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2019年2月2日土曜日

【劇評132】藤原竜也の魔術

現代演劇劇評 平成三十一年一月 東京芸術劇場

喜劇でもなく、悲劇でもなく。まして、悲喜劇でもなく。

昨日は芸劇のプレイハウスで藤原竜也の『プラトーノフ』(アントン・チェーホフ作 デヴィッド・ヘア脚色 目黒条翻訳 森新太郎演出)を観た。

はじめに目を奪われるのは、曲線が際立った傾斜舞台と宙に吊られた円形のオブジェである。

二村周作による構成舞台は、これからはじまる劇が、ロシアの大地に根ざす物語ではなく、無国籍で普遍的な物語であると告げているかに見える。けれど、その期待は人物たちが登場すると見事に裏切られる。ゴウダアツコによる衣裳は、装置とは裏腹に、伝統的なロシアをたやすく思い出させる。

そして、芝居がはじまる。
登場人物ysちは、ふざけちらしている。しかも誇張した演技である。
いったいどんなルールでチェーホフを上演しようというのか。
森新太郎の演出意図に疑いを持つ。いぶかしく、さえ思った。

藤原竜也によるプラトーノフが登場し、だれかれ構わず暴言を吐き、人間関係を混乱させる。ありていにいえば、迷惑なやつである。

やがて、どうやらこのチェーホフ未完の断片を、デヴィッド・ヘアはお芝居として仕立て挙げ、さらに森は辛い悲喜劇として演出しようとしているのではないか。
第一幕を見終えた時点では、そんなことを考えながら見ていた。

ありていにいえば、四人の女性たちが、プラトーノフという魅力的な存在を争う筋立てである。高岡早紀のアンナ、比嘉愛未のソフィヤ、前田亜季のサーシャ、そして中別府葵のマリヤが、個性はさまざまであるにもかかわらず、ひとりに男にひかれてしまう。

高岡のプライドと身を投げ出す強さ、比嘉の品位と情熱、前田の信仰と優しさ、中別府の激情と後悔。いずれも、役を自在に操っている。

しかも第二幕からは、プラトーノフは、汚れた下着姿で、紙もぼさぼさ、風呂にはいっていない設定のメイクで全身を汚している。しかも、四人の女性たちの求めるままに、その場しのぎで流されていくダメ男ぶりである。

不潔で、金もなく、優柔不断な男をなぜ、四人の女は追いかけるのか。その疑問に説得力を与えるのが、藤原竜也の不可思議な魅力なのであった。その意味では、デビュー当時から、アンビバレンツな魅力を発散してきたこの役者の現在を語るのに、これほど適切な戯曲はないとさえ思わせた。

先に私は悲喜劇と書いたが、終幕に向かって混乱はさらに深刻になり、あまりの絶望的な状況に笑うしかない。
その意味で、お互いが決して分かり合えない男と女を描いた悲劇としての相貌が浮かびあがってくる。

あるいはこう言いかえてもいい。
女性たちがしっかりとした確信を保とうしているのに対して、男性たちはなんとも情けない様相となるのは、なぜか。

浅利陽介のニコライ、神保悟志のポルフォーリ、石田圭祐のパーヴェル、西岡徳馬の大佐らが、プラトーノフの創り出す強力な磁場に抵抗できず、迷走するさまは、やはり喜劇なのか、いや、まさしく現代の鏡なのかと思わせる。

ジャンルの分類はどうでもいい。
人生に対する警句にあふれたチェーホフの殻が破られている。

人生はうんざりすることばかりだとうんざりし、でもまあ、それでも生きるしかないのだなと嘆息する。
そんな複雑怪奇な劇となった。あなどない舞台である。

目黒条の翻訳は、ロシアの人名の混迷を避けている。また、訳の調子もシンプルで歯切れがよい。目黒の父、ロシア文学の泰斗、小笠原豊樹の訳業を思い出した。

十七日まで。
その後、大阪、梅田芸術劇場の大千穐楽まで各地を巡演。