なのだとよくわかる。
続くお祭りは、鳶頭一人ではなく、芸者をふたり出して華やかに。梅玉が芯の梅吉、そして、藝者を梅枝と魁春が勤める。ふたりの世代差というよりは、藝質の差を愉しむ所作事となった。

そして吉右衛門の『沼津』である。

この役者は時代物の大役で現在、歌舞伎界の先頭に立つ。ところが、『沼津』の十兵衛で見せる愛嬌とその底に潜む屈託を描出して余すところがない。この演目は、三世歌六の百年忌とある。まさしく十兵衛と拮抗する平作の滋味が歌六によってよく出た。後半からの平作は、なんとかお米(雀右衛門)のために、敵の居所をつきとめたい執念が買ってくる。人のいいおやじと見えたところが、腹を切ってまで大事を成就したい人間へと変わるところに眼目があり、今回の歌六は、平作の真髄に届いている。

芝居の中心はなんといっても寝静まり、お米が十兵衛の印籠を盗み出そうとして発覚するところにある。
もちろん、金銭ずくではない。手傷を負った夫を直したいがため、印籠の薬がほしいという一心である。

それに対して十兵衛は、久作は実父、お米が妹とわかってからが上手い。商人として成功したのだから、すべては金で事態を救おうとする。
けれども、久作やお米は、金よりも敵の行方が知りたい。この双方の思いの齟齬、その食い違いは、やるせなさい。だからこそ芝居となる。

平作住居から、千本松原の長丁場が持つのは、吉右衛門、雀右衛門、歌六の地力あってのことである。
又五郎が荷物持ちの安兵衛を愛想良くつとめて、観客をほほえませる。歌昇の長男、小川綜真が初目見得。二十五日まで。