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2019年2月12日火曜日

【劇評133】初世辰之助追善

歌舞伎劇評 平成三十一年二月 歌舞伎座昼の部

二月の歌舞伎座は、初世尾上辰之助三十三回忌追善狂言が並ぶ。三世尾上松緑ではないのは、この名跡が追贈だからか。理屈はともかく私より上の世代にとっては、辰之助の追善といってくれたほうが実感が湧くし、気持ちも入る。
まずは、松緑の権太。『義経千本桜』のすし屋だが、この場だけが単独で出る場合、嫌われ者の権太が、いかに女房子供を大切にしているかがわからないために、維盛の妻内侍(新悟)と嫡男六代君の身代わりに、自らの妻子を頼朝方に差し出す不条理がどうしても伝わりにくい。松緑の権太は、母親小せん(緑)に対する甘えや騙りをおもしろく見せる。梅枝のお里は万事控えめな芝居で、この役を上品に作っている。弥助実は維盛(菊之助)を諦めてからの情愛に見どころがある。
いがみの権太と妻子が主筋ならば、維盛とその奥方、息子との再会、そして流転の運命が脇筋になるが、今ひとつ流浪の貴公子の絶望が伝わってこない。この主筋と脇筋は、お互い響き合ってこそ、立場を越えた妻子との情愛の不変性が見えてくるのだろう。
陣羽織の褒美を与えられた松緑は、花道へ去る内侍と六代君を見送るときの目つきが鋭い。「お頼みもうします」を受けての泣きがよい。
團蔵の弥左衛門が実直。芝翫の梶原平三は、肚のある人物として舞台を支えている。段取りではなく、維盛の妻子を捕らえる覚悟が見える。
続いて菊五郎の『暗闇の丑松』。長谷川伸の新作歌舞伎だが、善人だが世の中を上手く泳ぎわたれない丑松(菊五郎)とお米(時蔵)の命運が、救いようもない筋立てで語られる。序幕の鳥越二階の場が陰惨だ。実の母(橘三郎)にいたぶられるお米。味方をしつつも、DVに手を貸す浪人(團蔵)だれもが、この世の世知辛さのなかで、生きる望みを失っているとよくわかる。
二幕、板橋の切ろうに移ってから、丑松と牛夫の亀蔵とのやりとりに世話の愉しさがあり、また、喧嘩っ早い職人松也が登場してからは、いささか場が賑やかになる。この明るさを一転してお米の自死へと展開させるところが長谷川伸の真骨頂。思いのままにならぬ夫婦の悲しみを、菊五郎、時蔵、円熟の藝で見せる。
ふたりを翻弄し、騙していた料理人元締四郎兵衛(左團次)とその女房お今(東蔵)。この饐えたような雰囲気は、この年代にならないと出せない。世間的にいえば悪でも、こうしなければ生きてこられなかった世の厳しさが浮かび上がる。つまりは、この『暗闇の丑松』の世界には、善人や悪人はおらず、ただ非情な世間があるばかりなのであった。
夜の部は、『団子売』。芝翫、孝太郎の息のあった夫婦振りを見せる。二十六日まで。