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2015年7月13日月曜日

【劇評24】海老蔵の藝域とその未来について

 【歌舞伎劇評】平成二十七年七月 歌舞伎座
海老蔵は、『勧進帳』の弁慶、『助六由縁江戸桜』の助六、『伽羅先代萩』の仁木弾正など輝かしい肉体のなかに埋蔵されている野性を解放することで評価を得てきた。その野性を発揮するべき演目は限られるために、藝域を広げられず、やむなく停滞していると感じてきた。今月の歌舞伎座で見せた海老蔵の芝居は、垂れ込めた曇り空を払う気概に満ちていて、難点はあるものの面白く観た。
まず昼の部は『与話情浮名横櫛』の与三郎だが、「見染め」は宿命の恋に落ちた坊ちゃんの空気感をよく出していた。平成十六年、平成十九年の与三郎と比べても、おっとりとした育ちが無理なく伝わってくる。
「源氏店」は、まず、玉三郎が極上のお富を見せる。湯上がりの風情といい、雨宿りする藤八(猿弥)との軒先のこなしといい、家内に入ってからの化粧を直しながらの台詞に囲い者の倦怠がある。この丁寧な仕事を受けて、蝙蝠安(獅童)と海老蔵が登場する。門口の外での退屈そうなそぶりに、強請り騙りに成り下がっても、なおも純な心を失わない男の愛嬌が感じられた。与三郎は元々、いい役者が、いい男に成りおうせるかが勝負である。台詞回しに問題があるにしても、この輝きはかけがえのないものと思う。玉三郎が海老蔵に良質の緊張感を与えているのがわかる。
多左衛門は中車だが、心理主義では解けない役柄は意外にむずかしい。獅童は生なリアリズムで勝負するしかないために、全体の空気を乱している。登場する役すべてが醸し出す場の空気が重要な芝居なのだと、改めて実感させられた。
昼の部は他に梅玉の円熟が見物の『南総里見八犬伝』と、猿之助が六変化をみせて女形に精彩がある『蜘蛛糸梓弦』。
夜の部の『熊谷陣屋』は、吉右衛門に教わったと聞くが、海老蔵が規矩正しく演じようと心がけているのがわかる。弥陀六の左團次、相模の芝雀、魁春の藤の方、梅玉の義経と現在望むべき最高の布陣を得て、ここで成果を出さなければいつ出すというのか。そんなプレッシャーのなかで、一子、小次郎を犠牲にした男の絶望がよく出ていた。また、「出」ののち本舞台にかかり、相模を叱るくだりから、この夫婦が平坦な道のりを歩いてきたわけではないとわかる。この点がすぐれている。芝雀、会心の相模であり、歌舞伎座の立女形としてのたしなみが備わってきた。左團次がまた、いい。世にまじらわず、内省を重ねつつ生きてきた元武士。その枯淡の境地がしみじみと伝わってくる。ここに至って、ついに澄んだ藝境をこの役者は手に入れたといっていだろうと思う。
墨染めの衣となってからは、さすがに海老蔵の年齢では、武将としての生を断念した諦観を示すのはむずかしい。けれども幕外に出てからがよく、「十六年は一昔、夢だ」も無理に張らず、観客の心に届けた。海老蔵がさらに藝域を広げて、古典の継承をまっすぐに進める転機となるべき七月となった。
夜の部は玉三郎演出による『通し狂言 怪談牡丹灯籠』。大西信行の脚本だが、第二幕、お国のくだりを大胆に整理し、伴蔵(中車)と女房お峰(玉三郎)のもつれ合った人生をしみじみと見せた。中車は玉三郎という場の見える演出家を得て、のびのびと芝居をしている。これほど安定した中車を観るのははじめてで、この顔合わせで『刺青奇偶』を観たいと思った。押せば引き、引けば押す。芝居の緩急にすぐれている。
狂言回しの円朝は猿之助。本職の落語家の技巧には及ばないが、ないものねだりというもの。鏑木清方の円朝像からよく盗んで、思わず、にやりとさせられた。二十七日まで。